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洋平と(和希と)犬の生活

「最近ツレが凄い病んじまってさ」  洋平のぼやきに、美佳は「えぇ」と相槌を返すものの、スマートフォンに落とした視線を持ち上げることはない。昼休憩へ入る直前に、四半期の売上データ用エクセルの関数が壊れてるとか壊してないとか、水掛け論を繰り広げたことを、未だ根に持っているのかもしれない。そんなこと言うなら自分で入力してくださいよ、か。どいつもこいつも責任転嫁ばかり、自分を何様だと思ってやがるんだか。 「ケンタが怪我して以来、ろくに口も聞こうとしねえし。顔を合わせたと思ったら化け物にもで遭ったみたいな顔して部屋に閉じこもって。ああもメソメソされたら、こっちが病気になりそうだ」 「ケンちゃん、具合はどうなんですか」 「大したことないって、ちょっと脚を捻っただけなんだから」  ケンタの名前を出したときだけ、美佳は僅かに言葉の抑揚を豊かなものにする。休日出勤の際など何度か連れてきて以来、気に入っているのだろう。一度など「これ、良い子でお留守番してるケンちゃんにどうぞ」と手作りの菓子をくれたことも。 「今はもう、すっかり元気になって家中を走り回ってる。なのにあいつは、当てつけみたいにケンタを抱きかかえてさ」 「それだけ大事にされてるんですよ。有り難い話じゃないですか」  との返事が戻ってくるまでに、洋平がコンビニおにぎりの包装を剥いて、食べ終わるまでの時間が要される。彼女は近頃、何かゲームにはまっているらしい。液晶画面をタップする指の動きは機敏で、下手くそに塗られたオーシャンブルーの爪が硬質に光る。 「普通は連れ子なんて、邪険にするもんでしょ。この前も赤ちゃんが餓死したって、ニュースでやってたじゃないですか」 「連れ子なあ」 「彼女さん、今仕事しないでずっと家でケンちゃんの面倒を見てるなんて。普通に考えてノイローゼになりそう」 「ケンタは良い子だよ」 「そういう問題じゃなくて」  タッパーからスプーンで炒り卵を掻き出し、口に運びながら、美佳は言った。狭い事務所に響く声は耳にすればうんざりするし、恐らく放つ本人も。どうしてこの話題を提示してしまったのか、洋平は今になって思い切り後悔していた。なのに口は止まらない。  缶コーヒーで歯にくっつく海苔を洗い流し、事務椅子をぎこぎこ軋ませながら、注意を引くよう仕向けてしまう。効果はほんの少しだけ。美佳は煩わしげな横目を一瞬だけ投げかけた。 「面倒事を無くそうと思って一緒に住み始めたのに、一体全体、何でこうトラブルばっかり起こるかな」 「全くの他人が同じ屋根の下に住むんですから、普通はトラブルだらけになるんじゃないですか」 「普通は、か。橋本さん、意外とそう言う社会規範的なこと、言いたがるんだな」 「私、普通の社会人ですから」  「ふーん」とだらけた相槌を打ちながら、デスクの下に投げ出してある鞄へじゃらじゃら付けられたアニメキャラクターのラバーストラップへ目を走らせる。社会に適応しようとしているオタクを普通と呼ぶのかは保留するが、そう言えば彼女、彼氏とかいるのだろうか。実はいるのかも知れない。自らが男と同居していると、この会社の誰もが知らないのと同じで、世の中は思う以上に「意外」が満ちている。  通俗的観念などクソくらえ。社会的道義に照らし合わせれば、自らの生き方なんて幾ら糾弾されてもされ足りることがない。一つ向こうの島のデスクから、同僚が顔を突き出す。 「長野さん、山下のおじいちゃんから電話。また返品の件」 「あー、今外回り中って言っといて」  しょせんはボケ老人、後一回くらいは対応を引き延ばしても、消費者センターへ駆け込もうとはしないだろう。  反り返っていた姿勢を戻しても、美佳は無表情で冷凍食品の揚げ物を咀嚼し、スマートフォンを弄くり続けている。鬼気迫っているとすら言える横顔だから、これでお喋りは終わりなのだと思っていた。だが彼女は傷んだ髪を手で掻き上げながら、溜息混じりに口を開く。 「彼女さんの落ち込み方、ちょっと重症過ぎじゃないですか。ケンちゃんのことの他に、何か悩みがあるのかも」 「まあ、そりゃ色々あるだろうな。あいつも大人なんだし」  また深い嘆息。彼女の突き放したような物言いを気楽だと感じるか、徹底的に嫌うか、事務所の同僚内で評価は二極化している。普通に考えれば後者なのだろう。前者だと捉えがちな洋平ですら、時にイラッと来る。 「それは彼女さんも病みますよね」 「おっ、言うじゃんか」 「自分が大事にしてるものを彼氏が大事にしてくれないんですから。一緒に何かをしようって気がないって、付き合ってる意味無いじゃないですか」 「共通の趣味を持てってことか」 「違います。て言うか、そんな相手と一緒にいて、長野さん、楽しいんですか」 「だって元々セフレだから」  美佳の顔へ露骨に乗せられた嫌悪は予想していたものだったので、洋平は平然と残り少なくなった缶コーヒーを啜った。 「でもまあ、同棲するってことは、それ以上にならないとまずいよな」  自らで口にしておいて、同棲という言葉は洋平の胸へずしんと重くのしかかった。深く考えず、自らは思い切ったことをしたのだなと今になってしみじみ実感する。 「本当に思ってるって」  そう重ねても、美佳は胡乱気な視線を向けるばかり。昼休憩は終わりに近付いている。こつ、こつとスマートフォンをタップする音は鋭さを増していた。 「ケンちゃんを大事にしてあげてくださいよ。彼女さん、いくら可愛がってるって言っても、我慢の限界が来るかも」 「それは無いわ、もうこっちがヒく位溺愛してるし」  焼き餅妬いているの、と、まだ今ほど不健全な精神状態へ陥っていなかった頃の和希はニヤニヤ指摘したが、とんでもない。正直本気でビビっている。