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和希と(洋平と)キッド

 バイトはクビになるし(至極真面目に勤めていたのだが、どういうわけかミスが多い従業員だと見なされたのだ。あのエラの張ったシフトリーダーなど「お前病気だよ」と捨て台詞を吐いてくる始末)実家の父親からはもう二度と連絡してくるなとスマートフォン越しに喚かれるし(この通告自体は過去にも数度受けていたうえ、半年もすれば向こうが軟化するのは知っていたが、それでも傷つくことは傷つく)人生が真っ暗になった夜中に、洋平は同棲しようと言った、のだと思う。  散々尻の穴に突っ込まれて体は気怠く、半分白目を剥きながら耳を傾ける寝物語。三七歳になって急に体力が落ちた、射精の勢いもジジイのしょんべんみたい、洋君も二年後にそうなるんだよ。かつて和希が腹いせに脅した時、洋平は小馬鹿にしたかの如く鼻で笑っていた。けれど内心、引っかかっているに違いない。あれ以来、今のうちにと精液を乱射している節があるし、積立NISAを始めるとか始めたとか。やたらと将来のことを前提にした行動を取ろうとする。心底うんざりする。  いつも通り、提案と言うよりは宣言に近い物言いだったことは想像に難くない。枕へ垂れた和希の涎が乾き切る前に、洋平は行動に移した。翌日が休みなのを良いことに、朝一番に自宅へ戻り、昼前には必要最低限の荷物をキャリーケースに詰めて戻ってくる。 「どうせなら洋君の部屋のがいいよ。広いし綺麗だし」 「ちょうど来月で二年契約の区切りがつくんだよ」  狭苦しい1DKの部屋は、アラフォーの男二人が暮らすのにうってつけと言い難い。まるでタコ部屋みたいにむさ苦しくなる。休日に洋平とソファに並び、ぼんやりテレビを観ていると、部屋の壁が撓むような錯覚を抱くことが和希はあった。アイコスの紫煙と加齢臭とむんむん発散される疲弊と性欲、その他諸々をクロスは吸い込んで、噎せながら吐き出す。さながら誤嚥性肺炎で死にかけた老人の横隔膜だ。  成人男性ですら息苦しさを覚えるのに、駆け込んできた子供にとって、部屋の空気はどれほど淀みを感じることだろう。  男の子は洋平へ先立ち部屋へ押し入ると、ソファに飛び乗り、大きな目をぱちぱちさせた。長めに切り揃えた漆黒のマッシュルームカットがつやつやして、まるで毒きのこ。もちもちした四肢が、ちっちゃなトレーナーとジーンズ越しに生き生きと躍動している。四歳くらいだろうか。 「この子、君の?」 「ああ」  子供よりも大きく、重たげなキャリーケースを引きずり上げ、洋平はため息を付いた。 「仕事が忙しいからあんまり構ってやれないんだけどな。躾はきちんとしてるし、迷惑はかけないから」  彼の物腰から、恐らく女とも寝るんだろうなとは思っていた。驚いたのは、丸い頭を撫でる手つきに籠められた愛情についてだった。ボケかけた老人や生活保護すれすれの馬鹿に健康器具を売りつけては月賦を遅滞したと商品を奪い返し、保証金だけを延々と取り立てる男の慈悲。気持ちいいことが終わったらとっととさようなら。彼が後始末なんて言葉とてんで無縁なことは、身を以て知っていたつもりだったのに。 「嫌いだったか」 「え?」 「いや、外で見かける時も、全然興味なさそうだったし」 「そんなことないって! 寧ろ早く教えてくれれば良かったのに」  その場へしゃがみ込むと、和希は少年の目を同じ高さから覗き込んだ。 「初めまして。俺は佐藤和希、君のお父さんの……」 「友達だよ、友達」  ぐっと勢いよく子供の頭を押さえ込んで、洋平はがなった。 「こいつも事情は知ってる、ここへ来るとき言い聞かせた。それに、無理ならお袋に預けるさ」 「無理じゃないよ。そりゃ、俺は良いんだけどさ……」  無理だとか無理じゃないとかは、こちらの台詞ではない。少年は竦めた首から上目遣いを投げかけていた。やがて眉を八の字に寄せると、おずおずはにかんで見せる。 「こんにちは」  鈴が鳴るように可憐な声は、哀れっぽさしか催さない。適応しようと努力している様が、余計に憐憫を掻き立てる。  こんな幼子を爛れた空間へ放り込むなんて、大人のしていいことじゃない。大体、子供用のベッドもないのに。 「家では俺と一緒に寝てたんだが、ソファで十分だよ」 「そんな乱暴な」 「誰かの匂いとか、気配を感じてる方が安心するんだって」  まるで懸念する和希の心を読んだかのようだった。洋平は息子を抱き上げると、自らの膝の上へ乗せる。 「大人しいだろ。恐がりだけど、懐いたら案外甘えたがりでな……どうせしばらくはプー太郎してるんだから、俺が仕事行ってる間、面倒見ててくれよ」  短い腕を掴まれ、人形遊びをするように両腕をぱたぱた振られても、少年はされるがままだった。寧ろ構われたことが嬉しいかのように、ぴかぴかした頬が緩む。端正だが厳しさの目立つ洋平と余り似ていない、丸っこい顔立ち。母親は相当可愛い子だったんだろうなと容易に予想できる。  いたずらで鼻っ面を叩いてきた手を掴む。ぷにぷにした手のひらを親指で押してやり、見つめ合ったとき、その黒真珠を思わせる瞳へ和希が探り当てたのは、孤独だった。