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【第1部 馬とピザと】第1話
夕暮れなのに熱暑がひかない。首すじからローブの袖の内側に汗がしたたりおちる。門扉が立つ地面は、ありがたいことに俺の後ろにそびえるアカシアの影で多少冷えている。それでも門からは土埃と熱風が吹き、突っ立っている荷馬車の主も俺も、たぶん馬も、うんざりしている。暑さにも、積まれた荷物にも。
「たしかにここに配達って注文でしたよ」
「だから違うって何度も言ってる。頼んでないし、ここに住んでいるのは俺だけだ」
「でも書付の場所、ここだろ? 他に何があるってんだ。代金も半分貰ってるんだ、置いてくから残りを払ってくれ」
「だから俺は頼んでないし前金を払ってもいないよ。だいたい、ひとりでどうやってこれを食えと?」
ちょっと声が大きかったらしい。荷馬車の主、つまりパン屋がキレた。
「失礼なことをいうな、うちは騎士団の厨房に卸したことだってあるんだ。うちのピザは絶品なんだからな。容器まで指定したくせに」
突っ立って喋るだけでも背中に汗が流れる。こんなときに荷台に積まれているのはピザの箱だ。王都の庶民はこの目新しい料理に夢中なのだ。大陸にもピザはあったが、薄い小麦粉のパンに軽くチーズをふって焼いただけのしろもので、王都のピザとは別物だった。ここではピザというと、肉やズッキーニ、トマトなどがふかふかの生地に埋めこまれ、惜しげなくチーズが盛られたものが焼き立てが供される。庶民なら宴会や祭りのときだけ作るそれなりのごちそうだし、しかもこの暑さなので、荷台のピザはすべて専用容器で守られている。器は回路魔術の仕掛けがあり、保温しつつ腐敗を防ぐのだ。
辛抱強く待っている荷馬の背がかすかに揺れた。馬も辛いだろう。パン屋の配達はアカシアの木とピザの箱の影に入っている。たかがピザのくせに影なんか作るな、と俺は思う。残念ながら二十枚もあれば影がおちるのだ。一枚で約二人前、大食いがそろっても三十人分はゆうにある。ここにいるのは俺ひとりだというのに。
斜めうえから落ちる強い日差しをフードで避ける。王都の夏はまぶしすぎる。道もよく見えない。
「頼んでないって、何度言ったら――」
「なにを揉めている」
いつの間に近づいたのか、警備隊の馬だった。制服に王立騎士団の紋章が光ったが、顔はよく見えない。警備隊所属の騎士ということは、小隊長だろう。下っ端は騎士ではないのだ。参った。目立ちたくないし、面倒は避けたい。
「配達に来たら、間違いだって言われたんですよ。でもちゃんと書付もあるのに――」
騎士はなめらかな動作で馬を下りる。
「証明するものがあるんなら見せてやればいいだろう。ほら、出しなさい」
高圧的な物言いではなかった。俺はこわばった肩の力を抜く。
パン屋が眉をよせながら、ふところを探って注文書らしき紙切れを取り出す。汗でよれている。
「一カ月も前から予約してるくせに何を言ってるんだ。誰の誕生宴会だか知らんが、とっとと残りを払え」
「だからこれは間違い…え、一カ月?」
右下に日付があった。たしかに二十枚。銀貨十枚の前金が支払われたしるし。見間違えようのない筆跡。
「ああ」
優美に巻いた、きれいな文字だ。そのはずだ。俺は一瞬目を閉じて、息を吐く。
「わかった。そうだな、間違いじゃない」
「何度も言っただろうが」
パン屋があごをそびやかした。
「そうだな。悪かった。いま払う。待っててくれ」
工房の方へきびすをかえすと、騎士に呼びとめられた。
「大丈夫なのか」
「何が」
「問題はないのか。さっきまで間違いだと言い張ってたんだろう」
騎士は射るような目つきで、まっすぐ俺をみていた。馬上になくても背は高く、武人らしい体格だが、偉ぶった威圧感はない。警備隊の小隊長としてはかなり人気が出そうだな、と余計な事を思う。高い頬骨とひたいの影が日焼けした頬に落ちている。さわやかで精悍な顔立ちだ。
「いや、いいんだ。行きちがいだった。たしかにここから頼んでいる」
「この後、集まりでもあるのか? ずいぶんな量だが…」
「何もないが、間違いではなかった」俺は口早に告げた。
「支払をするから、証明のためにそこにいてくれないか、騎士さん」
俺は門扉からほど近い工房へ向かう。ここは城下のはずれ、大通りから何本かそれた路地沿いの町屋敷だ。塀沿いの路地は、近隣住民にとっては大通りへ抜ける近道だし、門扉の背後にたつアカシヤの木陰はときどき野良猫と子供たちの涼み場になっているが、門の内側はしんとして、ひと気がない。