元々連れてきた自らですら、あそこまで本気になって向き合おうと思ったことはない。  こんなことになるなんて、全く予想外だった。幾ら何でも、情熱を傾けすぎではないか。  たかが犬に対して。  築浅だからと言って綺麗な奴が綺麗に用いているとは限らない。門柱へ取り付けられた認証システムに数字を打ち込むと、洋平は足下へちらばるダイレクトメールの束を跨ぎ越えた。先ほど遠目に見たとき、明かりが点っている窓はアパート全体の半分ほど。和希の部屋は真っ暗のまま。つまり今日もまた、めそめその日なのだろう。心底うんざりする。  部屋のドアを開けると、電気をつけるよりも早く黒い影がこちらへ飛んでくるのが見える。靴も脱がずにしゃがみ込み、体当たりするような勢いの全身を撫で回す。ケンタは益々興奮して一生懸命伸びをし、髭でざらつく洋平の顔を舐め回した。  マルチーズとダックスフントのミックスだと元の飼い主は言っていたが、要するに胴体が長めで手足が短い白黒のマルチーズと言った見かけ。垂れた耳から額に掛けての黒っぽい毛に、カリカリがこびりついている。指で摘み取ってやりながら、洋平はぶんぶんと振り回される短い尻尾の向こうを見遣った。 「困ったおじさんだな。今日も一日ねんねか」  言葉が通じたわけではないだろうが、洋平の後をついてくるケンタの足取りは、先ほどよりも恐る恐ると言ったもの。引き戸を細く開けても中へ飛び込もうとはせず、足下にまとわりつくばかりだった。  ベッド上のこんもりとした膨らみは微動だにしない。「生きてるか」と洋平は、自分でも間抜け極まりないと分かっている言葉を、半ば真剣に口にする。「生きてるよ」と、和希は可能な限り明るく返そうとしたのだろう。無理して作る抑揚は逆に空虚さを生み、まるで一際濃い部屋の隅の影から響いてくるかのようだった。 「飯食ったのか」 「うん……ごめん、洋君の作ってない」 「いい。疲れてるなら寝てろよ」 「ごめん……」  最後の辺りは殆ど口の中で呟かれる。頭を持ち上げて、こちらを見ようとする素振りすら見せない怠惰に、一言もの申したいのは山々だが。ぐっと奥歯で噛み潰し、洋平は扉をぴたりと閉めた。また今夜も、この沈黙と戦うのか。そう怒鳴り散らすことが出来ればどれほど楽だろう。攻撃する代わりに、今夜も「だが」と繰り返すことで、自らを宥めるよう仕向ける。  だがそもそも、家での会話が途絶えたことの、一体何が問題だと言うのか。これまでだって一人暮らし、ケンタに向けて投げかける独白じみた愚痴を会話と呼ぶ生活。そこから考えれば十分な進歩だ。近頃三日に一回ほどの頻度に減ったとは言え、帰宅すれば夕食があるときもあるし、和希の気分が良ければ洗濯だって。  それにこの事態は、最初から予期できていた範疇だ。自らを惨めな存在と捉えることを洋平は許せなかったので、常々そう考えることにしていた。アルバイトをクビになり、実家とも不和を起こし、和希の消耗は目に見えて無惨なものだった。  こいつ、このままの流れで首でも括りそうだな、と思ったのは、いつもながらのセックスが終わったある夜のこと。こちらに向けた背を丸め、後始末も禄にせず寝ようとした和希がぽつりと漏らした「寂しい」という言葉は、暗闇の中にやたらとくっきり響いた。彼はかなり大きな声で独り言を口にすることが多々あるのだが、本人は全く無意識。やめろよキモいおっさんじゃねえかと一度指摘したとき、本人はきょとんとした顔で首を傾げていた。まるで餌を待っている子犬みたいな顔で。  興奮した脳が繰り出す様々な記憶を統合した挙げ句、こいつと一緒に暮らしても問題は無いだろうな、との結論に至った。あんまり落ち込みまくって、一人にしておくと消極的な自死に走りかねない物腰の男を放っておくのは、気分のいいものではない。何故って、自らは彼のことが好きなのだから。  改めて口にすれば背中が痒くなってきそうだが、認めなければいけない。共に時を過ごせば、人生が潤いそうだと期待を掛けたとき、その相手に抱いている感情は好意だ。そして自らは、和希と出来るだけ長く、より良い生活を送りたい。一度味をしめれば、元の生活へ戻るのは至難の業だ。  何日か前、和希が炊いてラップにくるみ、冷凍庫に積み重ねた米と、有り合わせの焼き豚やらネギやらで炒飯を作っていれば、ケンタはしつこく周りをうろうろ、ちょろちょろ。夕飯をやっていないのかと訝しんだが、どうやらおこぼれを狙っているだけのようだ。この犬を舐めるように可愛がっている和希は、身体に悪いと洋平がどれだけ忠告しても、自分の食べているものを分けてやろうとする。犬もすっかり、甘やかされるのに慣れてしまったらしい。 「駄目だ。俺は和希と違うぞ。それに、最近おまえ、太ったんじゃないか」  ちょっと怖い顔をしてメッと叱っても、ケンタはその場に座り込み、短い舌をぺろりと出して小首を傾げるだけ。見上げる瞳は全くつぶらだった。自分にとって悪いことなんか、何一つ起こりはしないと、疑いもしない。  洋平は首を振り、焼き豚の切れ端を放ってやった。短い足なりに一生懸命飛び上がってキャッチするなんて、この家へ来るまでは出来なかった芸当だ。  もっとも、一切れで我慢しているのだから偉いと誉めてやるべきなのかも知れない、本来は。飼い主が飯を掻き込み、時にビールで流し込んでいる間、ケンタは大人しく主人が腰掛けるソファの傍らに身を丸めていた。食事中、周囲をガサガサ動き回られるのを洋平が好まないと知っているかのように。もしくは洋平が肌寒さを覚え、温もりを求めていると知っているかのように。  観るつもりだったテレビ画面は黒いまま。写り込む自らの顔が、信じられないほど苦々しいと知り、洋平は缶ビールをぐいと一気に煽った。アルコールは高揚とくつろぎを呼ぶのが常だが、今夜は寧ろ暗澹を増幅させる。  腹を爪先で軽く踏み揉んでやれば、ケンタは迷惑さを隠しもせず、フローリングを尻尾で一度掃く。