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第72話

「どうした?今日、あまり元気なかったな」 左手の薬指の指輪に視線を落としていた結月は、穂高が紅茶を煎れたティーカップをテーブルに置く音で、はっと目線を上げた。 「ご、ごめん。ありがとう」 穂高の煎れてくれた紅茶のティーカップを包むと暖かい気持ちになり安らいだ。 「何処か具合でも悪いのか?」 「ううん...ちょっと疲れただけ。高級ショップもびっくりしたし....」 「まあ、一生物だからな。勝手に俺たちで選んだけど、デザインとか大丈夫か?」 結月の瞳を覗き込む、いつにも増して、優しい眼差しの穂高がいた。 「....うん。穂高先生と一緒、てだけで、僕、それだけで嬉しいから」 疲れていたのは事実だったので、その日は早めに就寝した。 穂高の腕の中で、紅葉が舞い降りるあの光景が脳裏に浮かんだ。 そして、穂高の寝顔を確認し、結月も瞼を閉じた。 ピンク色の花弁がひらひらと舞い降りる、満開の桜の木以外、何もない。 桜の木に片手を置き、満開の桜を見上げる少年がいた。 背丈は170はないだろうが手脚が長い、細身な少年。 長めの前髪から凛とした切れ長な瞳が見える。 結月はその横顔をしばらく眺めた。 彼と桜のコントラストに目を奪われる。 不意に、彼がこちらを向き、口元に弧を描く。 『三日後には雨らしいんだ。この桜も散ってしまうかもしれないから、目に焼きつけておきたくて』 彼の言葉に結月は気がついた。 昔、穂高と知り合ったきっかけだ。 桜に見惚れる少年に恋をした。 『....穂高先生』 『....穂高?それが、そっちでの今の俺の名前?』 暫し見つめ合い、そして、結月は頷いた。 『.....そっか。今では俺、穂高、て言うんだ....』 独り言のように彼は繰り返す。 『そっちで俺はどう?俺、ちゃんと君を守れてる?』 まだ15歳と幼いけれど見慣れた、穂高によく似た強い眼差し。 『....咲夜』 当時の穂高の名前だ。 咲夜はそっと微笑んだ。 『よく覚えてるね、もう50年以上になるのかな....時間の感覚、よくわからないけど』 桜の花弁が小降りの雨のように彼の全身を舞う。 『....当時の僕はこんな風に君に出逢い、恋をした....持病を持っていることも明かさないで』 咲夜は一瞬、きょとんとしたが、すぐに笑顔に変わった。

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