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【第2部 ローブと剣】第2話

 アーベルの工房の庇にうすく残った雪が冬空をいつも以上に青く輝かせている。日差しは暖かく、軒からぽたぽたとしずくがおちる。工房の扉は開いていて、クレーレが門を通りぬけるとき、ちょうど隣近所の住人らしいふくらんだスカートの女性が出てきた。子供たちが三人ばかり庭のすみの雪の小山で遊んでいる。  工房と同様に軒先を白く化粧された屋敷の大きな正面扉も開いていた。腰に道具をさげた職人らしい男たちが内と外で声をかけあっている。工房をのぞくと、アーベルと、やはり職人らしいまだ若い男が作業台の図面を前に、ひたいをつきあわせるようにして話しあいの最中だった。 「この壁は外さないとほんとにダメか?」 「土台が腐ってたからねえ。ネズミだかイタチだかの巣になってたらしいじゃないの。今はなんとか立ってるけど、悪いことはいわない、いずれマズくなるよ」 「飾りの羽目板だけ剥がして補強を入れるのは無理か? 内側に回路があるんだよ」 「うーん、回路なんて俺にはわかんないけど、この内壁は木なんだよ。煉瓦じゃない。腐ったらマズイって、そりゃ常識でしょ」 「それなら、外す前に回路だけそのまま剥がすのは?」 「あんたが自分でやるならいいよ。俺はただの職人だから怖くて触れない」 「魔術師だって職人みたいなもんだぜ」 「あんたみたいな職人がいるわけないだろ。とにかくこの壁は外す。内側の模様とかなんとかはその前にあんたがやる。これでどうよ」 「……親方がそういうなら仕方ないな」  アーベルはため息をつきながら顔をあげ、そしてクレーレに気づいた。  軽く片手をあげて「早いな」という。職人もふりむき、クレーレをみるなりぎょっとした表情になった。 「ネイピア・ロジだ。屋敷の修理工事を頼んでる。これは元城下の警備隊のクレーレ。今は王城警備」  アーベルの紹介にクレーレは会釈し、ネイピアはモゴモゴと「これはどうもすんません……レムニスケートの旦那ですね」と挨拶ともいえないような応答をかえした。  クレーレにとっては初対面だったが、レムニスケート家は建築ギルドとつながりが深い。自分のことも知っていたにちがいないが、今日は不意打ちだったのだろう。急に緊張した面持ちになって、慌てた様子でさらに二言三言、アーベルと確認をかわすと工房を出ていった。 「伯父が長年、ネイピアの先代に世話になっててな。最近あとを継いだらしい」  アーベルは作業台の図面を重ねて隅におしやり、座れよ、と手招きする。腰に職人が身につけるような道具入れを巻いて、ローブは隅の丸椅子に雑にかけられていた。工房は削った木材の香りがした。明かり取りからさす光の中で金色のほこりが舞う。  クレーレは誘われるままに座ろうとして、ふと、髪がのびたな、と思う。夏にはじめてアーベルに会ったとき、彼の髪はもっと短く、いまのように首筋に垂れかかるほどの長さではなかった。ほとんど無意識に腕を伸ばし、アーベルのうなじにかかる毛を触る。 「クレーレ」と小さな声でアーベルがつぶやく。  そのまま髪をなでていたい誘惑にかられるが、外から子供たちの騒ぐ声が近づいた。 「アーベルぅ雪玉でなんかやってー」 「雪降らせて降らせて~」  アーベルはおだやかにクレーレの指をはずし、工房に駆けこんでくる子供たちに笑顔をむける。 「魔術でそんなことできるかよ」 「じゃあいっしょに遊んでぇ」 「俺は忙しいの!」  いいながらクレーレの肩をぐいっと押し「この兄さんが一緒に遊んでくれるから」と子供たちに引き渡した。  子供たちが散り、職人たちが仕事を終えても屋敷の周囲はなかなか人が切れなかった。魔術を使うちょっとした頼みごとを持ってくる老人、お礼にと食べ物を持ってくるおかみさん。  アーベルは口調のぞんざいさと裏腹に丁寧に人々の相手をしていて、彼がかもしだす空気の柔らかさにクレーレは打たれた。思い返すとその空気は、彼に出会ったその日にもたしかにあった。怒気をはらんでパン屋とやりとりしていたのに、持ってこられた書付をみた瞬間、すっとアーベルの周囲の空気が切りかわったことに、クレーレはとても驚いたのだった。こんなにもすばやく感情をおさめられる人間に出会ったのは初めてだった。 「おまえ、今日は災難だったな。雪玉をぶつけられて」  やっとふたりだけになって、誰もいない屋敷の扉をあけながらアーベルがいう。精霊動物のおかげで荒れていた屋敷は内装の大工事がはじまっていた。要所に明かりがついているが、職人が仕切り壁の一部を取り外したので、がらんどうな印象になっている。  アーベルは上階へつづく階段をのぼった。うしろのクレーレをふりかえり、愉快そうにくっくっと笑う。 「俺を見て思い切り笑っていたくせに」  クレーレが不満そうにぼやくと、 「いや、すまん。天下の小隊長が子供にやられてるもんだから、おもしろすぎて」と、さらに肩を揺らして笑った。  アーベルに子供たちを押しつけられたクレーレは、最初はとまどったものの、結局は全力で走りながら雪玉を投げてくる子供と本気で遊んでしまったのだ。さらには油断した隙に顔面に雪玉をぶつけられてしまい、これは思いのほか痛かった。 「ぶつけられもするさ。訓練場の新兵を相手にしてるわけじゃないんだ」 「もしあの子たちから将来、騎士団に入る者が出たら、おまえに雪玉をぶつけたことを自慢できるな」  精霊動物の一件以来、アーベルは以前より笑うように――心から楽しそうに笑うようになった、とクレーレは思う。それは白い繊細な顔にぱっと花びらがひらくような笑顔で、すこし抑えた、でも愉快そうな笑い声がつづく。正面からみるたびにクレーレは息がとまりそうになる。なんてきれいなんだろうか。  アーベルは上階からさらに上へ、細い階段をのぼった。彼について最後の段をあがったクレーレは、突然、狭いが天井の高い空間に出た。目の前の壁は書架で埋められ、足元におちる影をたどると、頭上は細い窓が何列も切られた丸屋根になっている。書架に埋もれるようにして寝台があった。 「ここは?」とたずねる。 「俺の部屋だった」  ぽつんとアーベルはいった。 「そのままだな。もう、ここだけだ」 「なにが?」 「変わらないのが」  寝台に腰をおろし、クレーレを手招く。そのまま背中を倒し、ゆるく掲げた腕で天井の窓をさした。 「もともとは伯父が気象観測部屋として作ったという話だ。あの窓は開けられるんだ。……よくこうやって寝そべって、星をみていた。遠くにあるなと思ってさ。あたりまえなんだが」  そしてかがんだクレーレの首に腕を回し、引き寄せた。

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