こちらを窺うくりっとした目と、確かに命を感じる温かさに、洋平は小さな体躯を膝に抱き上げた。 「あいつはお前のせいで落ち込んでるんだぞ。もっと元気だってアピールしろよ」  一人ごちる窘めの言葉など、気にもかけられることがない。耳の裏を掻く指に全てを委ねきり、無防備に四肢を突っ張らせている。  半同棲まで行ったセックスフレンドの女が置いていったペットだが、自らは思っている以上にこの犬が可愛いのだと、そのとき洋平は気が付いた。まるで子供のように……この生活が続く限り、誕生する可能性は皆無の存在。 「俺だって心配したんだからな。柵から飛び出すなんて……まさか自殺するつもりだったのかよ、和希みたいに。いや、そもそもあいつに、死ぬ根性なんざあるのか」  赤ん坊なんか煩わしいだけ、欲しいと思ったことは全くない。が、そう言えば和希は、自らを女の代わりにしているのかと、やたら食い下がってきたことがあった。  彼は子供を求めているのだろうか。元来愛情に満ちている性分だ、産まれた暁にはさぞ可愛がることだろう。  いや、違う。汗を掻いた二本目のビール缶を鷲掴んでプルタブを開け、洋平は苦い液体を飲み下した。あんな責任感の欠片もない、現実逃避の気が強すぎる男に、ガキの相手なんか無理だ。それは間違いなく本人も分かっているはず。とにかくものぐさな性分の人間が、一から何かを作り上げるなんてご大層なことを望むはずが。  あいつに出来ることと言えば、既存の物を組み立てることくらい。なにせレトルトの麻婆豆腐を美味い美味いと平気で食える程だから。  犬がきゅんきゅんと鳴き声を上げ、冷たく湿った鼻面を腕に押しつけてきた。求められるまま顎の裏から首輪の内側に掛けてを撫でてやり、そのまま顔を仰向けさせる。長い毛足に隠れた口を引き上げて、ケンタはさもご機嫌に、まるで笑っているかのような表情を作っていた。  本当のところ、これ以上何も望む必要はない。これ以上ないほど充足した一瞬一瞬が積み重なり、全ては満ち足りていた。  その事実を、あの男へ分からせる必要がある。少なくとも、自らがそう思っていることを。わざわざ小難しく考えずとも、彼が望めば何だって手に入る状態へ、既に陥っているのだということを。 「なあ、お前だってそうだろ。毎日が楽しいと思わないか。ここは寒くも暑くもない。和希は優しいし、焼き豚の尻尾も貰える。犬として最高じゃないか、こんな生活」  頬を両手で包み込み顔を近づければ、ケンタはわんと吠え、鼻の先をぺろぺろと舐めた。  犬ですら理解していると言うのに。考えれば考えるほど向かっ腹は立つばかりで、とうとう洋平は席を立った。 「いい子にしてろよ」  言い聞かせたそばから、ケンタはテーブルの上に乗せていたビーフジャーキーの袋をくわえて床へと引き落とした。どうせ残っているのは一切れか二切れだからと、今回は容赦してやる。  この家にいるのは待ての出来ない奴ばかりだと自嘲するのは後でいい。喉元へ籠もったような熱へ促されるまま、洋平はネクタイを引き毟るように外した。  がらりとドアを開け放ち、部屋へ踏み込む前から、その空気には気付いていた。熱く、濃厚で、生臭さすら孕む官能の気配。  毛布の小山が膨らんでは萎み、伸び縮みする脚の爪先がシーツを掻く。連なる衣擦れに、ふっふっと荒い息遣いが混ざり、時には鼻にかかった甘い呻きも。もしかして、声を抑えているつもりなのだろうか。  洋平が乗り上げた拍子に上がったマットレスの軋みへ、くちっと小さな水音が被さる。毛布を肩口まで引き下ろせば、和希は白々しく目を見開いた。 「ぁ……あー、洋くんかぁ……」 「他に誰がいるってんだ」 「ケンちゃんかと……」  身にまとわりつく化繊は、熱気でいくらか湿って感じるほどだった。完全に剥いでやれば、剥き出しの下半身がぶるりと震える。仕事を止めて少し肉付きが良くなったのかも知れない。豊満な尻は日にも焼けず、暗がりの中で青白く目を惹きつけた。  肉の狭間も、そこへ挿し入れられた指も、既にぬらぬらとぬめりを帯びていた。凝視を感じれば、さすがに気まずくなったのだろう。抜き差しは止んだが、それでも泥濘をこねるような音が断続的に響く。薄く開いた唇から憚るような息を漏らし、和希は充血した目をぎょろっと洋平へと向けた。 「ここ、つかう?」  粘度を増した腸液とローションが、くぱりと開かれる二本指に合わせて一際大きな音を立てる。数え切れないほど擦られて赤黒さを増した粘膜も、すっかりひび割れた自分の心も、まるで何とも思っていないようなその物言いが、かっと腹の底を燃やす。振り上げた手は拳に固めて、その鼻っ面へ一発食らわせて遣るつもりだった。  間違いなくそのつもりだった。なのに腕は、一人で燃え尽きてしまいそうな身体を固く抱きしめていた。 「よ、洋君……」  くるしい、と声が上擦るのは、官能ではなく戸惑い故だ。構うことなく、洋平は汗ばむ首の付け根へ顔を埋めた。何日か風呂へ入っていないらしい。隠しようのない加齢臭、その他諸々の甘酸っぱいような匂いがむっと鼻孔に押し寄せる。37歳。責任を持つ必要のある身体は、大人と呼ばれる段階を通り過ぎている。にも関わらず、彼はこれまで従順に、良い子にして、待っていたのだ。  うっそりと顔を持ち上げ、洋平は目の前の顔を覗き込んだ。汚いものなどこれまで散々目にしてきただろうに、和希の瞳は星でも散らしたようにきらきら輝いて見える。皮膚の薄い目元が赤く染まっているのを見えると、胸が締め付けられたかの如く息苦しくなる。 「和希」  低められた声で呼ばわれたとき、和希は怯えた風でびくりと肩を揺らした。押しのけようとしているのか、掴もうとしているのか、肩に触れる手指へ僅かに力がこもる。 「そんな暗い顔すんなよ」 「く、暗い顔……してるかな」 「言いたいことがあるなら言えよ。