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第49話

 だったらと、セックスのあと善は急げと神野に告白して「つきあわないか」と告げたのだが、しかし彼は考えもせずに断りをいれてきた。しかも、話しのつづきは起きてからでいいか、という考えも甘かったようだ。まさか書置きひとつ残して出ていくとは予想もしなかった。  それでもまたすぐに彼に会えるのなら、いい。早々に話をつけられたら週のはじめには爽快な気分で仕事に打ちこめるのだから。仮にフラれて失恋したとしても、結果が得られず燻りつづけるよりは、なんぼもましだ。  しかし今朝のタイミングを逃して、これでまたしばらく神野に避けられでもしてしまったら話しがつけられないではないか。そうなるといろいろと、もういろいろと問題がでてきてしまって、自分は精神的ダメージと過労のせいで倒れてしまいそうだった。  それで篠山はリビングの時計を見てひとつ溜息を吐くと、彼を追うことを選んだのだ。  身を切るような寒さのなか、もしかしたら途中で彼に追いつくかもしれないと思い、やや歩調をはやめてアパートへの道を歩いた。それでも会えずじまいでついにアパートの敷地間近までやってくると、金木星の垣根の向こうにぼけっと突っ立ている神野をみつけた。 「神野!」 「篠山さん⁉」 「おい、待て!」  振り返った彼はあろうことかそそくさと逃げていこうとした。なぜ逃げるんだ、と困惑しつつも、リーチの差で簡単に腕を掴んで捕らえてしまう。 「放してくださいっ」 「こら、大きな声をだすなよ。近所に響くだろ?」  細い腕を振りまわして暴れる彼に、こいつと出会ったときにもこんなシチュエーションがあったなと懐かしみながら、さて、どうしようかと考えた。  時間が時間だ。ゆっくり話たいと思ってもこのまま彼らの部屋にあがれば、春臣を起こすことになる。それでは春臣がかわいそうだし、なによりも話が彼に筒抜けになるのは、都合が悪い。下手な結果を招いて、向こう何年も春臣に揶揄われつづけるのはごめんだった。春臣に見つからないうちにさっさと家に連れ戻ろう。 「ほら、帰るぞ。てか、お前ここでなにしてたんだ?」  近所迷惑を考えてか、もがきながらも静かになった彼に訊く。 「べつに なにもしていません。篠山さん、手を離してください。もう帰りますから」 「いいや。ちょっとお前に話があるから、(うち)に戻るぞ」  マンションからここまで歩いて十分もかからないというのに、自分よりも随分さきに出てきていた彼がここにいるといことは、けっこう長い時間ここで立っていたことになる。  手をとって確かめてみると、やはりそれは氷のように冷たくなっていた。篠山はその手を握ると自分の手ごとコートのポケットにいれてしまう。  よく見れば神野は鼻の頭も寒さで赤くしていて、篠山にマフラーをもってこなかったことを失敗だと思わせた。風邪をひかすまえに、さっさと帰宅するしかない。 「ほら、ちゃんと歩け」 「話ってなんですか? ここでしてください」 「……気になっていたことがある」  引っぱられてぐずぐず歩く神野は、すぐにでも足を止めてしまいそうな雰囲気だ。これ以上ごねられて逃げられるまえにと、篠山は話しを切りだした。 「お前、なんで泣いていたんだ?」 「――気持ちよすぎたんです。ただ単に生理的なものですよ」  云ってぷいっと横を向いた彼は、ついに足を止めてしまった。もうひっぱっても歩こうとしてくれない。ちょうど金木星の垣根まで戻ったところだった。アパートの敷地からすら出ることが叶わないとは……。 「違う」 「違いません。なんで、本人が云っていることなのに違うとか云うんですか」 「だって、違うだろ? ――お前、悲しそうな顔してたじゃないか?」 「――そんなこと」 「寝るまえにも、目に涙溜めてただろ? 俺に云いたいことがあったんじゃないのか?」 「…………」  しばらく地面を睨みつけながら黙りこんだ神野は、ようやく口を開いたかと思ったら、また「離してください」と云って、ポケットの中から手を引き抜いた。 