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第48話

「……冗談は、やめてください」 「冗談なんかじゃないぞ?」 「じゃあまた、私のこと揶揄っているんですか?」  苛つきが表面にでないように、できる限り声をやわらげて問う。 「ひどいな。まぁ、いいや。話はまたあとで。疲れた。もう寝よう」 「遊び相手にちょうどいいって云うなら、わざわざつきあう必要なんてないんです。そんなこと云わないでください。それとも、わ、私のこと、好きだとでも?」  訊いた傍から、答えなんて聞きたくないと思ってしまい、「もう寝ます!」と声を荒らげた神野は、頭のさきまで布団を引っ張りあげた。  否定の言葉なんて、もちろん聞きたくない。それにたとえ冗談であっても、あんなに自分が我慢した言葉を、つらっと吐かれたりしたら腹が立つし、泣ける!  それでも篠山から離れることはせず、ぎゅっと彼のシャツの裾をつかんで肩口に顔を埋めた。  自分でも年甲斐のないひどい癇癪だと思ったのに、篠山は布団のうえから、数回頭をやさしく撫でてくれて、気にしたふうでもない声で「おやすみ」と囁いてくれた。                   * 「寒いぃ」  ぴゅうっと風が吹き抜けていった拍子に首を竦めた神野は、背中に走った痛みに、「うぅっ」と呻いた。節々もがくがくしている。  篠山が寝ついたところでさっさと起きるつもりだったのだ。それなのにうっかり朝まで寝てしまった神野は、目が覚めるなり足を忍ばせてマンションをでてきた。  時間はまだ五時台。日の出には時間があるが、始発電車は動いているようで、風がどこかの踏切の警告音を運んできていた。  週末の早朝なのでひとは少ない。さっきすれ違った若者のグループは、昨夜どこかで遊んできたその帰りのようだった。  いまから帰って布団に入っても、時間が中途半端だなと思った神野は、とぼとぼ歩きながらどうしようと、これからの算段をはじめた。  週末はいつも、春臣の仕事であるアパートの共有スペースの掃除を手伝っている。なんの用事もなければ大抵土曜の午前中にやってしまう掃除は、朝食のあと十時くらいからはじめるのだ。 (一度布団に入ってしまったら、起きられない気がする……)  頼まれているわけではないので、掃除をするのに春臣から誘われることはない。うかうか寝ていると、知らぬ間に彼はひとりですませてしまうに決まっていた。  なんならこのままひとりで掃除をして、それから家にはいろうか。 (よし、そうしようっと)  どこもかしこもぎしぎしと痛む身体だって、動かしているうちにマシになりそうだ。  それから午後には、昨日春臣が云っていたように買い物をして、また篠山のマンションへいくことになるだろう。  ふつうの顔で彼に会えるだろうかと心配になるが、まぁ、遼太郎や春臣がいてくれるならなんとかなるかもと、気を取り直す。   眠りにつくまえに篠山は神野の耳に口づけて云ったのだ。「つきあわないか」と。 ――つきあわないか?  その言葉の意味はなんだ? いまちょうどいい相手がいないから? そして俺が手近にいて、セックスが好きそうで、いつでも相手になりそうだから?   そのセリフの次には、あの甘い声で、そして仕草で、ひょうひょうとお愛想に「好きだ」とつづけて云うつもりだったのだろうか。  好きだって言葉を、――自分があんなに我慢した言葉を、篠山に安易に口にされでもしたら、自分は癇癪を起こすだろう。いまだってこうして思いだしているだけで泣けてくるくらいだ。  神野はちいさく口をひらくと、冷たい空気を少しだけ吸いこむ。 「……好き」  そして試しに呟いてみた。 「篠山さんが好きです」  ずっと我慢していた言葉を吐きだすと、せつなくて胸が痛んだ。  このセリフを彼に抱かれたときに云えていたら、あの甘くて蕩けそうなセックスに、さらに精神的な解放感まで加えられたに違いない。天にでも昇るような至福に包まれたのかもしれないなと、想像して苦笑した。  でも伝えられるわけがない。  好きだとうっかり口にして、彼をげんなりさせたり、重いと思われでもしてしまえば、元も子もない。これ以上篠山の負担にはなりたくないし、万が一でも彼に罪悪感を持たせるわけにはいかなかった。  それにもしそんなことを口にして、彼にそんなつもりはなかった、と否定されてしまうと、自分は耐えられそうにない。   それなのに、なにが「つきあわないか」だと?  (ばかばかばか。篠山さんのバカ!)  無神経。無節操。エロがっぱ。  彼のために、昨日の自分はとても頑張った。一生懸命近藤の身代わりを務めた。彼を興ざめさせないように、いろいろ我慢した。あんなに頑張ったのに――。  それなのにあの男は……と、また堂々巡りの問答をいちからはじめそうになって、そこでふと、神野は足をとめた。  いや、ちょっとまて。  自分は本当に彼に「好きだ」と口にしなかったのだろうか? うっかり口を滑らせてはいないか? ぎくっとして顔を強張らせた神野は焦燥感に唇を咬みながら、恐る恐る自分の中の記憶をたどっていった。  じきに脳裡に蘇る数時間まえの己の嬌態に、頬が赤らんでくる。相変わらずの節操のなさに滅入りつつも、記憶の底を突いてみると……。 ――好きだよ。  そんな言葉が鼓膜に響いた気がしてくる。気のせいだろうか。もしくは自分は寝たあとに、そんな夢でも見たのだろうか。  よもや、それは意識を手放すまえに本当に己の口からでた言葉だったのではないか。  「うそ…‥」  口に手をやり蒼くなる。 「や…‥、俺、云った⁉ うそっ、うそっ」  だから、篠山は気を遣って「つきあうか」と、あんなことを云いだしたのか? 同情して? それとも浮薄な気持ちで? 「どうしよう……、どうしよう…‥」  声は頼りなく、いまにも涙色に染まりそうだった。                     *  リビングの扉が閉まる音で目が覚めた篠山は、腕の中から神野がいなくなっていることに気がついた。トイレだろうと思ってすぐにまた目を瞑ったのだが、それからしばらくしても彼が戻ってこないので、まさかと思ってベッドから出て探してみたのだ。  案の定、神野は家から姿を消していて、ダイニングテーブルの上に書置きだけを残していた。  それには昼にまた来るというようなことが書いてあったが、そう云いつつもぱったり姿を現さなくなるようなことを、彼は平気でする。  ここ数ヶ月の間に、彼の態度と行動がころころと変わるところを、自分はなんども見てきていた。つぎは二、三日顔を出さなくなるのだろうか、それとも二週間? 下手すると一カ月だとか云わないか。  神野とはちゃんと話さないといけないと思っていたのだ。昨夜がそのいい機会だったのだろうが、それはまたそれ、彼にうっかり乗せられて、そして彼にうっかり乗ってしまっていた。  まぁそれでも、結果それでよかったのだと思っていたりするのは、考えておかなければならないこと、そして彼と話あうことで見つけようとしていた答えを、一足さきにだすことができていたからだ。  昨夜、久しぶりに神野を抱いて、自分が彼に惚れているということが充分にわかった。だったらそのことをさっさと本人に告げてしまい、今後の身の振りかたをある程度決めておきたい。仕事と人生の効率をよくするために、プライベートをすっきりさせ充実させておくというのが、篠山のポリシーだ。

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