あんまり溜め込んでちゃ、俺がいる意味ないだろ」  思ったよりも深刻な声が出たことに、まず面食らったのは洋平自身だった。和希も腫れぼったくなった瞼をぱちぱちさせ、眉を八の字に下げてみせる。 「別に溜め込んでなんか……俺、洋君がいてくれて、助かってる」 「今まで独身生活を謳歌してたくせに、窮屈じゃないのかよ」 「おうか……」 「楽しんでた」 「ああ……」  しばらく言葉を咀嚼していた後、額には益々困惑の皺が刻まれる。 「それ、洋君こそじゃないの」 「俺は好きでやってるんだ」  そのまま和希が目を逸らしてしまいそうだったから、両掌で彼の顔を包み込んだ。顎の輪郭が今にも緩みそうな、固い無精ひげのちくつく頬。手に入れてこんなにも安堵を覚えるのは、他にケンタを撫でているとき位のものだった。 「俺はお前と一緒にいたい。仕事をしてなくても、仕事をして愚痴ばっかり言ってても、一日中昼寝して不機嫌になってても、レトルトしか作れなくたって構わない」 「俺、そんな不機嫌かなあ」 「分かってる、不機嫌になってるのは俺だよな。最近仕事が忙しいから」  尖った唇を摘むように唇を重ねる。ごまかしかと思われてしまったら不本意だ。可愛いと、心の底から思っての行動なのに。 「お前とケンタさえいれば、俺は満足なんだ。ここに基盤を作りたい」  何度も啄む合間に吐き出す声は、まるで息継ぎを忘れてしまったかのような響き。重ねるごと苦しみの色を帯びる。 「なあ、お前さ……分かってんのかよ」 「わ、かんない」  舌で唇のあわいを舐められ、舌先がちらちらと掠め合う愛撫に、和希は早くも語尾をもつれさせる。真上にある、汗で汚れたワイシャツの襟を固く握りしめ、切れ切れの言葉は怒りすら感じ取れた。 「分からない、よ。だって、洋君にはケンちゃんがいる。俺よりも、あの子を大事にしなきゃ、駄目だ」 「馬鹿言え」  ぐっと手指に力をこめてしまう。顔が歪められようと構わない。逃がすつもりはない。 「そりゃ勿論、ケンタは可愛いよ。でも俺はお前とあいつなら、お前を選ぶ。当たり前だろう」  口付けが深まるにつれ、和希の目は益々見開かれる。そこに悲しみと虚脱と、何よりも悦びがあることを、洋平は見逃さなかった。  精液の味がしないキスは久し振りな気がする。食事をしていたにしては、和希の舌は甘い。人工甘味料のたっぷりの菓子かジュースでも飲んだのだろうか、もしや夕食というのも、そんな間食じみたものでカロリーを補ったつもりになっているのか。苛立ちはだらしなさへ覚えるものから一歩前進する。彼に自らを粗末に扱って欲しくないと心から思う。  水気が滴りそうな程に含まれた、短いが肉厚の舌に自らの舌を絡める。気持ちのいい裏側を擦られ、和希は呻きを上げて舌を一度ぴんと引き攣れさせた。その隙に殊更柔らかい顎の裏の肉へ、固く尖らせた舌先を沈み込ませる。どっと溢れ出る唾液を、洋平は渇ききっているかの如く啜っては、自らも流し込んだ。 「今日はお前を甘やかすぞ」  その確固とした宣言より、充血した唇同士を繋ぐ銀糸が途切れてしまうことへ、和希は気を遣っていた。ぼんやりと霞んだような目は、幾らかのタイムラグを挟んで洋平の視線へ合わせられる。 「え……?」  繰り返すことをせず、洋平は足首を掴み、脱力した身体を引っくり返した。  尻を突き出すような格好へ、和希は今更恥ずかしがって見せる。あたふたと毛布を手繰り寄せようとするから、雄大な尻たぶをぴしゃっと叩いてやった。うへっと色気のない悲鳴の後、肩越しに投げかけられた恨みがましい視線は、赤くなった鼻と相俟り、情欲を煽るものでしかない。 「あまやかすって、言ったろ……!」 「今からだ、覚悟しとけ」  手に余るほどの肉を両掌でがしりと掴み、割り開く。既に慣らし作業を終え、アナルは縁がふっくらしているほど。縁の粘膜が薄赤く、瑞々しい色味を保ち、含んだローションをくぷくぷと溢れさせている。  ここにこれまで、一体どれだけの男をくわえて来たか。訊ねたことはないし、今後も質すつもりはない。そんなことをすれば、この関係がスマートフォンの液晶へ入った亀裂のように、やがては長く致命的に広がる気がしてならなかった。  洋平が呟いたのは「妬けるな」との一言だけ。両の親指で柔らかい皺を広げて、てらつく中をまじまじと鑑賞する。和希はいよいよ恥ずかしがり、トレーナーの中で肩を震わせた。枕へ顔を勢いよく埋めると「早くしてくれよお」と情けなく訴える。 「いつもは、好き放題にするくせに」 「自分のことばっかり考えてちゃ駄目だよな」  爪先で縁を擽り、洋平は言った。 「俺達はこれまでちょっと、勝手すぎたと思う」 「お、俺も?」 「まあな。でも別に、そりゃ構わないんだ。お前の我が儘なんて可愛いもんだよ」 「俺だって…」  口ごもりながら、和希はそろそろと右手を自らの身体の下へ潜り込ませた。目指すのは股間。自分で弄くっていた時から、彼のペニスは八分がた勃ち上がり、鈴口にはうっすらとカウパーが滲み出ている程だった。  それなりに立派なものを握り、上下に擦る動きは幾分遠慮がちだ。だが放出が義務だとでも言うのか、我慢したり、萎えるを待ったりする発想には至らないらしい。ぎゅっと閉じられた目は快楽を追っているどころか、嫌悪すら感じ取れる。 「お、俺だってさ、洋くんの、好きにして欲しい……洋くんが、んっ、喜んでくれたら、俺、うれしいから」 「駄目だ駄目だ。お前、もっと自分の幸せを追求しろよ」  近づけられた口から呆れの息が放たれれば、肌がさっと粟立つ。ぶつぶつした感触を楽しみながら、洋平は汗で滑る尻の狭間に顔を埋めた。 「ひ、ぃっ」  挨拶代わりに皺を引き伸ばすよう、べろりと舐めてやる。途端、腰が跳ねて尻が浮き上がろうとしたので、太腿に回した腕で押さえ込んだ。  最初は表面で渦巻きを描くような動き、こねくり回されて徐々に綻んでくるアナルのひくつきは、見ずとも十分感じ取れた。 