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11 帰省②
新幹線を降りてからも、悠月はしばらく不機嫌そうだった。むすっと頬を膨らませて吊革に掴まる。
「まだ怒ってんの」
「別に」
「怒ってんじゃん」
「だってあそこまでやったら普通……期待する」
「あそこまでだって十分サービスしただろ」
窓越しに目を合わそうとすると、ふいと目を逸らされた。
「はぁ、もう、わかったよ。今日の夜な?」
「……約束だぞ」
「約束。だから我慢できるな?」
悠月はようやく笑顔を見せる。
「先生、やっぱりおれに甘いな」
「お前ね、もっと素直に喜んだらどう」
「さっきだって、先生の方が力強いんだから、おれのことなんていくらでもどうにでもできたのにさ」
「それは――」
目的の駅に着いた。電車を降りる。路線バスに乗り換え、いよいよ俺の故郷へと赴く。
駅前の市街地を離れて海へ近付くにつれ、景色はどんどん単調になっていく。稲の緑色と畑の土色、突如現れる小さな集落、神社の鳥居、鎮守の杜。
「おい、そろそろ着くから」
俺の肩にもたれて眠る悠月を揺り起こす。自家用車ならもう少し近いが、バスだと一時間弱かかってしまう。停留所で俺達を降ろし、乗客一人だけを乗せてバスは走り去った。
「これから俺の先生の家に行くから、行儀よくしてるんだぞ」
「先生の先生……?」
「怖い人じゃないから大丈夫だ。余計なこと言うなよな」
まだ眠いのか、悠月はまぶたを擦って頷いた。
集落の外れの緑に囲まれた土地に、吉永先生の家は建っている。純和風の一軒家である。敷地が広く、手入れの行き届いた庭も広く、平屋の母屋も大きい。玄関チャイムを鳴らすと、吉永先生はすぐに顔を見せた。
「いらっしゃい、啓一くん。一年ぶりですね。それと……」
俺の背後にさっと隠れた悠月を目で追い、吉永先生はにこやかに言う。
「もしかして、弟さんですか?」
「はい、腹違いの。今一緒に住んでて、どうしてもって言うから連れてきたんです。ほら、挨拶して」
悠月の背中を押して一歩前へ出す。悠月はもじもじと俺の手を握る。
「く、九条悠月です。お世話になります」
「吉永稔です。よろしくお願いしますね」
吉永先生がお辞儀をしたので、悠月も慌てて会釈をした。
玄関を上がり、いつも通りまずは奥の間へ通される。いつも通り盆の段飾りが作ってある。俺もいつも通り御仏前を供えてお参りを済ます。
「悠月くんもやってみますか?」
「いいんですか」
「ええ。ここ、座ってください」
「あのおれ、こういうの初めてで……」
悠月は見様見真似で座布団に正座する。金の座布団はふかふかで、表面はざらざらしていて、座りにくそうだ。
「お線香にろうそくの火をつけて」
俺の線香の隣に線香を立てる。鈴を鳴らし――力が弱かったか、掠れた音になった――手を合わせる。
「ありがとう。あっちでお茶にしましょう」
茶の間へ移動し、お茶とお茶菓子をよばれた。お茶は熱く、お茶菓子は水まんじゅうであった。中の餡子が透けて見える未知の物体に、悠月は少々戸惑っているようだった。
「もしかして餡子は苦手でしたか?」
吉永先生が気を遣ってくれる。
「違うんです。初めて見るので……」
「冷たいお饅頭だよ。柔らかくてうまいぞ」
俺が促すと、悠月は黒文字で一口分切って口に運んだ。
「おいしい……」
「それはよかった」
「こんなの初めて食べます。甘くて冷たくてつるんとしてて、ほんとおいしい……」
悠月はぺろりと食べ切った。
「まだありますから、もう一個持ってきましょうね」
吉永先生は台所へ立つ。
「お前、先生に気に入られたな」
「そうなの?」
「うん。まぁ、誰にでもあんな感じだけど」
「それより先生、あのお菓子もだけど、お茶もうまいな。やっぱり産地だからかな。お土産に買って帰ろうぜ」
「でもうち急須ないし……」
吉永先生が台所から戻ってくる。水まんじゅうのおかわりと、煎餅や焼き菓子を盛り合わせた菓子盆が卓上に並ぶ。