戻って銀貨を支払うと、パン屋は「じゃあ荷物を入れるよ。どこへ持っていけばいい」とだるそうに言った。暑いのだろう。
「あっちだ。俺も運ぶ」
「厨房じゃないのか」
呟きながら荷台へ向かったパン屋と、荷台の両側から箱を下ろそうとしたとき、横から手が伸びた。
「手伝おう」
止めるまもなく、騎士がさりげない腕の動きでパン屋を下がらせる。前がみえないくらい箱をかかえ、門扉の内側へどんどん踏み込む。
「あー兄さん、ありがとうよ! 気が利くねー」
次の瞬間、もう用はないとばかりにパン屋が御者台にあがり、同時に馬がいななく。
「また注文あったらよろしくー」
「あ、ああ」
鞭を入れられた馬は逃げるように路地を去っていった。おい、そんなにあわてなくてもいいだろう。俺は思わずつぶやいたが、かさばる箱を軽々ともちあげた騎士が納屋に向かっているのがわかって、あわてて後を追った。先に戸口へついた騎士がさっきのパン屋同様、眉をよせている。
「ここでいいのか?」
「ああ、入ったところのテーブル――みたいなやつ――に置いてくれ」
工房――かつて納屋だった小屋――の中は、週末に寝泊りしている俺のおかげで、およそひどいありさまだ。奥の寝台はぐちゃぐちゃで、壁ぎわの作業机は図面や書付けで乱雑極まりない。ピザを置くよう指示したテーブルは、昨日の夕食の残り(今日の朝食でもある)が置かれたままだ。組み途中の回路だけはきれいな台にのせてある。
「ほんとうによかったのか?」
騎士の表情がますます疑いを増していく。俺は居心地がわるくなり、作業机に腰をあずけてまっすぐな視線を避ける。体格のよすぎる制服の男に見下ろされるのは落ちつかない。
「ここから頼んだのはたしかだから、いいんだ。ちょっと事情があって……予定が変わっているが、断りを入れてなかった以上、パン屋に損をさせるわけにもいかないからな」
「しかし、こんな量をどうするんだ」
「近所の家にでも、おごりで配るよ。いまはここも静かだが、以前はつきあいも多かったはずだし、世話になっている場所もあるから」
「それならいいが」
きちょうめんなたちなのか、騎士はきっちり角をそろえてピザの箱をつむと、戸口へ戻った。
「俺はクレーレだ。第一小隊、隊長。このあたりの担当だから、なにかあったら気軽に声をかけてくれ」
「アーベルだ。手間をとらせてすまない。ありがとう」
「気にするな。こういうときに役に立つのも、警備の仕事の一部だ。町のことがわかるし」
いや、パン屋の荷物を運ぶのは仕事の一部とはいえないだろう。俺はここでは新参だから怪しんでいるのかもしれない。それも勘ぐりすぎだろうか。ちかごろは考えが陰気になってよくない。
その瞬間思いついて、俺は去ろうとする背中へ声をなげる。
「当番の隊員って何人いる?」
「今日か? 六人だが」
「だったらこれ、六つ持っていってくれないか。どうせ多すぎるから、警備隊で消化してくれるとありがたい」
また眉がよせられた。天井からおちる、斜めに切られた明りとりの光で、騎士のひとみは金色がかった明るい茶色に透けてみえた。
「いや、そんなわけにはいかない」
「べつに賄賂じゃないんだ。もらうのが職務上まずいというなら、問題の解決のために没収ってことにすればいい」
「かなり値段がするものだろう。タダでもらうわけにはいかないし、没収なんて論外だ」
「なんだ、まじめだな。あんた、王城づきの騎士か。これは城下民からの警備隊への差し入れだよ。もらってくれ。さすがにこの量じゃ、近所に配るっていっても、大変だし」
騎士は本気で悩んでいるようで、唇をむすんだ表情はなぜか子供っぽくみえた。俺は可笑しくなった。おもわず口元がゆるむ。
へんだな、と思った。俺はしばらく、笑っていなかった。
騎士はまばたきをし、急に落ちつかない様子になって袖でひたいをぬぐったが、ついに考えを変えたようだった。
「たしかに差し入れなら隊員が喜ぶが…」
「人助けだと思えよ。これも仕事の一環だと思って、もらってくれ」
「……わかった」
警備隊と、門扉のまわりで見かける子供たちの家と、子供の一人に駄賃を渡して施療院にも箱を届け、陽が落ちたころには、残るピザは一箱となった。今日の夕食には十分だ。多すぎるくらいだ。明日は本業の職場に戻らなくてはならない。俺は図面と格闘し、作業途中の回路を調整する。