「あ、やあぁぁ、も、もっと、もっと、乱暴でもいいのに、っ」  それは提案と言うより訴えだった。わざと無視して、ただでも濡れている場所を一層濡れさせるよう、洋平は固さの拭えない括約筋、柔らかい粘膜へ舌を押し込んでは引っ込め、じりじりと広げていく。  元々マゾっけがあるからなんて言わせない。痛みに対する和希の欲求は、間違いなく自罰的感情と自信のなさを起因とするものだった。尊厳を失えば失うほど満足する。洋平から差し伸べられる手が近付けば近付くほど、身を竦め逃げようとする。  それは間違っているのだと、何としても理解して欲しかった。木霊の戻らない、深淵に向かって叫び続けるのはごめんだ。愛される資格が十二分にあると言うのに、拒絶しようとするなんて、傲慢以外の何者でもないではないか。  潜り込んで辿る直腸は緩やかなおうとつを構成しているが、何よりも先に覚えるのはそのすべすべとした柔らかさだ。時々洋平は、和希の内臓を取り出し、じっくり噛みしめ味わいたいと思うことがあった。鉄板の上でじゅうじゅうと油を跳ねさせるモツの要領。  そう言えば近頃あまり牛肉を食べていない。近いうちに焼き肉をしようーー安い食べ放題の店ではなく少し良い肉をスーパーで買って。そうすればケンタにも一切れくらい分けてやれる。  食欲に近い性欲は唾液の分泌を促す。じゅるっと下品な音が体内で鳴り響き、和希は喉の奥で悲鳴を上げた。どっと吹き出した汗が、肌理の粗さをごまかす。  刺激に慣れたのか、舌を奥へ進めれば進めるほど、内臓は柔軟性を増した。きゅっきゅっと縁が媚びるような締め付けを返してくるのを見計らい、洋平は口腔内に溜まった唾液を舌で胎内に押し込んだ。ぐにゅりと歪んだ孔の入り口に、和希の爪が枕をきりりと掻きむしった。同時に反対の手では強くペニスを握りしめてしまったのだろう。「あぁ…!」と思わず漏らされた声は、何とも悩ましい。 「は、はやく出したいぃ……」 「出すだけでいいのか」 「いい訳、ない」  ぶるぶる震える太腿の痙攣に合わせて、固く勃起した和希のペニスも震えている。掛けられた指は白濁混じりの粘液へまみれながらゆっくり扱く動きを作り、時に鈴口をめくり上げるよう親指が引っ掻くを繰り返していた。決定的な刺激は与えない。更なる衝撃への相乗効果を狙うために。  望み通り、洋平は赤らみ薄く歪に開いたアナルへ指を差し入れてやった。まずは人差し指から。自らも興奮していたと思っていたのに、埋め込んだ内臓は血の通った自らの末端より遙かに熱い。待ってましたと言わんばかりに食い締めてくる肉の輪の中で、ぐるぐると掻き回し、お互いの熱を共有しようとする。 「あ、あ、あ、洋くん、洋くん」  自ら腰を振り立てるどころか、後ろへ落として一層飲み込もうとする。更に本数を足そうと、一度股まで辿りついた指を後退させれば、和希はむずかる声を上げた。  ずぶっと二本指、強まった締め付けを物ともせず、粘膜を撓めながら滑らせるようにして目的地を目指す。少し曲がったそのポイントは既に興奮ですっかり凝っていた。  最初は指の腹で優しく撫で摩るだけ。それでも刺激としては十分。和希の丸っこい肩は、盛大にびくついた。 「ぅ、ひっ」 「気付いていたか。お前、ここを弄ったら、すごい難しい顔する」  指で挟み込んで柔く擦りながら、洋平は伸び上がり、汗の粒を浮かせる項に唇を押し当てた。 「気持ちいいんだよな?」 「き、きもちいい、きもちいい、に、決まってるだろっ」  俯いたまま、和希は殆ど捨て鉢に叫ぶ。 「よ、すぎるんだって! 痛いくらいに…頭、まっしろになる!……ああ、も、言わせるなよ…!」  反り返る背中にも血の気は上り、青白い肉体は何とも美味しそうな桜色に染まっている。  最初は狭さばかりを感じる前立腺周りの腸壁が、徐々に蠕動を繰り広げてきた頃、洋平は和希の肩をそっと撫でた。汗ばむ掌は二の腕を辿り、鎖骨から胸へと。肉が付きなだらかな膨らみの真ん中で、極限まで固くなり震えている乳首を手探りで見つける。柔くつまんでやれば喉から上がる濁った叫びに、興奮は煽られるばかりだった。調子に乗って一層尖らせるように真下へ扱き続ければ、遂には鼻を啜って訴えかけてくる。 「洋くん、洋、くん、なん、なんだよぉ……俺ばっか、やだ」 「良いから」 「お、俺だって、洋くんにきもちよくなってほしい……な、しゃぶらせて」 「だめだ」  今やすっかり緊張をといた直腸は、波のようにうねって温かく抱き竦めてくるかのようだった。前立腺を強く指で弾けば、奥の奥までもがふわっとほどける。和希が身悶えると、洋平の心も満たされた。悪くない、こうやって他人を慮り、じっくり観察するというのも。 「お前に口でされると、止まらなくなる。それじゃだめだ」  胸を解放されたかと思えば急所の首筋を手で辿られ、和希はぴくっと身を緊張させた。そのまま頬を撫でられても逆らわない。寧ろ積極的に指を含んで吸いつき、媚びを売って見せる。彼の口の中は、燃えているかのように熱かった。 「ん……いいじゃん、とまらなく、なっても……俺も、きもちいの好きだよ」 「それとは話が違う」  言葉を封じるように舌を人差し指と中指で挟み、洋平は不本意ながらも告白した。 「俺は嫌なんだよ……お前を取り替え出来る便器みたいに扱うのは」  軽く捻ったりか固い爪先で頬の裏側を掻いたりしていれば、どっと唾液が溢れ出す。先ほどよりも粘り気を帯びたそれは、開きっぱなしの唇から焦れったい動きで垂れ落ち、顎へと伝った。 「俺はお前とやりたい。お前と愛し合いたい」  全く不本意だ。自らの口からこんな陳腐で、鳥肌が立ちそうな台詞が飛び出すなんて。間違いなく本心だと分かっているからこそ余計に、頭を抱えたくなってしまう。  今和希が口を開けているのは、好き放題に口腔を蹂躙されているからではなく、驚きの感情によるものだった。