母親の影もなく、ろくでなしの父親にどことも分からない場所へ連れてこられ、一歩対応を間違えば捨てられてしまう。完璧な迷子として、彼はひたすら寂しがっていた。  まるで鏡を見ているようだった。やっぱりこんな急な話、良くないよ。もし自らが拒絶を示せば、それがやんわりしたものであっても、洋平は翻意するかもしれない。この引っ越しの決め方から分かるように、とてつもなく気まぐれな男だから。  そうでなくとも、不定期のアルバイターと多忙なビジネスマンでは生活のすれ違いが多かった。これがニートとビジネスマンになれば、その溝は益々深まる。  これ以上、独りでいることには耐えられない。日がな鬱々と自傷的自省を繰り返し、男のペニスを待ち詫びる生活なんてものは。 「名前は?」 「健太」  先回りして洋平が言う頃には、和希も握りしめた手を振っている。 「健ちゃんか、可愛いね」  普段から、自らの笑顔は周囲を安心させると定評がある。舐められやすいの間違いだろ、と洋平は皮肉を言うが、例えどんな理由であれ、こんな子供を安心させるのなら大いに結構。健太はほっと安堵の息をつき、満面の笑みを浮かべた。身を乗り出すと、かさついた大人の頬に挨拶のキスを寄越す。びっくり仰天、目を丸くする和希に、洋平はからりと笑って見せた。 「ほらな、懐っこいだろ」  ああ、この笑顔を手元に置けるなら、ちょっとくらいの不便なんて。そのとき和希は、間違いなく断言することができた。  実際、健太は面倒など何一つ起こさなかった。人見知りだし、前のところでいじめられたので、保育園にはやらないと父親は言う。となると起き出すのは和希と同じ一〇時前。皿の上にざらざらと出したコーンフレークに牛乳を掛けてやれば、こぼさず上手に食べる。  その後は家でテレビでも観ていることが多い。朝のうちは子供番組を。流れてくる甲高い歌声に反応して、健太は踊った。時々足がもつれて尻餅をついては目を丸くし、それからソファで伸びている和希の顔を見上げる。和希が笑いかけてやると、健太も笑った。にっこりと。子供が笑うのはいい。自らが暗い夜をやり過ごし、光に満ちあふれた朝へ何とか辿り着いたのだと、目で確かめることができる。  昼頃からは和希が占有権を発動し、テレビドラマを流したり、ブックオフで買ったPS4のソフトを攻略しにかかる。うとうと船を漕いでいない時でも、健太は文句を言わない。精神鑑定でも受けているかのようにソファで寝そべる和希の上で同じように寝そべり、ぼんやりと画面を眺めていた。  そうでなければ買い物だ。スーパーマーケットへ行くことは良い運動になる。歩いて十五分、子供連れだから実際はもう少しかかるのが、怠け疲れの体にはちょうどいい。身支度を終えた健太は、のそのそ歩きの和希の周りで、それはそれは嬉しそうに跳ね回る。  基本的には無口な少年だが、外へ出ると比較的よく喋った。近付いた春の陽気に心が浮き足立つのは和希も同じ事、話題には事欠かない。 「おじさんはどこが悪いの」 「うーん、これなあ、花粉症だね」  自分で口にして気付く。一週間ぶり位に歩くお天道様の下に、思わず目をぱしぱしさせていたが、これは眩しさ故ではない。 「別に悪いって訳じゃないよ。それ、パパが言ったの」 「うん。おじさんは気分が良くないから、あんまり騒がしくしちゃ駄目だって」  住宅街のど真ん中を伸びるのは、くねくねと狭い下り道だ。未発達な体は上手く歩調を調整できないのか、繋いだ手は不規則に引っ張られる。 「もしかして、それで良い子にしてた? 道理で大人しすぎるなって思ってた」  顔を覗き込んでやれば、健太は俯いてもじもじと空いた手をくねらせる。単車を走らせるヤクルトレディが、すれ違いざま胡乱な目つきを向けた。こんな真っ昼間に登場する、よれたシャツとジャージを着込んだ中年男と、あどけない子供のコンビはそんなに珍しいと言うのだろうか。  そこまで沈んだ感情を、危ない危ないと慌てて引き上げる。ここのところ良くないことばかり続いて、自尊心は瀕死状態。とにかく不健全な事ばかり考えているのは本当に良くない。  それにしても洋君、言うに事欠いて病気だなんて。彼は労働に人生の意義を見出し過ぎる。世間に一人や二人、休息期間の大人がいたところで、別に問題など無いではないか。 「ごめん、我慢させたね。気にしないで遊んでいいんだよ。だって子供は遊ぶのが仕事なんだから」 「おじさんも、一緒にあそぼうよ」 「いいけど、例えば?」 「駆けっこがいい。ここからスーパーまで競争しよう」 「おじさん、最近運動してないからなあ。それにクロックスのベルトがちぎれてるんだ、転んじゃうよ」  足を突き出して見せつければ、つまんないの、と唇を尖らせる。正直さは脱力を呼び、あはは、と和希は気の抜けた風に笑った。 「健ちゃんは駆けっこが好きなんだね。他にも好きなもの、教えてよ」 「うーん、好きなもの? えーっとね」  一生懸命考え込み、露わになる旋毛の可愛らしさ。これって枕草紙だったかな。親指で肉付きの良い手の甲を押し、感触を味わいながら、和希は空を見上げた。