「篠山さんのところには今日、また昼頃に行きます。春臣くんも、遼太郎さんも、末広さんも、みんなでご飯食べましょ。きっと篠山さんの気分も、それで晴れますよ」  それだけ云うと、もう用は終わったとばかりに身を翻した神野を、篠山はまたもやひっ捕まえて、今度は腕の中に収めた。これなら寒いのもましだろう。 「やっ」  背の低い彼の頭がちょうど鼻さきにあり、もがかれると髪の毛が擽ったい。じっとしろと、頭を押さえこむとアパートに帰るんだと云って、胸をどんどん叩かれた。 「みんなで飯を食うのは、お前と話が終わってからだ。それまではお前だけでいい。話したい。――なんでいま、お前はそんな泣きそうなんだって訊いているんだよ? なにがそんなにつらいんだ?」 「……せん」  頭を抑える力が強すぎたらしく、彼がやっと口にした言葉は衣服に吸いこまれてしまった。 「あぁ、悪い」  ちょっと力を緩めて、顔が胸から離れるようにしてやると、顔の向きを変えた神野が洟をズズッとすすった。赤い目にはうっすら涙が浮かんでいる。 「ほら、もっかい云え」 「私は、上手くできませんでした。昨日仕事、うまく云ってないって。落ちこんでるって――」 「俺がか?」  いったい誰の話をしているんだ、と首を捻りながら問うと、神野はこくんと頷いた。  そう云えば昨日は日中、一心堂の領収書の件でたいへん面倒な思いをしたな、と思いだす。一心堂のおやじがこちらが領収証を一枚紛失させたと事務所に怒鳴り込んできたのだ。そんなわけがないと検証した結果、それは彼の勘違いだと納得してもらえたが、篠山は彼が問題の商品――ソファセット一式だ――を買った店を探しだし領収書を切ってもらうのにひと苦労した。  はじめから彼がもらったという領収書なんてものは存在しなく、しかも彼が商品を買ったという家具店もまったくの勘違いで、篠山は都内の店を何軒も回るはめになった。 「ああ……」  思いだすだけでもどっと疲れがぶり返す。 「たしかに昨日は最悪だったな……」  その情報の発信元は遼太郎だろう。 「あぁ、それで陣中見舞いな」  また胸の中でこくんと頷いた神野がいじらしく思えて、篠山は彼のちいさな頭を撫でてやった。 「でも気の利いた言葉もかけることができませんでしたし、セ、セックスだって、私がもっとちゃんとやれていたら、あなただって、今ごろもっと気分がよかったはずなんです」 「お前、そんなこと考えて誘ってきたのか?」  今度は彼は頷きはしなかった。しかしかわりに胸に顔を埋めてきたので、それが正解だとわかって絶句する。  神野のような鈍い人間が誰かの感傷を癒そうとするには、ちょっと荷が勝ちすぎるのではないだろうか。しかもおそらくその感傷の原因とやらもはき違えているに違いない。それどころか、存在しない感傷という幻影を勝手につくりだしていそうだ。  現に自分は仕事はハードだが順調であるし、失敗などしていない。だから微塵も落ちこんでなどいなかった。それでも彼に自分が調子悪そうに見えたのだとすれば、その原因はただ単に、過労と寝不足だろう。  セックスにしてもそうだ。なんの手練手管もないくせに、それを身体を使って自分を慰めようと、よくもまぁ思いついたものだ。  なんて不器用なやつなんだ、と呆れていると、「遼太郎さん」と、彼は遼太郎の名まえを口にした。 「あのひとなら、きっとうまくできるんでしょう?」 「えぇ? なんで遼太郎が引きあいにでてくるんだ」  そこで、前々から春臣にはぐらかされていた質問の答えにいきあたり、「あぁ」と肩を落とす。 (やっぱりあの日、こいつは俺が遼太郎と客間でしていたことに気づいていたのか。そりゃ家にいてたら気遣いも倍の程だっただろう。マンションを出ていくと云いだしても仕方ないわ)  神野は文句も云えずに、自分の存在が邪魔になっているのではないかと悩んでいたのだろう。篠山はかわいそうなことをしてしまったと、心をこめて彼を抱きしめなおした。

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