「いいんですか、こんなに」
「いいんですよ。遠いところを来てくれたお礼です。こんな時期なのでお菓子をいただくことも多いんですが、私一人じゃどうせ食べ切れませんから」
おじいちゃんおばあちゃんは孫にやたらとお菓子を勧めると聞いたことがあるが、吉永先生からすれば悠月は孫みたいな感じなのだろうか。悠月も悠月で遠慮という言葉を知らないらしく、すぐさま菓子に手を延ばす。
「悠月くんは、今何年生ですか」
「高校二年です」
「啓一くんの勤める学校と同じところに通ってるんですよね」
悠月は菓子を食べる手を止めてちらりと俺を見る。
「えと、はい。物凄い偶然ですけど、父のお葬式に行ったら七海先生がいて、びっくりして……」
「元々面識はあったんですよ。この子のクラスで古典教えてたんです。でもまさか同じ男を父親に持つなんて、夢にも思ってませんよ。最初は結構葛藤もあって」
「でも、今は一緒に住んでいるのでしょう? 家族が増えて、良いことじゃありませんか。啓一くんが東京で寂しい思いをしていないとわかって私も安心です」
「そんな、子供じゃないんですから」
「心配もしますよ。お父さんまで亡くなったら、君は天涯孤独じゃないですか。ただでさえ君は――」
ピンポン、とチャイムが鳴った。回覧板です、と声がする。吉永先生は再度席を立ち、玄関へ回った。何やら話声がする。客人はどうやら玄関に腰掛け、世間話でもしているらしい。吉永先生は台所へ戻ってきて、冷たい麦茶とヤクルトを持っていった。
「長くなるかもな」
「菓子食って待ってりゃいいじゃん」
「お前、腹減ってんの?」
「まぁ、運動したしな」
運動……新幹線でのアレか。
「てか、あの人と先生、どういう関係なわけ? いつの先生なの?」
「先生っていうか、俺の保護者だった人って感じ。俺小五で施設入ったから、そこの園長だったんだよ。卒業してからも何かと気にかけてくれてさ」
「待てよ、先生って施設育ちだったの?」
「何今更。言ってなかったっけ」
「言ってねぇ……つか、そっか。じゃあ先生のお母さんは小五の時に死んじゃったってこと? だから施設入ったのか?」
「違ぇよ、お袋が死んだのはもっと……」
そこまで言って、俺は唐突に思い出した。母の墓参りに行っていない。今まで忘れたことなんて一度もなかったのに。
「やば、行かなきゃ」
「どこに」
俺が立ち上がると、悠月も後をついてくる。玄関へ行くと、客人は帰り支度をしていた。もしかして啓一くんかい? とその老人は言う。もう帰るんですか、と吉永先生が言う。
「母の墓参りを、どういうわけかすっかり忘れてたんです。今から急いで行ってこないと」
「だからってそんな急がなくても。車で送りましょうか?」
「いえ、いいんです。ちょうどバスが来るはずなので。お邪魔しました」
悠月は困惑しているようだったが、俺が停留所へ駆けていくので、仕方なく走って後ろをついてくる。
全力で走ったが、停留所に着いた時バスはもう行ってしまった後だった。次のバスは一時間半後だ。悠月は息を切らして滝のように流れる汗を拭う。
「せ、せんせぇ……なんで急に、走るんだよ……」
「今日ここに来たのは、お袋の墓参りのためだったんだよ。マジですっかり忘れてた。墓に行かなきゃ今日来た意味もねぇ」
「墓参り?」
「俺がお前くらいの時に死んだんだ。こんな大事なこと、なんで忘れて……」
悠月の深い藍色の瞳が俺を捉える。光を反射する、生きている目だ。
「……やっぱ、行かなくてもいいか」
「はぁ? せっかく走ってきたのに」
「それより、腹減ってんだろ? 昼飯にしよう」
海のそばの定食屋で、海鮮丼を食べた。俺が何でも好きなものを頼めと言ったので、悠月はトロとイクラの載ったものを頼んだ。相応の値段はしたが、おいしかった。
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