高い塀の向こうから突き出している枝へ、梅の蕾がたわわに実っている。  もっと外へ出かけなければとつくづく思う。全く子供は人類の宝だ、気に掛ける相手がいなければ、健康で文化的な生活どころか、基本的な生命活動の維持行為ですら、面倒になりかねない。  それにこの子だって、この生活が満更でも無いみたいだし。汗でねとねとした和希の手を握り直して、健太は頭上を振り仰いだ。 「僕、ケーキが好き。この前パパが買ってきてくれたよ」 「じゃあ今日はケーキを買おうか。おやつに食べよう」  請け合ってやれば、やったー、とまた一頻り大はしゃぎ。ちぎれるほど尻尾を振って飛び跳ねるーーもしもこの子が犬だったなら、きっとそうしていたはず。 「パパはあんまり買ってきてくれないんだ。体に良くないって」 「厳しいな。自分がプロテインばっかり飲んでるからって……辛党だしね。洋君、酒のアテって言えばビーフジャーキーばっかりなんだよ、知ってるだろ」 「僕もジャーキー、大好き」 「いいよ、買おう買おう」 「おじさんは優しいなあ」  繋いだ大人の手を揺すりながら、健太はしみじみと言った。 「パパとぜんぜん違う」 「そうだね、君のパパは」  そこまで口にして、喉の奥へぐっと塊がこみ上げてくる。  出会い系サイトを介して洋平と出会った頃、和希はまだ特養で介護職に就いていた。拡張される付き合い。セックスだけの関係だと割り切っていたのに、いつの間にか他の男を漁る気概を失い、挙げ句の果てに部屋へ住み着かれている。  仕方ない、だってと、もやもやが胸を満たすたび、和希はお得意の言い訳を引っ張り出す。  クズみたいな性分だが、案外度量の大きいところがあるのだ、洋平という男は。和希が人間関係やら激務やらといったありふれた理由で職を辞した時も止めなかった。彼だけだったのだ。せっかく手に職があるのに勿体ない、とか、また違う施設を探せば良い、とか、和希が耳にするだけで陰鬱に黙り込んでしまう、慰めじみた脅迫を口にしなかったのは。  ああ良い奴だなあ、と思うところまでで止めておけば楽だったのに。それ以上の事を求めれば求めるほど、彼の短所が目に付いて仕方がなくなる。日常的な刺々しさ。自分本位な物の考え方。風呂場の排水溝を一日掃除し忘れただけで怒鳴りつける。  愛したいんだよ、というのが和希の釈明だった。なのに洋平と言えば、体の良い性欲処理相手兼家政夫兼子守を手に入れたとしか思っていないのではないか。  彼の踏み台になどなりたくない。けれど、よく整えられた筋肉に覆われた身体へ縋り付いた時の安堵感。清潔な石鹸の匂いに混じる、彼本来の燻したような体臭。大きな手で痛いほど乱暴に尻を掴まれ抱え上げられたとき、開かれた肉の狭間で感じ取れる、自分でもどうしようもないあわいのひくつき。  昨日も散々まぐわったから、挿入され、押し上げられた辺りがしくしくと鈍痛を訴えている。なのにこの感覚を上書きする、強烈な刺激が欲しい。鈍くなる足運びに、サンダルのゴム底がアスファルトを擦る。 「おじさん」  戸惑い、心細さへ侵された声に呼びかけられ、和希はぎこちなく唇を歪めた。 「ごめん、ごめん。寝不足なんだ、昨日は夜中もドラマを観てたから」 「だめだよ、遅くまで起きてちゃ」  こまっしゃくれた物言いへの気まずさは、大欠伸一つでごまかしてしまう。頬を撫でるそよ風も、どちらかと言えば自らへ味方をしてくれているようだ。春眠暁を覚えずーーこれは誰の詩だった? ここのところ、覚えていて当然と思っていた知識が、気付けば頭の中から抜け落ちていて、恐怖すら覚えるときがある。 「帰ったらお昼寝しよう」 「えーっ……」  提案への見解は、甘ったれた音域で鳴らされる鼻が代弁する。子供はいつだって好奇心旺盛で、世界のありとあらゆる物を吸収したくて仕方がない。そのためには眠る間も惜しい、それはよーく分かっている。  けれど、寝る子は育つというのもまた、世の摂理なのだ。  どうやって退屈な義務を回避しようか、必死に知恵を絞るおつむりへ微笑みを投げかけ、和希はぶらぶらと坂道を下っていった。  結局やんちゃ坊主の目は固く、ケーキを食べた後も調子に乗って遊べ遊べとおもちゃを抱え押し掛けてくる始末。今夜はさぞ眠りも深いことだろう。毛布へ潜り込むや否や、健太はあっという間に寝息を立てていた。小さな子供用寝具に、ぴくりともしないで横たわる姿は、まるで魂のない人形のよう。  しばらくの間、和希は傍らへ添い寝したまま柔らかい子供の髪を撫でつけ、温かく丸みを帯びた頭の形を掌で辿り続けていた。暗がりの中でぼんやりしたまま、何度も何度も。  血が繋がっていないこの子に、父親と呼んで欲しいと思った。洋平の功績を簒奪するつもりはないーー彼にそんなものがあればの話だが。  同時に、「おじさん」だからこそ、こうして寛容と理解を与えられるのだと言うことも和希は理解していた。責任を持つ生活というものの、何と恐ろしいことか。もしも買い物の最中にこの子が急に道へ飛び出し、車に轢かれようものなら、糾弾されるのは自らなのだ。口に運んだおやつを喉に詰まらせたら? 