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第51話 

 神野が息継ぎもそこそこに、男にしては細い指でぎゅっとコートを掴んでくる。余すところなくキスを貪ろうとしてくる彼に、篠山の身体はあっというまに火をつけられていた。 「神野……」  しつこいくらいのキスだ。ピチャピチャと水音が玄関に響く。 「ふっ……うぅんっ……」  嚥下が下手で、時折コクンと喉を鳴らして唾液を飲む彼に、情欲がどんどん増していった。いますぐにでも彼の白い肌に噛みつき、ペニスを収めて腰を振りたい。 「んんっ……、もっとっ」    足が萎えて崩れ落ちそうになったのは自分のくせに、それで口づけが解けたとぐずる彼は、篠山がしっかり腰を支えてやっているからこそ、立っていられるこの状況に気づいてない。  靴を脱ぐように促し、脱いだらまたキスをする。拙くぺろぺろ舌を重ねてくる彼に、もう限界かと上がり(かまち)に引っ張りあげると、目のまえにはベッドがある客間の扉があった。  神野の視線もおなじようにその扉に釘付けになっていたが、その瞳はじきにせつなさそうに細められてしまう。当然か。 「ほら、がんばって歩け」  しゅんと熱が冷めたらしい神野をリビングに誘導すると、篠山はまず冷え切った部屋のエアコンを作動させた。部屋が暖まるまえにコーヒーでも飲んで身体を(ぬく)めようと、豆をいれたコーヒーメーカーのスイッチを押す。 「ほら、ぼうっと突っ立てないで、座れよ」  さっきのままの流れで、ベッドにダイブすれば手っ取りばやく身体も温もるのだろうが、そんなのはあとだ。  客間の扉に憂いた神野は、きっとまだ心にシコリを残している。彼の話をもう少し聞いてやって、まだ誤解があるのだというのなら、すべて解いておきたい。  そうしておかないとどうしようもなく鈍いこの男は、またじきに手足を引っこめた亀のようになって、あらぬ方向に転がっていってしまう。  隣にきてシンクで手洗いとうがいをした神野が、そのまま自分の傍を離れない。細い腰に手まわした篠山はコーヒーができるまでに一服しようと、彼を連れてソファーに移動した。   テーブルのうえのたばこを掴んでソファーに腰を下ろしたとき、篠山は「げっ」と叫んでしまった。 「どうしたんですか?」  隣に座った神野が訝しげに見上げてくる。 「いや、なんでも。お前、もうちょっとそっちに寄れ」   座面に触れた手がべたっと革に貼りついたのは、昨夜神野が零した而今のせいだ。万が一そこにシミができていたとしても神野に気づかれることがないように、篠山は自分の尻を乗せておくことにした。   部屋の壁の色にあわせて買ったアイボリーカラーのこのソファーに、シミができていたらと思うとぞっとする。ソファーは購入のさいに七桁もしたが、決して金額の問題じゃない。それを知った神野が罪悪感でうちひしがられたりすると、絶対に面倒に違いない。  周囲にふわんと漂う酒の甘い香りに鼻をひきつかせた神野は、それが酒瓶に蓋をし忘れていることが原因だと思ったらしい。彼はテーブルに転がしたままだったキャップを拾いあげると、一升瓶に蓋をした。 「ぶふっ」 「? なんですか?」  おかしくて噴きだすと、神野が首を傾げた。たばこを咥えたまま口角をあげると、弾むようして揺れたたばこのさきに、彼の視線が吸いついてくる。そしてその視線はあからさまに、自分の口もとへ移動してきた。  もの欲しげな瞳に誘われて抱き寄せると、軽く彼の唇を吸ってやった。唇が離れると神野はちいさな頭を自分の肩に載せてそっと瞼を閉じた。  そのまましばらくのあいだ、ゆったりとたばこを吸っていた。  いよいよ静かになった神野に、寝てしまったのだろうかと目を向けたとき、彼は唐突に話しだした。 