やがて虚を突かれ見開かれていた目が、くしゃっと細められ、頬には官能以外の理由で熱が集う。 「あ……う……」  指の間で肉が震え、戸惑い混じりの眼差しが投げかけられる。先に耐えられなくなったのは洋平の方だった。指を和希の後孔から引き抜きざま、返す手で足首を掴み、身体を仰向けに返す。彼は脱力と呆然で、完全にされるがままでいた。  スラックスと下着を下ろし、狭い空間で苦しがっていた勃起を軽く扱く。数度擦るだけで、ペニスは禍々しいほどの角度をつけた。  ありとあらゆる体液で濡れた両手で太腿を抱え、「挿れるぞ」と洋平は宣言した。こう一々確認を取るなんて、一体いつぶりのことだろう。  ひたりと押しつけたアナルの収縮と腫れぼったい熱に、鬼頭が疼く。腹の奥に力を込め、辛抱強く返事を待ち続けた。  涙の膜に覆われる和希の瞳から、理性が姿を現すまでには少し時間がかかる。ぽたぽたと汗を垂らし見下ろす洋平の顔をまじまじと見つめ、彼は眉を思い切り下げた。 「…洋くん。ほんと、どうしちゃったの」 「うるせえな。他人の親切は黙って受けとっとけよ。そうじゃなくても落ち込んでるんだろう」 「落ち込んでるわけじゃ……」  トマトみたいに顔を赤くし、ペニスを隆と勃起させたまま、和希はもうしばらく逡巡していた。べとつく指先で頬を掻きながら放たれる言葉は、普段に増して歯切れが悪い。 「うん、そうね。最近、だらけてた」 「俺も気付かないふりしてて悪かったよ」 「いい。そんなこと、洋くんが言う必要ないんだ」  両の股関節へ手をかぶせて腰を浮かし、取る姿勢は身を捧げるかのよう。自らの肉体をこんなにもあっさり譲り渡し、和希は笑うのだ。困ったように、恥ずかしげに、心を幸せで擽られているかのように。 「洋くんがいてくれて、俺が何度最悪の状態から逃れられたか、洋くんは知らないんだ。仕事が駄目になっても、周りから色々言われても、とにかく生きてはこられた」  首を振って額に張り付いた髪を払えば、笑顔が一層露わになる。 「あともう一つ望むとしたら、ケンちゃんにずっと子供でいて欲しいってことかな。あんなに可愛い時期が失われるなんて、耐えられない」 「あいつはもうこれ以上大きくならないよ」  ミックスだから分かりにくいが、ケンタはもう成犬と呼んでいい年齢だ。自分でも驚くほど穏やかな声を出していると実感しながら、洋平はぬめぬめ汗ばむ和希の頬に唇で触れた。 「俺と、お前と、ケンタとで、幸せになりたいよな」 「うん」  軽く首を竦めて受け入れながら、和希も小さく頷いた。 「幸せになるなら、三人がいい」  ゆっくり挿入すると逆に苦しそうな表情を浮かべるのは経験済みだった。和希の呼吸が平静へと落ち込みつつあるのを確かめ、洋平は腰を進めた。ぐぶりと腹の中で鳴り響く音に、和希は喉の奥で悲鳴を上げた。咄嗟に縋りついた洋平の背中を、左右へ引き裂きそうな勢いで指を食い込ませる。  鬼頭を揉みくちゃにする肉の輪の狂乱、半ばまで入れるとお互いの腰が震え、内臓が収縮する。全てを納めきったとき、思わず洋平は食い縛った歯の隙間から、鋭く息を吐いた。緩んだ肉体のせいか元々の体質か、和希の直腸はこれまで寝てきた男や女と比べても、極上の具合とは言えない。侵入者をどう扱って良いのか分からないと言わんばかりに、締め付ける勢いはやわやわと臆病で、優柔不断なものだった。  洋平はそこに優しさを見出していた。まるで和希そのものだ。気難しい相手を受け入れ、犬畜生に愛情を注ぐ度量の広さ。  もっとも、少し早とちりで、おっちょこちょいなところはあるがーー混乱し、不規則な痙攣じみたうねりを見せる直腸が馴染むまで、洋平は辛抱強く待ち続けた。和希が努力を続けていることは知っていた。ただでも火照った洋平の耳朶を焦がしそうな程、吐き出される息は熱い。 「洋くん、」  シャツをきりきりと掻きながら、和希は切れ切れに囁いた 「おれ、さっそく、しあわせだよ」  苦しげな微笑に、脳の一番大事な部分が焼き尽くされたかの如く感じる。  陰毛が蒸れた肌に擦れるほどペニスをぐりぐりと押しつければ、ひ、と甲高い鳴き声が上がる。それからゆっくりと腰を引き、張り詰めたえらで前立腺を擦る。括れの根本に固い凝りが引っかかるのは、びりりとした快感に繋がり、短いストロークを執拗に繰り返してしまう。 「あぁ、あっ、そこばっか…や、やめないで」  ぞくぞくと背中を跳ねさせ、和希は悶えた声で訴えた。呼応するように、洋平も身体の間で揺れる性器を固く握り、上下に擦り立てる。もう十分に育っていた芯はほんの短い愛撫で、じわじわと精液を鈴口から溢れさせた。これが前触れなのか、本当に射精しているのかは分からない。挿入されている時、和希はよくこんな失禁じみた放出の仕方をする。  手が白く生温かい精液にまみれ、垂れ落ちた分はアナルにも。痙攣する腹筋に煽り立てられるまま、洋平は挿出の動きを早く、大きな物に変えた。さも慌てたという風に、直腸の締め付けが追いつく。肉厚の腸が上下左右ありとあらゆる角度で迫り来、苛んだ。 「よ、洋く、おれも、おれもやる」 「いいから黙って気持ちよくなってろ」 「やだ…!」  普段は筋トレもやりたがらない癖して、腹筋を使い起き上がる動きは力強い。掴まれる背中に負荷がかかり、思わず息を詰めて無防備になったのが運の尽き。砕けた腰にごろりと体勢を反転させ、和希は馬乗りの姿勢を取る。  はー、はーと荒い息をつきながら顔の汗を擦って拭い、指を突きつけられたら、逆らう所以はない。いや、懸命に作られるきりりとした表情に、笑う余裕もないというのが本音だった。 「いい?……見てなよ」  自ら宣言しておきながら、改めて洋平の肩を掴み直して身体を支えるのも、三分の一程抜けたペニスを納め直すのも怖々と行われる。悩んだ後、ふにゃふにゃの足腰に力を込め、一端持ち上げることにしたようだった。 「ぅ……」  喉を震わせ、びくびくと身体を跳ねさせながらの行為。