寝ている最中に寝返りを打ち、掛け布団が絡まって息ができなくなったら?  よくもまあ、洋平はそんな責任を引き受ける気になったものだと、こればかりは感心する。彼が息子の母親について話す事は現時点で皆無だったが、それはつまり、ろくでもない別れ方をしたということなのだろう。恋人に優しくしない男だ。和希が風邪を引いた時も、伝染りたくないからと栄養ドリンクを一箱持ってきたきり、LINEも碌に寄越さなかった。  あの男が和希の直腸へするよう、女の膣にペニスを力強く押し込み、胎内で射精した結果、女の腹で細胞が分裂し、赤ん坊になった。10ヶ月で産み落とされたその生き物は成長し、今こういう形をしている。  世界中でありふれた出来事だとは理解しているが、何度考えても不思議な現象だと言わざるを得ない。  そう感嘆を覚える時、和希がいつも思うのは、自らの腹で同じ事を再現できないのがどうにも残念だということ。子供の高い体温がまだ残っている手で、女ならば子宮があるだろう下腹をパーカー越しに撫でてみる。少し乗った脂肪が柔らかく、ひんやりとしているだけだった。  まだペニスに勃起の兆しはない。だがとりあえず、彼が帰ってくるまでに一発抜いておこうか。もじもじ、うだうだ考えていたら、乱暴に閉まるドアの音が届けられる。がさつな物腰は、今に限って言えば興奮を煽り立てる。  居間兼台所の壁に掛けられた時計の針は、11時を回っていた。IHコンロへ乗せられたフライパンの蓋をつまみ上げ、中を覗き込んだ時、発見した麻婆豆腐に洋平は鼻を鳴らすーー何とかの素的なものへ、箱に書かれた通りの具材を加えて火を入れることが、和希の調理技術の限界だった。そのことについて洋平は間違いなく軽蔑を覚えている。面と向かって口に出さないことが余計に腹立たしい。  怒りの一部は、即座に焦燥へと変質する。まだ中華料理らしい香辛料の刺激を覚えている口の中に、唾液がじゅわっと湧き上がった。  お帰りとも言わず足下に膝を突き、スラックスのチャックを引き下ろす和希に、洋平は「おい」と低く呻いた。不機嫌な口調は驚きをごまかす為のものだと知っているから、構わずにその奥をまさぐる。  下着から取り出したペニスはまだ芯を持っていないが、十分に大きい。まとわりつく湿り気が蒸発し、むわりと鼻をつく。晒け出される一日分の汚穢は、彼の隙を突けたようにも、己を粗末に扱っているようにも感じられた。  詰めた息を、わざとらしく開けた大口で銜えると同時に吐き出す。一度熱い粘膜に包まれれば、拒むのは至難の業だ。洋平も成り行きへ任せることにしたらしい。 「何だってんだ、一体」  ぶっきらぼうに吐き捨てると、眼前の癖毛へ指を潜り込ませる。引っ張られる頭皮はずきずき痛むのに、和希は一層顔を前へと突き出した。  洋平曰く、自らのフェラチオは余り巧みではないらしい。というか、彼は「まずい」と直截的な言葉を用いた。舌の動きは単調だし、進んで喉の奥へと迎え入れようとしない。完治しない蓄膿のせいか、すぐ鼻水を垂らすし、口元は涎でべとべと。  今も水っ鼻が溢れてきたものだから、舌の腹で裏筋をごりごりと擦りつつ、何度も啜り上げる。鷲掴む手に力がこもったのは、飲み込もうとした喉の動きか、それとも掠めた糸切り歯か、どちらが原因だろう。後者だと終わってからまた何か言われるかもしれない。指で睾丸の皮を延ばし、こりこりした塊を解すように刺激して、取りあえず媚びを売っておく。頭上で伸びる重低音の唸りと、押さえつける掌の温度が心地よい。  まずいと言いながら、何だかんだと洋平はこの奉仕作業をよく命じる。和希自身、口の中で遊ぶのは好きだった。固くえらの張った先端で厚い粘膜をこね回され、上顎を擦られると項の産毛がちりちりする。続けていれば酸欠になり、頭へ溜め込んだ色々がぼやけていくのもいい。  ああでも、この頑強になればなるほど染み出してくるカウパーや精液は好きじゃないかも。うっすら眉間に皺を寄せ、できるだけ直接喉へ送り込むよう舌先を丸めた拍子に、ほかほかした雁首の付け根を弾く。がちっと一度食いしばった奥歯を何とか緩め、洋平は鋭く息を付いた。それから汗ばむ髪を掴み直し、股間から顔を離させる。 「何なんだよ」  今更それを言うのか。こんなにもペニスを隆々と勃起させて。タイミング良く、跳ね上がった肉塊で頬をぺちりと叩かれ、堪らず和希はがらがら声で笑った。見上げた先で渋面が深められれば、酷使した顎のだるさが凌駕されるどころか、お釣りすら貰ったように思える。 「腹減ったんだよ、すっかり待ちくたびれた」 「飯食ってないのか」 「健ちゃんと一緒に食べたんだけどね。これはおやつ」  と言うのは失礼だったかなと、頬に描かれる白濁液の筋を指先で擦り落としながら思い至る。 「訂正、メインディッシュ」  これが本当の夜食ならば、太るとか意志が弱いとか散々こき下ろすのだろう。けれど今、洋平は難しい顔をしたまま、口を噤んでいた。こういう表情をしたときが、彼は一番ハンサムだ。男なんだから、必要以上にニコニコしなくていい。  そう口にする自らが、どうしようもないほど脂下がっている。