適当なところでやめて、ワインと、ピザの箱をあけることにした。
チーズの良い匂いがたつ。内部保存の回路魔術はまだ有効だ。
回路魔術は銀と鉛で描いた回路を通すことで、誰もが持っている微小な魔力を増幅し、特定の目的に使えるようにしたものだ。完成済みの基板さえあれば誰でも使える便利な道具である。
回路を組むには専門技術が必要だが、回路魔術師の多くは、王立魔術団で予見や戦略に関わったり、医者や治療者として施療院に所属する精霊魔術師のような強い魔力は持っていない。一般的な認識として、回路魔術師は王立魔術団に見下される使い走りの技術屋だ。しかし今の世の中には必要不可欠な存在でもある。
なんとこれを最初に発明したのは俺のひいじいさんだという。その息子、俺のじいさんは、この方法をさらに発展させただけでなく、回路魔術師団を組織して隣国との戦いの時は王家を勝利に導いた。騎士の叙勲を打診されたが結局もらわなかったという。とはいえじいさんのおかげで回路魔術師は王家公認となり、王立魔術団のような威容はないにせよ、王城に師団の塔をかまえている。
夜になり、やっと涼しい風が吹いている。
俺は窓と扉をあけはなち、工房の灯りでぼんやりアカシアの樹が照らされるのを眺めながら、ワインを傾ける。
とろけるチーズにふかふかのパン、肉と野菜の味も申し分なく、ピザはうまかった。酒の肴にもちょうどいい。
そうはいっても、ひとりでは食べきれそうにもない。
周囲は静かだ。あまりにも静かすぎた。
納屋の背後にたつ町屋敷には、誰もいない。十年ぶりの王都は記憶より大きくなりにぎわっていたが、この窓の景色は変わらない。アカシアの木だけは大きくなっている。
伯父の急死を受けて俺が大陸から戻ったのは十週ほど前のことだ。伯父の生前から、この納屋は俺の聖域、あるいは遊び場で、自分の好きなものを好きなだけ作ることができる工房だった。屋敷の中には昔ここで暮らしていたころの俺の部屋もあるが、いまは中に入れない。
伯母も伯父もいなくなり、十年離れていた王都に友人はいなかった。週末はここで、勤務日は王城の宿舎で寝泊まりしているが、どの夜も長い。
ひとつひとつ数えるようにして、俺は長い夜を待つ。
待っていれば、いずれ明けるとわかっている。
ワインがまわり、食べるのに飽きて、俺はすこしぼんやりしていたようだ。だから突然かけられた声に思わずびくりとした。
「アーベル?」
「ああ、昼間の」
戸口に背の高い影がおちている。暗がりでも姿勢のよさがわかる、はっとさせられる姿だ。俺はあわてて中腰に立つ。パン屋との仲裁に入ってくれた騎士だった。
「食事中すまない。礼をいいに来たんだ。隊員がみんな喜んでいた」
「引き取ってもらったんだから、礼をいいたいのはむしろこっちだ。仕事中わざわざ寄ってくれたのか」
「いや、もう勤務は明けているんだ」
たしかに昼間着ていた派手な徽章の上着ではないが、俺は何を話せばいいのかわからなかった。ここで後ろめたいことをしているわけでもないが、仕事でもないのに、騎士がわざわざ礼をいいに寄るなど変だと思ったのだ。
しかし相手の表情に邪気はなかった。俺と同じくらいの年齢だろうか。二十代で小隊長を任されるのなら、この男はきっとかなり高い身分の生まれだろう。つまり庶民にピザをおごってもらうような経験もなく、俺のような人間がめずらしいのかもしれない。
それに、夜は長い。
しげしげと顔をみつめていたせいか、騎士は居心地悪そうにまばたきをした。俺はワインの瓶を顎でさした。
「よかったら、少し飲まないか。食べ飽きていなければピザもある」
騎士はまじまじと俺をみつめ、つぎに破顔した。目じりにしわができ、整っているがやや硬い顔立ちが一気に明るくなる。
ちらちらと胸騒ぎがした。
「いいのか? じつは、部下にやっただけでほとんど食べてないんだ」
「そうか、大食いだな…」
「六人いればな。みんな、めったに食べられないと喜んでいた」
「入れよ」
「ありがとう」
そうと決まれば、といった様子で騎士はものおじもせず、かといってずうずうしくもなく、ごく自然に敷居をまたいだ。俺はきれいな器を探す。
「ワインでいいか?」
「ああ」
「ここには週末しかいないんでね。たいしたもてなしはできないが」
「いや、かまわないでくれ。勤務外でも、警備隊が城民にたかったと知られるとたいへんなことになる」