肉襞の流れる方向が逆しまになり、幾らか固い感触で舐められるのが心地よく、洋平は思わず目を細めた。見下ろす和希も、ふにゃりと口元を緩める。 「へへっ、きもちよさそうだね……」  抜けきる寸前までずらした腰を軽く振り、唯一胎内に残った鬼頭をこね回す。 「焦らすなよ」 「なあ、気持ちいいだろ?」 「ああ」  無邪気な子供が作るのに似た、誇らしさを露わにした表情は、彼の実際の年齢を考えるとちょっとした不気味さすら覚える。嫌悪は感じない。ああなんだ、俺はこいつにそこまで惚れてるのか。汗で滑る腰を掴み直しながら、洋平は思い至った。  まじまじと次の一挙を見守る洋平に、和希は今更ながら羞恥を感じたらしかった。微笑みを凍り付かせたまま固まってしまう。生殺しの状態はたまらない。腰骨のくぼみを親指で撫でてやりながら、低い声でお願いする。洋平を年下だと見なしたがっている和希が、逆らえないのを承知の上で。 「和希、いいだろ」  耳へ囁きが届いた途端、和希は目覚めたばかりのようにはっと瞼を見開く。顎を上げたのが口付けを強請っていると思ったのだろう。痛くなりそうな程首を曲げて、熱っぽい洋平の唇へ、自らのかさついた唇を重ねた。 「どうしようかな……」 「もう我慢の限界なんだよ」 「そっかあ……よかった。俺だけが、気持ちいいんじゃなくてさ」  まるで犬にでもなったように唇をぺろぺろと舐めてくる。堪え性のなくなった洋平が舌を差し出して彼の下唇を軽く擦るまで、彼は耐えた。らしくもない忍耐。或いは溜め込めば溜め込むほど、放出する勢いが強まると知っているのだろうか。  故意か偶然か、単に力つきただけか、ペニスは勢いよく飲み込まれる。声すら出せず、和希は触れ合わせた舌を震わせた。  下腹へどすんと走る重みに、洋平は興奮のあまり笑い声を立てた。一拍遅れて突き上げた腰に、鍵が鍵穴へ差し込まれるかの如く、先端が奥まではまる。  撫でる掌で、背中の綺麗な湾曲と、しっとり汗ばんだ肌を堪能する。じいんと頭の芯を痺れさせるような締め付けに慣れるまで数秒、もちろん、和希はまだ正気を取り戻していない。  突き出された舌が引っ込むより早く、洋平は腰を突き上げていた。人知の及ぶ限りの奥を目指したくて、思い切り腰を掴んだ。明日の和希は痛みに呻くこととなるだろう。その後、何ともない風に笑うに違いない。  第一、彼はただ流されるだけのタマではなかった。 「ぁ、ずるい…っ」  すぐさま和希は、自発的に尻をぐりぐりと押しつけてきた。ぶつかる重たげな肉に、痣を作るのは自らの方かもしれない。構うものかと、洋平は一際狭さを覚える肉へ自らの質量を覚えさせようと、身体を揺らした。 「あっ、あっ、そこ、すごい、じんじんくる…っ」 「気持ちいいよな」 「うん、最高…!」  最高を更に更新させるため、緩慢な射精を終えていた和希のペニスを握り直す。余りにも濡れすぎているから、数度手が滑って掴み損ねるほどだった。ぶるりとすり抜ける半勃ちの性器に、甲高い悲鳴が上がる。  手の動きと腰の動きを連動させれば、もう和希は他者への思いやりなどかなぐり捨ててしまった。相手の身体に爪を立て、めちゃくちゃに腰を振りまくり、猿のようにただただ快楽を追う。  無様で自分本位な姿に、洋平も早々に理性を手放したーーそれが良くないことだと思いつつ、許されたとも思ってしまう。  射精したのは安堵のせいだろうか。いくら何でも早すぎだろう、と自分で引いてしまうほどだった。いや、案外頑張ったのかもしれない。乱暴な上下運動と紅顔の急激な収縮に、腰がじんじんと痛みを覚える。時間の感覚は曖昧だった。  手の中のペニスも、すっかり力を失っている。他の和希の身体の部位と同様ーー性器以外で極めてしまった男特有の逆立った産毛に、膜を張ったような瞳。  それでも和希は、洋平が強く抱き竦めるまで、相手の身体へ腕を回そうとしなかった。 「洋くん……泣いてる? もしかして……」  思わず眉根を寄せて顔を上げれば、何てことはない。快楽で頬を濡らしているのは、他ならぬ和希自身だった。  馬鹿言え、と吐き捨てるつもりだったのに、喉がくびられたかのようになって上手く言葉が出てこない。それどころか、無尽蔵に浴びせられる気遣いへ、本当に泣きそうになった。  挙げ句の果て、ごまかすために強請ったキスですら受け入れられてしまうのだから。  何度かの絶頂。散々と快感を堪能した後、体力のない和希はこんこんと眠り込んでしまった。一度登った血の気が引いて、殊更青白い面立ちは無心だったーー少なくとも苦痛は見受けられない。  その静謐な横顔を、傍らの洋平は肘枕の上でずっと見つめていた。一回の射精の余韻を引きずりながら。身体も頭もかつてないほど研ぎ澄まされている。いつまでも、いつまでもこのままでいられそうな、誇大妄想的で強烈な自信。そんな己に満足しきっていると気付いた時、ようやく認めたのは、自らが不安を感じていたのだということ。  人生には山と谷があり、この感情も一時のものに過ぎないのだと、35年生きていればいい加減理解している。ある日突然、自らを見失い、高いところから降りられなくなるかも知れない。谷の底が底無しの沼であることに気づく日が来るかも知れない。  冒険する時代は終わった。手探りしながらでしか進めないのだとしても、注意深く歩いて行きたいと思った。彼と。彼もそう望んで欲しいと思うのは我儘なのだろうか。  かりかりと、固いものを引っ掻く音が夜更けの静寂に響く。扉を細く開けてやれば、毛むくじゃらは待ち侘びていたかの如く身を滑り込ませてきた。 「静かにしろよ、おじさんはぐっすり眠ってる」  そっと囁きながら抱き上げた時、手の中に感じる重み。温もり。人間様がこの掌に力を込めれば、簡単に奪うことの出来る命。犬は全く無頓着で、尻尾を振り、くわっと欠伸を漏らす。心ゆくまでジャーキーを腹に詰め込んだのだろう。