今から貰えるものを待ちきれない。これじゃあ待ての出来ない犬じゃないか。  情けなさや後悔は、後で覚えればいい。今はこの流れに乗って、気持ちい良さの果てまで辿りつきたい。気付けば自らの股間もすっかり興奮し、柔らかいジャージの布を押し上げている。  履き口から差し込んだ手はそこへ触れさせず、後ろへと回す。夕食後、健太がテレビへと気を逸らしている間に、風呂場で下準備は済ませていた。一人で弄る時は違和感以上の感慨を覚えないのに、こうして目の前に相手がいれば、表面に触れただけで窄まりが収縮するのは何故だろう。  洋平の先走りが幾らか絡む指先は、思った以上に冷たかった。それともズボンの中が異様に熱気を籠もらせているのだろうか。 「洋君、あ、これ……続けていい、よね?」  口にしながら、めり込んだ爪先に、ぞくぞくっと肩を震わせる。洋平は眉間の皺を深め、開始された痴態へ視線を注いでいた。 「き、気持ちいい、俺、気持ちいいことしたくて堪んないよ」 「俺は腹が減った」  呟く抑揚の薄さにまた、煽り立てられる。 「一人で盛りやがって、雌犬みたいだな」 「嘘だ、洋君だって興奮してるじゃんか……」  それでもまだ、洋平の表情が渋いものだから、鼻を啜り哀願する。今や中指は入り口の皺を擽って綻ばせようとするだけに飽き足りない。第二間接まで埋め込み、指をきゅっと締め付ける括約筋や、温かく弾力に富む襞を味わう。 「きょ、今日、昼からずっと、これのことばっかり考えてた……健ちゃんがお昼寝してるあいだに、オナニーしようと思ってたのに、ぜんぜん、寝てくれなくて……」  このままではすっかり冷めてしまうと、首を傾け、眼前のペニスへ口を寄せる。茎を唇だけで挟んで食み、扱いていれば、流れ出る唾液が幾筋も顎を伝った。 「あと、後で、料理は温めるからさ……洋君の好きな、ホタルイカも、冷蔵庫の中に、買ってあるし、今は、これ」  荒くなる息は、重ねるごとに言葉を覚束なくさせる。駄目押しとばかりに、和希は鈴口へ唇の先で吸い付き、粘っこさを増す先走りを啜り取った。ここに重ねる上目遣いも効果がないようならーー切なさの余り泣いてしまうかもしれない。胸の奥に固いしこりが出来たような気分へ陥る。  幸い効果は覿面。ぎりぎりと歯の軋る音が聞こえたと思ったら、次の瞬間頭を引き寄せられる。とっさに和希は、無防備なほど口を開いてしまった。一息で突き入れられた先端が、上顎に沿って喉の奥まで滑り込む。  相手がえずいていようが、涙と鼻水と唾液で顔中をどろどろにしていようが、挿出はお構いなしに続けられる。力強く、自分本位な洋平の動きへ連動させるよう、和希は尻へ突っ込んだ指をがむしゃらに動かした。得る微弱な快感は、めちゃくちゃにされる上半身によって増幅される。思わずよろめいて目の前の腰へ片手でしがみつくが、洋平はびくともしない。寧ろ弾力のある咽頭と、締め付ける筋肉を味わいやすくなったのか、掴んだ頭を乱暴に振り立てる始末だった。  あ、来ると思った次の瞬間には決壊が始まる。口の中では止めて欲しい、と言いたかったが、聞き入れて貰えないのは分かっていたし、何よりも自分から言い出した手前。勢いのある射精は甘んじて受け止めるしかなく、縋りつく腰へ爪を立てた。気道を奔流で塞がれていよいよ呼吸が出来なくなり、涙がどっと溢れ出す。おかげで肉のびくつく感覚を舌で味わいながら天を仰いだ時、彼の顔が見えなかったのが、とてつもなく惜しいと感じた。  辛うじて口の中へ溜め置くことに成功した精液を、シンクへ吐き出す。へこみだらけな銀色の上で渦巻く、ぬめった体液。可哀想な健太の弟になり損ねたもの達。自らを通過すれば何もかもが駄目になる。望んでいるのは、ただのささやかな平穏なのに。  いつものことながら、洋平はシンクへしがみつく和希の背中をさする真似すらしない。けれど真っ赤に火照った耳で聞き取る吐息は、信じられないほどセクシーなのだ。いつの間にか指を失っていたアナルが、きゅっと収縮する。途端意識した、じんじん響く痺れに、いても立ってもいられなくなった。  よろめきながら風呂場へ向かう途中、汚れたパーカーを脱ぎ捨て、ズボンを蹴って追いやる。現れたトランクスは無様に突っ張り、頂点に黒々とした滲みを広げていた。  温度を確かめもせず栓を捻れば、案の定シャワーは最初のうち冷水を容赦なく噴出させる。燃えるような身体にはいっそ心地がいい。今のうち、汚れた顔を洗い流している間に縮こまってくれることを祈った。だが片手で支えたペニスは、肌を打つ流水を愛撫と見なし、勢いを強める。  ううう、と精液の絡んだ喉を鳴らし、熱いそれを握り直す。擦る手つきは殆ど捨て鉢の動きだった。確かにこの直接的な刺激は、心臓の鼓動を高める。気持ち良くないはずがない。けれど、どうしても足りないのだ。  人間なんて全く不完全で、一人ではどうしようもない。そう思えたら、どれだけ楽だろう。どれだけ普遍的な命題も、不特定多数向けの主語を打ち消して「この世で俺だけは」に変えてしまうのが、和希の悪い癖だった。自分でも短所だと分かっている。