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第1話
シルバーウィークを来週に控えた九月の中頃。
篠山 匡彦 はつきあいのある税理士事務所の慰安旅行に参加して、紀南屈指の観光地である白浜 にやってきていた。昨日のうちに羽田空港に集合し、そこから昼の便で白浜空港に飛んだあとはホテルの送迎バスでそのまま宿に入った。
昨今、慰安旅行を行う会社が減っているのは金銭問題だけではない。参加したがる社員が減っているからだ。日ごろから気を使っている上司などと、誰がせっかくの休日を過ごしたいと思うだろうか。たとえそれが会社もちの温泉旅行であったとしてもだ。
参加を渋る若手と、はりきる年配者たちの溝は深い。旅行の幹事をしたことがあるものならば、そのあたりの事情も理解できるだろう。
この木本 税理士事務所も年々旅行の参加者が減りつつあった。しかし一昨年から幹事をやっている近藤 の機転により、参加率が急増している。
初日はゆっくりの出発でホテルに直行。そのあとホテルに借りた会場で簡単な報告会議を行ったあとは、一時解散だ。観光するなり大浴場に行くなり各々自由してよかった。そして夕方から社員同士の交流をはかるための宴会が行われる。女性社員のことを考慮してコンパニオンはなしだ。二次会も行わない。
翌日には観光バスで観光地に立ち寄りながら、都心部のホテルへ移動。二日目はホテルもシティホテルにかわり、部屋は誰にも気を遣わないですむシングルルームがあてがわれる。あとは自由にしろと、早々に翌日の帰路に使う新幹線のチケットを渡されて、それで解散だった。
なるべく集団行動にならないように考えられた近藤のプランは大好評で、昨年に引き続き今年も事務所のものがほぼ全員参加だという。
しかしこの社員旅行に自由があろうがなかろうが、篠山には関係ない。大切な取引先である木本から声がかけられたのなら、それで参加確定だ。つきあいだから、仕方がない。これも仕事のうちだった。
世間は大型連休をまえにしての出控えか、どこの観光地も客数が少なくなっているらしい。宿泊した温泉旅館にも、そしていまいるこの観光名所にも、客はまばらだった。
篠山は高く澄んだ空の下、頬を海風になぶられながら断崖につづく遊歩道に立っていた。ウバメガシの垣根に埋もれるように置かれた案内看板を、たばこを咥えながら見るともなしに眺めている。
観光バスから降りたあと、メンバーの多くは南にある地下洞窟や展望所へ向かったが、篠山はふと思いついて、その反対側につづいていたこの道を歩いてきたのだ。
「うわっ⁉」
風に煽られ、たばこの火もとがぼたっと腹のうえに落ちた。ちいさな燠火 が服を焦がす。
「あちっ、あつっ」
慌てて払ったそれは、服から跳ねて足もとに転がっていった。そして目で追ったさき、そこにみつけたものに、絶句する。
「……うわぁ。まじか」
眺めていた看板の支柱の後ろに、ひっそりと花束が置かれていたのだ。
白いユリをメインに青い小花を散らすように混ぜた花束が、お供えだということはひと目でわかる。このさきで大切なひとを亡くした誰かが、置いていったのだろう。花はまだ新鮮だった。
ここは白浜の観光地の中でも、ことさら名まえの知られた三段壁 だ。景観や歴史もさることながら、自殺の名所としても有名だった。今年もすでに数人が身を投げていると、ここに来るまでの車内でバスガイドも話していた。
「行くのやめておくかな……。でも時間余っているし、せっかくなんだし」
篠山はさきに向かって歩くことにした。木立が途切れ、かわりに鎖で繋がったポールが一定間隔で並びはじめる。チェーンの外された出入口をみつけると、遊歩道を離れて断崖のほうへ進んでいった。ここにきてやっと視界がひらけ、一面が青い空と海になる。
(写真は……、やめておこうか。うっかり幽霊でも写ってしまってもな……)
それでもスマホのレンズ越しにあちこち眺めていると、篠山はベンチに座る青年をみつけた。
(お、なんかいい感じのオトコ? 若いな)
好奇心のままに、画面をピンチアウトしてみる。
(顔は……、下を向いていてわかんないか。スタイルは、なかなか好みかな)
実際には脱がせてみないとわからない男の体つきを、ぼんやり想像してみる。顔をあげてくれないと、決め手に欠ける。
(あの男も俺になんて品定めしてもらおうとは思ってはないだろうがな。暇なんだからしょうがない)
あまりスマホを掲げていたらあちらに気づかれてしまうかもしれないと、スマホはいったんポケットにしまい、散歩のふりをして男のほうへ歩いていく。
ベンチに座ろうとする観光客を装いどんどんと近づいていけば、彼はなかなか整った顔をしていた。
(思った以上に美形、……というよりは美人って感じか。色、しっろい。っていうか青白い?)