騎士にグラスを渡し、自分のにさらに追加でそそぐ。それまで座っていた椅子を騎士に押しやり、作業台の足台を引っ張りだして座った。
「気にしなくていいだろう。俺が子供の頃はよく見回りが立ち寄って飲み食いしていたぞ。制服で」
「そうなのか?」
騎士は小さなテーブルにむかい、長い指でひょいとピザをつまみ、うまそうに食べた。食べながら、城下の警備についたのは今期が初めてだ、という話をした。
すでに満腹だった俺はただ騎士の様子を見物していた。ひとりでは食べきれなかった大きな一切れが皿からきれいに消えたのが心地よく、無駄にならずにすむと思うと嬉しかった。ここしばらくのあいだ俺が陥っている深い穴に、涼しい風が吹いてきたような気分だった。
ワインをちびちび飲みながら、俺はしばらく気の向くままに、昔ここに住んでいたこと、屋敷に人がたくさん出入りし、職人や行商でにぎやかだった頃の話をした。誰かに向かってこんな風に話したことはしばらくなかった。酒のせいで口が軽くなっていた。
かなり腹が減っていたのか、騎士はよく食べ、ときどき飲み、たまにあいづちをいれながら俺の話を聞いていた。
「伯母はもてなし好きだったからな」
「伯母?」
「この屋敷は伯父夫婦のものだったんだ。先日亡くなったが」
「それは……」
「俺が戻ってから、伯母はしばらく施療院にいたんだが、そのあいだにこのピザを注文していたらしい。俺を驚かせたかったんだろう」
「今日は何か予定されていたのか。記念日でも?」
「いや、ただの誕生日だよ。大げさな人だった。いくら生活に余裕があるからって、こんなにたくさん、どれだけ人を呼ぶつもりだったんだか。俺の知り合いなんて今は王都にいないのに」
俺は唇をゆがめてすこし笑ったが、声がかすれた。調子にのって飲みすぎている。
「都には久しぶりなのか」
「十年大陸にいたからな」
「そうか。じゃあ、今日が誕生日なのか」
「いまさら誕生日もないだろう」
「そんなことはない。いくつになっても生まれた日を祝われるのはうれしいことだし、祝ってくれる人がいるのもすばらしいことだ」
一瞬、喉が詰まった。
「ああ。そうだな。伯母も伯父も、俺にすごくよくしてくれた。とてもいい人だった」
騎士は俺の眼をまっすぐにみつめていたが、ふいにグラスをあげた。
「おめでとう、アーベル」
俺は顔をそらし、自分でもよくわからないことをもごもごとつぶやいた。騎士が笑った。軽く明るい声で、楽しそうに。
急に頬が熱くなった気がした。名前を覚えていたのか、と思った。
次の週末、アカシアの木に登って伸びすぎた枝を切っていると、ひづめの音が聞こえた。剪定した枝葉を地面に落とし落ちてくる前髪をはらった瞬間、騎士の顔が眼の前にあらわれた。俺は木から転げ落ちそうになった。
「おどろかすなよ!」
「すまない」
高い馬の背にまたがったまま、騎士は街路へ傾いたアカシアの幹にのりだし、俺の腰に手を伸ばしてささえた。栗毛の馬はもたもたしている主人に動じず待っている。
「大丈夫だ、離してくれ」
「通りがかったら見えたので、つい」
「タイミングをみはからえよ」
騎士はばつがわるそうだった。
「先日ごちそうになった礼をと思ってな。よかったら…」
「ちょっと待ってくれ。日が暮れる前に終わらせたい」
俺は素早く木から降りるとアカシアの枝を台車に山積みにし、回路に魔力を流す。台車は車輪を軽くきしませながらくるりと工房の脇を回って行った。
枝の山がひとりでに動いていくのを見送りながら、騎士は感心したように目をまるくしている。
「便利なものだな。勝手に曲がるのか。はじめて見た」
「運転制御は俺が組んだ回路だから、ここにはまだないだろう。いずれこっちでも売りたいんだが」
「回路魔術師なのか」
「ん、知らなかったのか? 警備隊だからこのくらい調べたかと思ったよ。週末以外は王城で仕事をしている」
知らなかった、と細められた目が語っていた。それに王城で偶然出会うこともまずないだろう。回路魔術師団の塔は広い王城のはずれのはずれ、北東の隅なのだ。
「その袋、何か持ってきたのか?」
「ああ、うまい酒をもらったからと思って…」
「それはいいな。入れよ、騎士さん。散らかってるけど」
「クレーレだ。そう呼んでくれ」
それ以来、週末になるとクレーレは酒とつまみを持って現れるようになった。
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