洋平に聞かれでもしようものなら、あの冷たい調子で嘲笑されるのがオチだろう。  寂しい、寂しいと心の中で繰り返していたら、ペニスは腹へ突きそうなほど反り返る。擦り上げた時、指の背を思い切りぶつける雁首が、重く充血してきたように感じる。シャワーで洗い流されていなければ、先端は今頃溶けた蝋燭じみた見てくれになっていただろう。  丸める背中を伝う水滴が尻たぶの狭間に流れ入り、膨らんだ縁へ留まるのを取り込もうと、アナルが喘ぐ。寂しい、寂しい、寂しいと、題目のように唱える文句は、いよいよ容量を超えて膨らみ、胸は今にも張り裂けてしまいそうだった。それでも構わない。気を抜け口をつきそうな「洋くん」との呼びかけを、紛れ込ませる余裕もないのだと思えば。  そういえば今日、彼とキスしなかった。アイコスに変えたから健康的だなどと戯言を抜かす、ヤニ臭い唇と。  薄く開いた寂しい唇は、勝手に声を漏れ溢れさせる。和希は抑えることをしなかった。どうせシャワーの音に紛れて外には聞こえない。彼は聞いちゃいない。  押し入ってきた気配に振り向く暇もない。突如背中へ覆い被さる重みに、和希は思わずたたらを踏んだ。タイルの上で滑りそうになった足は、腰に回された腕のお陰で持ち直す。  先ほど抜いたばかりだと言うのに、右の尻へ押しつけられた堅さは禍々しい域まで復活していた。 「お前、自分のやりたいことだけやったら……人のこと棒扱いしやがって」  短い息の音と共に言い捨て、洋平は力任せに尻たぶを割り開く。押しつけられた先端は、まるで灼熱だった。 「あつい」  譫言めいた口調で呟けば、破裂しそうに脈打つこめかみへ、血の気の上った頬が押し当てられる。 「これが欲しいんだろ」  素面で聞いたら笑ってしまうような台詞も、寒気から一息に飛んだ狂熱に翻弄されている状況では、素直に頷くしかない。  強引に押し入られるのは痛みが勝るが、これを耐えれば気持ちよくなる。腰をぐいぐいと進められるたび、和希は衝撃に任せるまま、あっ、あっと短く高い声を肺から押し出した。そのたび洋平は、和希の腹へ回した腕へ一層の力を込める。  触れ合う熱に、これほどまで安堵するなんて。遂に決壊した涙は眦から溢れ、止め処ない。洋平は気付いてくれるだろうか……いや、滴はシャワーと張り付く髪に奪われ、触れ合う肌へ届かない。それに彼は、真剣そのものだった。力任せに腰を引いて尻を突き出させると、本格的な交わりにかかる。  ちらと振り返ったとき、視界に入る真面目腐った表情は、男臭く、同時に可愛らしい。きゅうっと腹の奥が窄まる。ふっと吐き出すように笑い、洋平は皺がなくなるほど広がった和希のアナルを、自らのペニスへ更に圧着させるよう指で揉んだ。 「ひ、ぃ、いや、洋くん、やめろってば」 「こんなにびっちり銜え込まれたら、さすがに感動するよな」  中途半端な挿入は辛い。蹂躙者は恐らく理解している。自らが軽く腰を跳ねさせれば、膨らんだ先端が充血しきった前立腺を抉ることに。ただ触れているだけでもじぃん、とした痺れが生まれ、四肢の末端まで届けられるから、和希は壁に付いた指を曲げ、必死に耐えた。 「っ、ぅう、そこ、痛いんだよぉ……」 「痛いんじゃなくて気持ちいいんだろ」  空いた手が肩から二の腕へと滑り、脇の下を通って身体の正面へ。まるで無造作に、情け容赦なく、無骨な指はぷっくりと膨れ上がった和希の乳首を捻り上げた。 「あ、ぁあっ……! ひ、や、やだ!びりびり、する!」   凝りきった芯を親指と人差し指で摘んで真下に引っ張られたり、こりこりと揉みしだかれると、張りつめたペニスから濁った体液がぼとぼと落ちる。膝が今にも外れてしまいそうなほどがくがくと痙攣し、本気で恐怖を覚えた。 「よう、くん、そ、んな…おれのこと、女に、するの……?」  彼は律義に反対側の粒も同じように捏ね、そのたび頭の中で火花が散るかのよう。回らない呂律で必死に訴えれば、洋平は訝しげに眉を顰めた。 「女?」 「だ、て、おれ、女のかわり、むり……」  今散々と弄られている場所に豊かな膨らみはないし、料理も出来ないし、赤ん坊も産めない、それどころか母性と呼ばれる優しさや責任感もない。あるのはただ、就業意欲が希薄で、皆から軽んじられるうえ、自分でもうんざりするほど発情しやすい肉体だけ。  子供を孕ますことのできる素質があるのに、ずるい。  憎らしいとか腹が立つとか、これまで洋平に抱いてきた負の感情は星の数ほど。けれど今感じているのは、彼が自らの領域を侵犯してから、初めて覚えた気持ちだった。そこには必ず、あの可愛らしいマッシュルームカットの坊やが付随する。馬鹿げていると頭では理解していても、こみ上げてくる妄執から逃れることは難しい。  自ら望んで社畜人生を歩むパパは、坊やが起き出す頃には家を空けているし、眠る頃にはまだ会社。生活へ滅多に顔を見せない。普通に過ごしていてもそうなのだから、何も引け目を感じる必要などない。あのもみじみたいな手が伸ばされたとき、一番に掴みたいと思っている存在を、自らが独占していることについて。もっと沢山遊んでくれて、おいしい料理を与えてくれる新しいママの可能性を徹底的に潰していることについて。  