この広い三段壁にはほかにも数組の観光客がいたが、その中でも彼は異質だった。
観光客ではないのだろうか。その憂いに沈んだ面持ちに、もしかしてさっきの花束を置いたヤツなのだろうかとも考える。
(あぁ。そういう感じ。まさに未亡人。喪服が似合いそう)
彼はすっと背筋を伸ばし顎を引いてベンチに座っていたが、思いつめた表情やだらりと下りた腕、そして膝のうえで緩く握られた手も頼りなく、いまにもその場に崩れ落ちそうに見えた。
(まさに触れなば落ちん風情……)
男相手に不毛な想像を膨らませながらナンパの手順を考えていた篠山は、彼の手に握られたものがなにだかわかると、ぎょっと目をむいた。
「ちょっと! あんたっ!」
急いで駆け寄ると、その右の手首を掴んで彼の口もとから遠ざけた。拍子にいくつもの白い錠剤が指から零れて地面に散らばる。
「あっ……」
「これ。お前、これはなんだ?」
「あ……えっと……」
彼の手のひらには、まだたくさんの薬が残されている。
「突然悪い。でも、場所が場所だ。もしかしてこれは睡眠薬かなんかか? ここで自殺するつもりじゃないだろうな?」
「……」
男の手が力なく垂れた。握っていた白い粒が転がり落ちていきそうになるのを、篠山は彼の手のひらごと包みこんで防ぐ。
こんなものをこんなところに残していったら、あとでアクシデントになりかねない。そして、残していってはいけないのは、この男もだ。
「おい、来い。あっちへ行くぞ」
足もとの薬もすべて拾ってポケットに突っこんだ篠山は、抗う彼の手をひっぱった。
「あのっ、もう、大丈夫ですから、もうしませんから」
「いいから、なにも考えないで、おとなしくついてこい」
「でも、あなたにご迷惑をかけるわけにはいきません!」
本人は必至に篠山の手を離そうとしているが、その力はとても弱い。掴んだ手首は女性のように細いので、力だってそんなものなのだろう。
触れなば落ちんどころかいつまでも抵抗する彼を、半ば引きずるようにして観光バスの停まる駐車場まで戻ってくると、篠山はそこに土産袋をさげた元同僚の金山 を見つけて、拾った男の手を握らせた。
「なんすか、篠山さん。このひと誰⁉」
「やっ、離してくださいっ」
「いいか、金山。コイツを絶対離すな! 逃がすんじゃんないぞ! 俺はちょっと、近藤探してくるから」
「ええ~っ。ちょっと篠山さん⁉ そんなの無理っすよ!」
「絶対逃がすなよ?」
念押しとして彼のポケットに札を捩じこむと、篠山は急いで身を翻す。
「任せてくださいって‼」
途端に聞き分けのよくなった声に振り返ってみると、抗う男の手首をがっしり掴んだお調子者が、袋を持ったほうの手をこちらに振っていた。
大きな土産を座席に置いてもいいかと頼みこみ、苦笑する近藤に許可をもらった篠山は、拾った未亡人もどきの男を観光バスに乗せた。
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