「近藤さんが、結婚するって聞きました」 「お前、近藤のことちゃんと覚えてたんだな」  そう訊いたのは、出会ったころの神野が情緒不安定で軽い記憶障害を起こしていたからだ。いっしょに生活をしていたとき、彼の言動には辻褄のあわないことが、たびたびあった。  首を縦に振って頷いた彼に、それならと金山のことも訊いてみる。 「もうひとり覚えてるか? お前が逃げないように、手ぇ掴んで捕まえていたやつのこと」 「はい」  それにもこくんと頷いた神野は、首を傾けると「あれ? 名刺、どこにやったんだろ?」と呟いて、そしてクスッと笑った。 「あのひとには、篠山さんにお婿にいけない身体にされるなって、注意されました。その時にはもう遅かったんですが」  しおらしく肩に額を擦りつけた神野は、唇を咬んで少しのあいだ黙りこんだあと、体勢を変えて胸の中に潜りこんできた。この行動も彼を拾ってきたころからたびたびあった。  すぐに慣れたし自分はゲイなんだしで普通に受け止めてきたが、こういうときの彼は決して意図して甘えているわけでない。彼はこれを過剰なストレスにより、無意識でやっていた。 「神野」   白い頬を軽く叩きながら、名まえを呼ぶ。 「お前、知ってた? あいつ遼太郎の兄貴だぞ?」 「えっ⁉」  ぴょこんと身体を起こして「ほんとですか?」と目を瞠った彼は、おなじ苗字をもつふたりが、兄弟かもしれないとはついぞ考えたことがなかったようだ。 「そうだったんですか? あれ? でも、ぜんぜん似てませんよね?」 「そっくりじゃないか」 (この鈍さも、なかなかないよな……)  春臣じゃないが、本当にひとりにしていては生きていけないのではないかと心配になる。 「まぁ、遼太郎のほうが美人だけどな。って、こら、拗ねるなよ」  むっと尖った唇を抓んだ篠山は、指に挟んでいたたばこを灰皿でもみ消し、おもむろに口を開いた。 「近藤のこと、どう聞いたかは知らないが、あいつとはただただ友人だよ。大学からのつきあいだが、俺的には他にかわりのきかない親友ってところだ。お前が心配することはないから、な?」 「無理していませんか? 近藤さんが結婚するの、ほんとはつらいんですよね? 見ていられないくらいに落ちこんでいたって、聞きました。いまだって顔色が悪いです」  そう云って頬を摩ってきた神野の細い指を、篠山は自分の手を重ねて捕まえておく。 「神野、そろそろ気づけよ。お前、春臣に担がれたんだよ。俺の顔色が悪いんだとしたら、それは連日つづいているハードな仕事のせいだ」 「そんなの嘘ですっ、だって――」  予想した通り激昂して立ちあがろうとする彼を、篠山は掴んだ手を引っ張って阻止した。バランスを崩してふらついた身体を自分の膝のうえに誘導して座らせると、腕で囲って逃げられないようにしてしまう。 「嘘じゃないよ。あいつはけっこうなやり手だ。お前も頼りにすればいいけど、遊ばれすぎるなよ」 「でも、遼太郎さんが云っていました。本命だっ……って……」  声が涙交じりになってきたなと思っていると、ふいに左手を彼に取られて両手でぎゅっと握られる。 「篠山さんと、おつきあいしていたっ、て……っ、あのひとが云うなら、間違いないん、じゃ、ない……で、すか? ひっく……か、隠さないでっ、ください」  別に隠していたわけではないが、神野が遼太郎とのことまで知っているとはと、顔を顰めたて、こめかみを掻く。 (ほんっとあなどれないな、こいつらの恋バナトーク……)  年齢が近いもの同士なせいなのか、それとも若者だからなのか。どちらにせよ自分の知らないうちに、三人のあいだではいろんな情報が取り交わされていたようだ。なんだ、おじさんはハブですか、と思わず拗ねてしまいそうだ。

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