自らが不十分にしかこなせない癖、恩着せがましく誇示する仕事は、殆どの人間がちゃんと片付けることの出来るものだ。厚かましい男と暮らしていたら、自分まで厚かましくなるのか、いやこれは、元々の性分か。 「馬鹿言え。こんな具合のいい女、いてたまるかよ」  うんざりしきった声が、湯気の満ちる狭い室内にぼやけて響く。それまで気まぐれに前立腺をつついていた先端が、ごりっと音が鳴るほど強く擦り付けられる。 「あ゛、う゛ぁああ」  貫き通される質量に、呼吸が止まった。固い陰毛が、普段露わにならない尻の間に押しつけられたのが、最果てまで行き着いた合図だ。  思い切り喉を逸らしたまま、和希はしばらくの間硬直していた。小規模の絶頂とは言え、ぷっと濁液を吹き出した鈴口は、ぱくぱくと開閉を続ける。  洋平のペニスは太い上に長い。根本まで埋められると、文字通り串刺しにされた気分になる。 「俺のものを受け入れられるのはお前だけだよ。女だったら痛いとか怖いとか……ほんと、エロい穴だよな」 「ん…な、俺、すごい…?」 「ああ。最高だ」  嘘ではない証に、洋平は肉付きの良い腰へ指を食い込ませ、熱い息を吐き出す。ざわざわとうねり吸い付く直腸は、狼藉者を柔軟に受け止めた。硬直は取れ、上下左右から立体的にもみくちゃとなる。大してローションも仕込んでいないのに、粘り気を帯びた襞は全く嬉しそうにペニスを舐めしゃぶるのだ。  隙間なく満たされるこの瞬間ほど、幸せな時はない。主導権を完全に乗っ取られるということは、今自らの中に、彼しかいないと言うことだから。ひれ伏すかのように深々と垂れた頭を肩口に擦り付け、和希は腹の中を占領するペニスの圧迫感を、心行くまで味わった。本当はもっともっと、出来ることならばずっとずっと、酔いしれていたい。けれど身体は、この先にある爆発的な快感を知っている。我慢できない。 「洋くん、洋くん、」  うずうずと尻をくねらせ、和希は訴えかけた。望みはすぐ叶えられるだろう。洋平だって、忍耐強いとは決して言えない性分だし、とんだ好き者なのだから。  そして容易いと思っていたことほど、いざ挫折すると、衝撃が大きい。  ペニスが体内から抜かれる動きは、全く唐突で思い切りがよく、上擦った悲鳴を上げてしまう。細く開けたドアの隙間から、湯気は勢いよく逃げ出し、入れ替わりに冷気が押し寄せてきた。 「健太が、ないてる」  腰に巻かれるタオルの白さと、浮かび上がる隆起が、へたり込んだ視界へちょうど飛び込んでくる。止める間もなかった。洋平は足音も高く浴室の外に消える。  衝撃が収まってくると、触れ合うタイルの冷たさが尻と太股から這い上がってくる。無慈悲に降り注ぐ温水の一滴一滴が、敏感になった肌へ打ち付けられ、痛みを感じるほどだった。 「なんなんだよぉ」  上げた情けない声は、曖昧にぼやけてすぐさま消える。涙腺の緩みは先ほどまでなら快感由来、今は惨めさ。本当に、大声を上げて泣いてやろうかと思った。そうすれば、洋平は飛んできてくれるだろうか。あのクソガキへしてみせるみたいに。  子供なんか嫌いだ。面倒ばかりかけるし、ここぞという時に限って邪魔をする。自分のことだけで精一杯なのに、これ以上の厄介事を抱えるなんてとても無理だと、和希はつくづく実感した。  耳を澄ませれば、確かに聞こえてくる甲高い喚きと、男が誰かを宥めるときにのみ使う、取って置きの猫なで声。自らはあんな声をかけてもらったことなど一度もない。可能な限りの厳しさで閉じた扉を睨みつけるものの、気配が戻ってくる様子は一向に伺えなかった。  窄めた目にもシャワーは容赦なく、眼球が痛みを覚える。目尻からだらだら伝うぬるい水を拭うこともしないまま、和希は萎えかけたペニスの根本を固く握りしめた。    幸いと言うべきなのか何なのか、洋平が席を外していたのは10分足らずのこと。後はたっぷりと楽しんだ。つまり代わり映えのしない掘削作業。急激に上ったと思えば突き落とされる悦楽の坩堝。さながら古いサウナで盛っているかのように、バスタオルを敷いたきりの床で足を抱え上げられ、真上からがんがんと突かれまくったものだから、身体の節々が痛む。  許されるならばベッドで惰眠をむさぼりたいところだが、翌日に限って洋平の仕事が休みの日曜日と来る。  昨夜の激しい運動で逆に興奮しているのか、彼はとっととベッドを抜け出し、隣室でがさがさ、ごそごそ。適当に何か、昨日食い損ねたホタルイカでも腹へ収めたら、パチンコにでも打ちに行くのだろう。和希が久しく味わっていない娯楽。収入を失い、切り崩す貯金と洋平から渡される金で生活する今、和希は包囲する輪がじわじわと縮められている事実を嫌でも味合わされていた。  第一、二人揃って店舗へ赴けば、お守りをする人間がいなくなってしまう。たかだか数時間、テレビをつけておけば容易にやり過ごせるようにも思うが、子供は時に予想も付かない行動に出るものだから。  今も健太は、ノックもせず部屋へ走り込んで来るや否や、ベッドに乗り上がってきた。 