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【第2部 ローブと剣】第1話

 騎士の生活は、血沸き肉躍る冒険に満ちたものではない。  馬をつらねたきらびやかな護衛行列や公開試合をきっかけに騎士にあこがれる若者とちがって、クレーレは子供の頃からそれをよく知っていた。生家のレムニスケートは王家と親族関係があるだけでなく、砦や王城建設を請け負ってきた歴史がある。代々の当主はごく幼いころから子息に「防備」とはなんたるかを教えていて、クレーレの父親も例外ではなかった。レムニスケートが子息を騎士団に入れるのは、宮廷での出世が目的ではなく、王都の守りを理解させるためだった。  その騎士団の毎日がどんなものかといえば、ほとんどの日々が見回り、訓練、そして待機で終わる。 「毎日毎日同じことのくりかえしでうんざりだ」 「審判部の書記、頭にこねえ?」  年明けから配属された城下出身の若者が詰所の前にならび愚痴を吐いている。午前の鍛錬からもどったクレーレが通りかかかると、ぱっと背筋をのばし、敬礼する。 「暇そうだな」 「小隊長っ」 「何事もないか」 「さきほど書記ギルドから通報があり、ダナンが向かいました! コーシー副官が城門からまもなく戻ります! 以上です!」  小さな事件は城下でも王城でも毎日起きる。こそ泥、喧嘩、暴行、仲裁。騎士に審判はできないから、おさまらなかったいさかいはすべて王城の審判部へ持っていくことになる。そこでの騎士の仕事はというと書記に口述して書類をつくることだ。  じつのところ剣よりも紙や石板の方が出番が多いし、そんな日常が続く方が王都は平和なのだと、クレーレは知っている。レムニスケートの家では生まれた時からそう教えられる。  それでも剣を錆びさせてはいけない、という矛盾も気にならなかった。ほんとうに重要なのは、変わり映えのしない見回りと待機の日々が続くあいだ、必要な時のために自分の剣を磨いておくことだ。  クレーレだけでなくレムニスケート家に共通するこの態度は、結果的にレムニスケートを他の貴族と比べて堅固で特別な地位へ押し上げることになったが、クレーレはそれにも慣れていた。生家が特別なのはあたりまえのことだった。そこには義務が伴ってもいるから、特別扱いを不当とも思わない。これは一族全員の晴れやかな自負だった。  ちょうど正午になり、デサルグの巨体がぬっと現れる。交代の時間だ。クレーレの小隊は城壁沿いの担当で、王城の一日を三分割して騎士を交代させるが、小隊長と副官二名は持ち回りでそれぞれの時間帯を監督しなければならない。今は副官のデサルグが昼番を担当し、もうひとりの副官であるコーシーが朝番、クレーレは夜番だった。 「新入りを訓練場でいじめてきたでしょう」とデサルグがにやにや笑う。 「普通に稽古しただけだ」 「かなりへばってましたよ」  そうだったかな、とクレーレは思う。すこし注意が足りなかったかもしれない。精霊動物の一件から王立魔術団預かりになったシャノンの代わりに騎士団に入ったのは、宮廷で会ったこともある貴族の子息だが、シャノンと違っていまひとつ手ごたえがなかった。 「まだ慣れてないだけだろう」 「そうです? 例の魔術師となかなか会えないからって、発散されるのも気の毒ですねえ」 「そんなことはない」  表情を変えずにいったつもりだが、デサルグはもっとにやついて、肘でクレーレをこづきまわす。副官として言葉遣いこそ体裁を保っているが、十年来の友人同士だ。武骨な外見やからかうような言葉尻と裏腹に、こまやかな内面の男なのも知っている。 「もうすぐ夜番も終わりなんだから、新入りをしごくのもほどほどに」  言い捨ててデサルグは詰所に向き直るなり、「だらしなく立つな!」と当番兵に喝を入れた。  真冬にしては風がおだやかだったが、北西の城壁の最上部までのぼると、さすがに上空から吹く風が肌を刺した。迷路構造に組まれた通路の行き止まりには台木が据えられ、その上に四方を鎧戸で組み立てた白い箱が載っている。  正面の鎧戸をあけて中をのぞきこむローブの背中をみつけて、クレーレの足は嬉しさと安堵で踊りそうになる。 「アーベル」  ふりむいた相手はクレーレを認めるとまた箱へ向き直り、手にした小さな石板に何か書きつけたが、その前に一瞬ほほえんだのをクレーレは見逃さなかった。 「雪がふりそうだぞ」  アーベルは手元をみつめたままひとりごとのようにつぶやき、石板に息を吹きかける。もう一度確認するように凝視して、それから蓋をかぶせてローブの内側に入れた。箱の鎧戸をしめ、継ぎ目に指をあてて魔力で封印する。クレーレはローブごしに魔術師の背中を抱き、冷たい手を囲うようにして、両手で握った。 「寒いだろう」  腕の中でアーベルは軽く震えたようだった。 「寒くない。でもおまえは無駄に熱いな」 「ああ」  クレーレはアーベルの首筋に鼻先をよせ、うなじまでそっと肌をなぞる。アーベルの手から力が抜けるのを感じながら、胸に腕をまわして抱きしめる。