93 / 116

第93話

ひととき、頬を伝っていた結月の涙は止まった。 穂高はそっと助手席のドアを開け、結月は無言で乗り込んだ。 運転席で、穂高は言葉を探した。 結月はウィンドウの外の景色を眺めていて、表情は見えない。 「....結月。結月のお母さん、ちょっと疲れていただけだよ」 「....遠くに行きたい」 母親は子供を我が子として育てたいのだろう。αだった結月の代わりに。 化け物、その一言がいつまでも、結月の中から消えてはくれなかった。 結月自身も、好きで妊娠した訳でもない。 好きでΩに変異した訳でもない。 「....気晴らし行くか」 穂高はゆっくり車を進ませた。 山道を抜けた先。開けた丘に穂高は駐車した。 「結月に出会う前によく来てた場所。夕方は夕陽がとても綺麗で。夜は満天の星空が見えて。仰向けになって見てたらさ、嫌な事も自分も小さく思えた」 穂高に釣られ、結月も車を降りた。 「....穂高先生の好きな場所....」 「そう。何もかも忘れたい時に来てた場所」 セーター一枚だった結月に、穂高はコートを脱ぐと結月の小さな肩に掛けた。 「....穂高先生が寒くなるよ」 「俺は平気。上着、持って来たら良かったな」 腕を組み、摩りながら、パノラマの夕陽を遠目に見つめた。 「....穂高先生」 「ん?」 「車の中に忘れ物して来ちゃった、取ってきて欲しい」 「忘れ物?」 「飲み物」 「ああ、ちょっと待ってな」 穂高が買ってくれたココアを、穂高が腰を降り、車から取り出す姿を目に焼き付けるように見つめた。 「結月、ココア...」 もう無くなってるぞ、と声を上げようとして、目を見開いた。 崖のギリギリに結月が立っていたからだ。 「結月!待て!」 「...穂高先生、ありがとう」 結月の姿が見えなくなった。 全速力で走った穂高の手が結月と繋がっている。 「離して、穂高先生」 「離すもんか!」 力ずくで引き摺り上げようと、穂高の額は筋張り、多大な汗が流れた。 「離して...先生」 結月の顔は涙でぐしゃぐしゃだ。 「お前を逝かせる訳にいかないんだよ!」 「僕、化け物だから、穂高先生にもきっと迷惑かけるから、だから....!」 結月の悲痛な声だった。

ともだちにシェアしよう!