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第2話

 彼は篠山がなにを問うても答えようとはしなかったが、名まえだけは神野(かみの)と名乗った。  座席に無理やり座らせた神野は、はじめこそ神経質そうに唇を咬みしめて俯いていたが、バスが自動車道に入ってしばらくすると、こてっと篠山の肩に頭を乗せてきた。どきりとして目だけを動かし顔を覗いてみると彼はただ眠っていただけで、篠山は妙な期待をしてしまったじゃないかと肩を竦める。 (そりゃそうか。コイツはノーマルだ)  なにかの思惑があるわけがない。苦笑いをしつつ、せっかくの機会だと彼の顔をしっかり観察することにした (本当に白い顔だよな)  顎のさきがとんがっているといっていいほど細い。でも顎から頬に繋がるラインはとても美しく、男にしておくのがもったいないほど繊細なつくりだ。伏せた睫毛も長く、目の下に影をつくっている。鼻筋も整い、口角もきりっとしていて、まるで人形のようだった。 (この容姿で自殺とか、もったいないところだったな)  それにしても彼はよっぽど疲れているようだ。ふつうだったら会ったばかりの他人に、無防備に身体を預けて眠るなんてことはしないだろう。肩で静かに寝息を吐く神野を眺め、篠山はいい拾いものをした気分になった。 (どうせ捨てるつもりの命だったんだから、俺の好きにすりゃいい)  しばらく面倒をみて元気になったら、森にでも街にでも返せばいいさ。  快適に走るバスの振動と窓から入る日差しの心地よさに、篠山はひとつ欠伸をもらす。  彼がいま起きたとしても、この狭い車内の中ではなにもできないだろう。しかし降車したあとは、彼がなにかしでかさないように見張らないとならない。体力を温存するために、大阪につく二時間ほどを昼寝に費やすことにして、篠山はそっと目を閉じた。  神野の荷物はポケットに入っていた財布のみで、取りあげて中身を確認したところ紙幣は一枚も残っておらず、本当に死ぬためだけに彼が三段壁へ片道切符でやって来たことが窺えた。免許証から、彼も東京に住んでいることがわかった。だったら今夜大阪で一泊したら、そのまま彼を家に連れ帰ればいいだけだ。都内に彼の住まいがあるのならば、あとあとの面倒がどれだけ楽になることか。  昼頃に大阪市内のホテルに到着しロビーに荷物を預けたあと、篠山はチェックインが可能になる二時までに必要なものを買い揃えてしまおうと、神野の手をひっぱってホテル近くの道頓堀まででてきた。   とりあえずさきに彼の着替えと食事のことだけなんとかしておいて、部屋に入ってからできる限りでこの後先のことを片付けてしまえばいい。そう段取りをつけていたのだが、意外にもその食事と買い物に手を焼くはめになった。  なにせ神野がなんども自分の手を振りきって、逃げ出そうとするのだ。体力がないのでそのつど簡単に阻止はできるのだが、こんなことがつづくのならば彼を連れての買い物は困難だ。しかも本人は気づいているのかわからないが、精神的にも肉体的にもかなり弱っているらしく、すぐに息を切らし虚ろな瞳でがたがたと震えだす。 (買い物は、もう、あとだ。さっさと部屋に入って、こいつを休ませるか)  「なにか食べたいものはあるか?」 「…………」 「お前、普段からあんまり食ってないんだろ? 見ろよこの腕、ガリッガリ。しかも顔色悪いし、貧血おこしてるんだろ? 最後に食ったのいつだ? 今朝はなにか食べたのか?」 「………‥」  拗ねているのか意地になっているのか、それとも話す気力すらないのか――。見当もつかない彼のだんまりに篠山はしつこく問い詰めるのをやめると、彼の手をひっぱって目についた中華料理店に入った。  持ち帰り用の料理を数品注文して、それができるのを待つあいだに宿泊先のホテルに電話をかけた。二時を待たずにチェックインできるように交渉し、部屋も木本が用意してくれていたシングルからツインに変更しておく。  そうして昼食を買い終えてからさっさと戻ったホテルの部屋は、ビジネスホテルにしては思いのほか広くきれいなものだった。入室するなりゆったりしたソファーに神野を座らせ、ひとまずは部屋に用意のあったティーバックで彼のためにお茶を淹れた。 「ほら。お前、寒くもないのに、こんなに手ぇ冷たくなって」  冷えた手にカップを握らせると、香ばしいほうじ茶に神野がくんと鼻を蠢かす。この香りに誘われて彼がひとくちでもお茶を口にしてくれたら、そのあとは自然に食欲も湧くだろう。  