「トランポリンじゃないんだから……」  呻いて毛布を被り直す和希の肩へ、冷たい鼻面を優しく押し当て、甘えた音域で鳴らす。汗と精液の臭気に濁る空気を循環させようと、洋平はベランダに面したガラス戸を細く開けていったのだろう。暖かい春風に乗って、代謝の良い子供特有の香ばしいような匂いが鼻を擽る。 「おじさん、朝だよ」 「今日は休み……」 「おじさんはいつも休みでしょ」  これだからガキなんてものは。  本気でかっと燃え盛った腹の奥は、押しのける腕に力を与える。ころりと転がされても、寝返りを打って背を向けられても、健太は諦めない。頼むから諦めてくれよ。そうでないと、本気で疎ましくなる。今の状況では、二の腕に触れた小さく柔らかな手の感触すら、煩わしさを加速させるものでしかなかった。 「パパがおうちにいるよ。お外も晴れてるよ。みんなでお散歩しようよ」 「パパは行きたがらないんじゃないかな」 「そんなことない」 「あるよ。洋君は、そんなの面倒くさがる」 「ないってば。おじさんが行こうって言えば、パパはウンって言うよ」  非力なりに揺さぶる勢いは激しさを増す。遂に放たれた怒り混じりの唸りは、自らでも笑ってしまうくらい癇癪の音程を作った。 「分かったって! 後で誘うから今は少し静かに……大人しくしててくれよ、良い子にしてないと、お願いしてあげないからね」  やはり子供へ言うことを聞かせるには、優しい言葉より脅しがいい。警告は即座に効果を発揮する。渋々とはいえ、健太は身を離す。マットレスの振動と共に、鬱陶しい熱源が去っていった。  子供は世間が言うより百倍は図太いと、和希は短い期間に学んでいた。今だってあの子はしょげ返ることなどなく、けろりとした顔で新たな遊び相手の元へ向かうのだろう。  心の中で自らにそう言い聞かせれば言い聞かせるほど、目が冴えていく。せっかく一眠りしようと思ったのに、本末転倒も甚だしい。へたった枕にぐりぐりとこめかみを押しつけ、和希は溜息をついた。身を縮めるだけで股関節が痛む今の状態に、散歩なんてとんでもない。 「おじさん、昨日の晩運動してくたくたなんだ。これ、君のパパのせいなんだよ。恨むならパパを恨みなね」   期待するふてくされた返事は戻ってこない。しん、と静寂が耳を打つ。  首を捻り辺りを見回すが、小さいながらも存在感に溢れる姿は影も形も見あたらなかった。マットレスに片肘をつき、もう一度ぐるりと視線を走らせる。  柔らかい日差しが、傷だらけになったフローリングの上で、ちらちらと踊っていた。  便宜上ベランダと呼んでいる場所は、実際のところ物干しスタンドを広げただけで一杯になってしまうほどの広さしか持たない。打ちっ放しの床を数歩踏み出した先には、大人の胸の高さまである柵が据え付けられている。その隙間と言えば、握り拳をやっと差し入れられるかどうかという幅なのだ。  一体どうやれば、その間から滑り落ちることが可能なのだろう。  見下ろした先で視界一杯に広がるビニール袋の黒は、完璧な青空から降り注ぐ太陽の光を完全に吸い取る。家主は共用のゴミ捨て場へいつまで経っても屋根を設置しようとせず、被せるネットでカラスへの対策を終えたつもりでいた。  幾ら積み上げられたゴミがクッションになると言っても、三階から落ちようものなら。健太はぴくりとも身じろぎをしなかった。緩く身を丸めた姿は子宮から掻爬された胎児を思わせる。  上げられた金切り声に、洋平は間髪入れずに駆け付けた。同じ場所を見下ろし、「何てこった」と呟く口調は呆然としたものだが、続く行動は迅速だ。すぐさま外へと飛び出し、動かなくなった体を回収するーー微動だにしないのだ、自らの意志では、運ばれている間も、部屋へ連れ戻された時も。眠っているように穏やかな表情と、垂れ落ち慣性の法則に従い揺れる四肢を目にし、いよいよ和希は恐慌から抜け出せなくなった。  死んでしまった、殺してしまった、自らが! いらない、いなくなれと願ったら、まさか本当に消えてしまうなんて。可哀想な坊や、部屋に閉じこめられ、まともなご飯も与えられず、一度世話を引き受けたならば責任を負うべき人達に、これっぽっちも大切にして貰えなかった。  この子の魂と一緒に、自らと洋平を繋ぐ大事なパーツが失われてしまったと、和希は確信した。小さな命をこんな酷い目に遭わせた人間は、幸せになる資格などない。他人を愛することが出来ないのならば、そんなことはとてもじゃないが。  いよいよ青ざめ、追いつめられたように凍り付く和希をまじまじと見つめながら、洋平は戸惑いも露わに口を開いた。 「お前がそんなにも、こいつのこと可愛がってたなんてな」  途端、信じられないものを見るような眼差しが二揃い、健太の体の上でぶつかり合う。和希は必死に言葉を絞り出そうとしたが、干上がった喉はひゅう、と甲高い音を立てるだけだった。押さえ込むようにして重ねられた洋平の言葉は、とうとう和希のひびわれた心を徹底的に打ちのめした。 「そんなに気に入ったなら、また新しいのを買ってやるよ」

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