見かけに反してぶあついローブが間をへだてているのがわずらわしい。 「シャノンの後釜をしごいてるんだって?」とアーベルがいう。 「何で知ってる」 「おまえの副官に聞いた。シャノンを精霊魔術師にとられたからって腹いせにいじめるなよ」 「そんなことはない。宮廷貴族の子息だから体ができてないんだ」 「かわいそうに。そんなこと、宮廷貴族の筆頭格にいわれたんじゃ、衝撃も大きいだろうに」  くっくっと笑うアーベルの、肩に回した手でこちらをむかせ、髪をなで、ひたいに口づける。ローブの背中から腰まで手のひらをなでおろし、ひたいから鼻先へ唇をずらしていく。かすかに薄荷のような香りがした。唇を唇でなぞり、すきまから舌を侵入させて、深いキスに変える。ローブの向こうでアーベルの体がみじろぐのがわかり、彼の背を壁におしつけて襟の合わせをひらく。もっとじかにアーベルを感じたいという欲望がつのる。鎧のように重いローブの中には意外なほどしなやかな体があるのを知っているが、今はシャツの上から抱きしめるくらいしかできない。  ひたすら深くキスをむさぼる。  やっと離れると、アーベルは荒い息をついていた。 「俺は仕事中だぞ」と吐息まじりにつぶやく。 「アーベル、週末は……」 「屋敷にいるよ。塔は一段落したからな」 「行っていいか」 「……いいよ」  アーベルの眸も欲望で濡れているのをみて、クレーレは安堵する。この思いは自分のひとり相撲でないと確信していたが、それでもアーベルはとらえがたかった。ときおり、彼は鳥か猫のように謎めいていると感じる。知らないうちに脱け出して、遠くへ行ってしまうのではないかと思うのだ。だから夜番のあいだも、クレーレは毎日アーベルの姿を探してしまう。この場所――師団の塔が設置した気象観測機械がある――へ決まった時間にアーベルが記録を取りに来ることがわかってから、クレーレはここへ通うようになった。  だしぬけにアーベルは体を離し、ローブを閉じて裾をととのえる。足音が聞え、べつのローブ姿が通路を歩いてくる。めずらしい銀色の髪が冬の日差しにきらめく。 「申し訳ない、邪魔したか?」  やってきたのは回路魔術師らしくない気配をもったルベーグだ。アーベルとは単なる同僚というだけでなく、息のあった友人同士でもあるようだ。城内で彼らが連れだっているのをたまにみかけることがある。クレーレには内容が理解できない専門的な議論をしていることもあって、そんなときアーベルはとても楽しそうだった。  理不尽な感情だとわかっているのに、クレーレはときおり嫉妬のような気持ちをルベーグに抱くことがある。 「なんでもない」  髪をうしろになでつけ、フードをかぶりながらアーベルが答える。 「計算結果が出たのか?」 「ああ。検算したい。手伝ってほしい」  そういうなり、銀髪の魔術師はクレーレに軽く会釈をしただけで足早に通路を戻っていった。 「今夜は雪になるぞ。気をつけろよ」  アーベルはクレーレの腕に手をかけ、一度強く握ると、離れて行った。  その夜はいつもにもまして冷えこみ、空は厚い雲で覆われた。クレーレは詰所の火を絶やさないよう指示し、書類を片付け、自分の番になると見回りに城壁へ出る。  回路魔術師団の塔は城壁の近くで、真夜中ちかいのにまだ明かりが見えた。この塔はいつも遅くまで明かりがついている。太陽とともに寝起きするような精霊魔術師とはずいぶん違う。クレーレは城壁を歩きながら、アーベルが塔を出るのをつかまえられないだろうかと思う。そんなことがあれば、今夜の義務も望外の幸運に見舞われた、ということになるだろう。  俺はいつの間にアーベルに思いを寄せるようになったのだろう、とクレーレは思い返す。夏の暑い日、最初にあの大きな樹の下にいる彼をみた、あの一瞬からだろうか? あの日もアーベルはローブを着ていて、その影が濃く道に落ちていた。それともその夜、工房へ立ち寄って、ぼんやりした灯火の下に座る彼と話したときだろうか? 大陸での思い出や逸話を語るアーベルの声が心地よく、それをまた聞きたいと思い、毎週あの場所を訪ねるようになったころだろうか?  アーベルが教えてくれた大陸の話はどれも新鮮だった。クレーレはレムニスケートとしての義務を重荷と思ったことは一度もなかったが、アーベルから放たれる異国の空気や解放感にはたしかに魅せられていた。  でもそれと欲望はまたべつの話だった。ごくはじめのころからクレーレはアーベルが欲しかった。アーベルが女性しか愛さない人間でなくて幸運だった。もしそうだったらクレーレは今頃ひどく苦しい思いをしていただろう。  もっともクレーレはレムニスケートの一員で、それはどんな形であれ希望を失わないということでもある。王族や一部の貴族にいわせると、腹立たしいくらい前向きでへこたれないのがレムニスケートなのだ。  見守るあいだも塔の明かりは消えない。ふと、腕に、空からおちた白い欠片があたる。 「……雪だ」  クレーレは外套の襟を立てると、城壁を北に回った。

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