テイクアウトした料理をテーブルに並べているあいだに計算どおり、彼は茶をすすりはじめた。  篠山はさきに自分の昼食を食べ終えると、中華粥の入った器を持って神野の隣へ座った。 「ほれっ、食え」  いい具合に冷めた粥をプラスティックのレンゲで掬って、彼の口へと運ぶ。つんとレンゲのさきで唇を突っつくと、薄い唇がおずおずと開かれた。さっと粥を流しこむと素直に飲みこんでくれたので、思ったより手はかからなさそうだとほっとする。それでも自主的には食べそうにないので、篠山はそのまま最後まで彼の口に粥を運びつづけた。  驚いたことに神野は相当眠たいらしく、粥を食べさせているあいだになんども寝落ちしかけた。粥を器から掬っている一瞬のあいだに、瞼を閉じて首を揺らしてしまうのだ。それでもレンゲを唇にあてるとうっすらと口を開くので、そんな彼を不謹慎ながらもかわいいと感じた。  そして食事が終わるとついに寝落ちた彼はぐらりと傾いて、使い捨て容器をまとめていた篠山の背中に倒れてきたのだ。 「おぉお……。すごいな、コイツ。どんだけ眠いんだ?」  彼が寝ている時がチャンスだ。篠山は神野を起こさないようにそうっと抱きあげて運びベッドに横たえると、さっさとつぎの行動に取りかかることにした。  彼はまだ命を絶とうとした理由を話してくれていない。理由がわからないうちは、その原因をとり除いてやれないのだ。彼がふたたび自殺を図ろうとする可能性があるうちは、慎重に対処しないとならないだろう。  篠山はしばらく考えを巡らせたあと、いくつか電話をかけることにした。                      *  目を覚ますと、そこには見慣れない天井があった。ぼんやりとする頭で、ここがどこだったか思いだすために室内に視線を巡らす。 「ああ。目が覚めた? 気分はどうかな? 喉渇かない? なんか飲む? 水か……、あとは緑茶、ほうじ茶、コーヒー、紅茶が作れるよ? テレビもつけようか?」  ベッドのうえで体を起こして、やっとここが篠山という男に連れて来られたホテルの一室だと思いだす。  さっき食事をとったテーブルやソファーを目に留めながら、神野はまたぼんやりとした。 「えっと、神野くん? 大丈夫、かな? 篠山はいま、買い物に出ているからね。だから俺がかわりに留守番しているの」  ふたつあるうちの隣のベッドにゆったりと腰かけて、こちらに柔らかな笑みを見せる人物は、観光バスに乗せられるまえに、篠山が話していた相手だ。確か、名まえは――。 「木本会計事務所の近藤です。あいつの元同僚で、今回の旅行の幹事もしています。なにか欲しいものとかある? なんでもリクエストしてくれていいよ?」  歳は三十歳ぐらいだろうか。自分をここに連れてきたあの強引な篠山より、彼は若くみえる。近藤はやさしい風貌に見合う、穏やかな話かたをした。  会計事務所というと理系か文系のひとが多いのだろうか。神野の職場は体育会系の人間が多いせいか、みな荒々しかった。おとなしいひともいるにはいたが、それでもこの近藤ほど、物腰が柔らかいひとはいない。 「とりあえず、はい。これはコーヒーね。熱いから気をつけて」  簡易キッチンで淹れたらしいコーヒーを、そっと握らせてくれる。 「で、これはチョコレート。疲れがとれるから食べておきな」  つづけて、砂糖とミルクはどうする? と聞かれると、「なくていいです」と素直に声がでた。  朝、白浜で篠山に「離してほしい」「もうしない」と訴えたとき以来、はじめてまともに発した言葉だ。  近藤が、おや? というふうに片眉を上げた。バスに乗るまえからずっと黙っていた自分がようやく口を開いたことに驚いているようだったが、神野自身も自分の喉からするりと声が出たことにびっくりしている。  窓の外はまだ明るかった。死ぬつもりの自分が、時間を気にするのも変なことだと思いつつ、どこかに時計がないかと首を巡らす。 「今まだ三時だよ。バスの中とこことで、けっこう睡眠がとれたかな? 少しは顔色がよくなったみたいだし。――なにか食べたいものある? あいつに連絡いれたら、買ってきてくれると思うけど?」 「あの、いいです。俺もうここ出ますから」 「あ―……。ごめん。リクエストをなんでも聞くと云っておきながら悪いんだけど。それだけは許せないんだよ。君を心配した篠山に見張っておくように云われて、俺はここにいるんだから」

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