その息は臭かった。  ベッドへ下ろしてやると、ケンタは伸ばした洋平の脚へ寄り添うよう身を丸めた。今は何時か、もう夜明けまで間もない事は確かだ。けれどまだ、惜しい。とてつもなく。こんなにも満ち足りていると思ったのに、底無しの欲望が恐ろしくなった。  顔の前へ無造作に投げ出された和希の手を握る。引き寄せても、脱力しきった身体はぴくりともしない。仕方なく、洋平は自ら恋人のそばへにじり寄り、体を抱き込んだ。つられて犬もみじろぎ、ますます身を寄せてくる。  温かい。それはとても良いこと。取り敢えずそこで妥協して、目を瞑った。努力はしているのだ、それだけでも認めて欲しい。心の中で唱えながら、洋平は寝汗の濃い旋風へ顔を埋め、深々と息を吐き出した。  思考が溶けたのはいつのことか、とにかく次に意識が浮上したとき、隣にはぬくもりのよすがすら残されていなかった。うすく拓かれたベランダのガラス戸で、カーテンは意地悪くも、全てを阻むよう立ち塞がっている。薄ら笑うように揺れる布を引き明け、洋平は地上を見下ろした。回収日で内にも関わらず、ごみ置き場にはすでにいくつかの袋が積み上げられている。もちろん、人の姿も犬の姿もない。この部屋の中と同じように。  いまへ脚を踏み入れた洋平に、和希は浮腫んだ眼をへにゃりと細めて見せた。 「起こしに行こうと思ってたんだ。遅刻するよって」  ソファにでんと腰掛けたきり、もちろんコーヒーをいれてくれるなんて親切を起こしてくれるわけがないので、洋平もシンクから自分のマグカップを取り上げた。途中で餌皿に顔へ突っ込んでいたケンタを踏みそうになったが、犬はカリカリを頬張るのに忙しく、見向きもしない。自分に危害が及ぶなど思いもせず、同居人たちを完全に信じ切っている。  しばらくの間、金属の餌皿がフローリングを擦る音と、カリカリを貪る咀嚼の響きが、部屋を支配する。やけに静かだなと思ったら、テレビがつけられていない。和希は細めた目に、これ以上ないほどの愛情を湛え、餌を食べる犬を見守っていた。両手で抱え込むマグカップから湯気が薄れつつあることなど、気にも掛けずに。  そして洋平は、理解した。この世には平穏というものがあって、自らはその中に足を踏み入れているのだと。  もっとも、時の流れは早く、庶民には物事をしみじみ噛み締める暇など与えられていない。腕時計を視線を走らせ、コーヒーを飲み干すと、椅子にかけていた上着を羽織る。 「今日も遅くなる?」 「ああ」  短い間、和希は口元まで持ち上げたマグカップの縁を噛んでいた。 「久しぶりに外へ出ようかな。ケンちゃんとお散歩だ」 「一緒に出るか」 「うん、ちょっと待ってて」  立ち上がる身のこなしは、久しく見ないほど自然で軽やかだった。ここのところ余り着替えることのない、パジャマ代わりのジャージが脱ぎ捨てられる。腰へ残る鬱血に、息を詰まらせそうになった洋平など、置いてきぼりにする勢いで。  洗濯したてのジーンズとシャツを身につけ、犬に赤ん坊のつなぎじみた服を着せてやり、「はい、お待たせ」と笑う顔は、差し込む朝日にふさわしい晴れやかさだった。鞄を携えた洋平の背中を軽く押し、 「ほら、遅刻する」 「早く追い出したいみたいに言うなよ」 「そんなことないって」  ドアから一歩出て、和希は抜けるような青空に目を瞬かせる。走らせる横目を、洋平は逸らす事が出来なかった。こんなまだ、空気が澄んでいるような時間に彼の顔を見ることは、とてつもなく新鮮な経験だった。  待ちくたびれたケンタが、わんと一声大きく吠える。 「こらっ。ここ、人間どころかペットも禁止の完全単身用なんだから。バレたらパパごと大家につまみ出されるよ」 「嘘だろ」  今まで何も言われなかったから、全く気付かなかった。何とも間抜けな事に。呆気に取られた顔の洋平に、和希はいとも涼しげな顔。 「多分大丈夫だけどね、迷惑さえかけなきゃ。他にもカップルで住んでる人知ってるし」  駅まで徒歩12分。普段ならば一人で往く慣れた道のり。弾ける間際の桜の蕾、一軒家の物干し台に干される家族の洗濯物、2人と一匹ならまた違って見えるのだから不思議なものだ。 「ありのままの姿とか歌でも言ってるけどさ」  信号待ちの時、緑のおじさんに導かれる横断歩道の小学生達を眺めていた和希が、不意に口を開く。 「そうなる為には努力しなきゃね……うん、大丈夫」 「心配しないでも、何とかなるさ」  ぶっきらぼうに洋平は返した。立ち止まっている間、退屈したのか、ケンタがアスファルト上の何もない空間を前足でちょんちょんとつつき、匂いを嗅いでいる。虫でもいるのかもしれない、こちらからは見えていないだけで。一生懸命に取り組む姿は、全く馬鹿げていて、だからこそこみ上げてくるものがあった。歩みを促され抗う姿すら、抱きしめてやりたくなる。  こんな小さな駅だと言うのに、ロータリー前は今朝も多くの人が行き交う。彼らの表情は硬直しているか、弛緩しているかの二択しかない。徐々に前者へ移行していく洋平に、和希は後者のまま平然と笑いかける。 「じゃ、気をつけて。仕事頑張れよ」  柄にもなく少したじろいだことは、彼に見抜かれてしまっただろうかーーどうでもいい、恐らく気にしないだろう。洋平は黙って、小さく片手を掲げた。  改札前で振り返った時、既に和希はぶらぶらと元来た道を引き返そうとしていた。つれない飼い主と違い、珍しく数歩遅れてついていくケンタが、丸っこい頭をこちらへ向ける。  空目かと思ったが、間違いない。あの犬がこまっしゃくれた子供よろしく、ウインクを飛ばしてきたのは。思わず目を見開いて立ち止まったのが運の尽き、後ろから歩いてきた高校生の鞄が腕にぶつかり、洋平は反射的に舌打ちを漏らした。 終

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