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前編
ここには、母さんに連れられて、今までも何度か来たことがあった。
手紙も荷物も運んでくれる、町で一番大きな配達屋さん。
今年から通い始めた学校よりも、一回り以上大きなその建物。
初めて足を踏み入れた配達屋さんの裏側では、広い通路を人と物とが忙しなく行き交っていた。
「ガド君、ちょっと」
僕を案内してくれている恰幅のいいおじさんが、職員の沢山いる大きな部屋に、ひょいと顔を出して声をかける。
このおじさんは、ここの所長さんだった。
机で手紙の束を抱えて書き物をしていた黒髪の男が、声に気づいて、くるりと椅子を回しこちらを見る。
「俺ですか?」
なぜ呼ばれたのか分からないらしい男が、首をかしげながら近づいてくる。
所長さんの手に背中を押されて、僕が一歩前に出ると、男はさらに怪訝そうな顔をして見せた。
「ガド君、子供は嫌いじゃないだろう?」
「はあ、まあ……」
困惑しつつ僕を見下ろす男。
黒い髪に黒い瞳。肌は僕より日に焼けた色だ。
近くで見ると、男の顔や腕には、無数の引っかき傷のようなものや痣が見えた。
ひげも少しのびていて、なんだか酷く疲れた顔をしている。
「ガド君、今一人暮らしだろう?」
「……はい……」
元々ツリ目だった男の表情が、一瞬厳しさを増して強張る。
男の視線は僕の足元に落ちていて、その厳しさが僕に向けたものではない事を理解しかけていると、所長さんが僕の肩をポンと叩いた。
「この子、今日からうちで働く事になってね。
ただ、まだ宿舎に一人で寝泊りしてもらうには幼いから、しばらく君に面倒を見て貰えればと思うんだが」
「俺……ですか」
「ああ、君にだよ」
「いやでも、子供の面倒なんて、どうしたらいいか……」
「シリィ君は自分の事は一人で何でもできるそうだから、わからない事があれば、本人に聞けばいい」
。いいね?」
「……はい」
「ほら、シリィ君、彼がこれから君の面倒を見てくれるガド君だ」
観念したような男の返事を聞くと、所長さんは満足そうに僕を見下ろして挨拶を促した。
「は、はじめまして。シリィ・マクレーンです。
よろしくお願いします、えっと、ガドおじさん」
「おじっ……――」
ぺこりと頭を下げて、顔を上げると、黒髪の男は引きつった表情でこちらを見つめて固まっていた。
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町の片隅にある二階建ての小さな家。
それでも、その新築の家は
男が一人で暮らすには広すぎる間取りだった。
可愛らしいキッチンに、シンプルだけど華のある壁紙は、どう見てもこの黒髪の男には似合わない気がして、なんとなく、違和感を感じた。
何か……決定的な何かが足りないような……。
綺麗で新しいのに、どこか淋しい印象を受ける家で、僕は、物置に使われていたらしい二階の角の部屋をあてがわれた。
「急な事で、布団の用意とか無くてな、
今夜は俺と一緒のベッドでいいか?」
そう言って通された一階の寝室には
大人が二人寝てもまだ余りそうな大きなベッドがあった。
「大きなベッド……」
父さんと母さんが一緒に寝ていたベッドより大きそうだ。
これに、この男は毎晩一人で寝ていたのだろうか。
「……まあな」
僕の呟きに、男が小さくうめくような返事をする。
ちらりと横顔を盗み見ると、やはりその表情は厳しいものだった。
「これなら大丈夫だろ」
「はい」
僕の方を振り返り、少し笑顔を見せた男に、大きく頷きを返す。
「俺はちょっと今から出かけてくるから、先に寝てていいぞ」
ご飯もお風呂も、着替えも歯磨きも、僕はもう済ませてある。
男は、粗野な風貌とは裏腹に、面倒見のいい性格をしていて、何くれとなく世話を焼いてくれた。
けれど、男はこんな夜からどこへ行こうというんだろう。
男を玄関で見送ってから、馴染みの無い大きなベッドにもぐりこんでみる。
窓の外からは、遠くへと走り去る自転車の音が聞こえた。
男は自転車で出かけたのだろうか。
ふかふかの枕に頭を埋めて、首元をすっぽりと覆うように布団を引き上げる。
それにしても、今日は大変だった。
何しろ、生まれて初めて外で仕事を覚えたのだから。
周りの大人たちは優しかったけれど、僕を可哀想な子供として扱ってくれるけれど、いつまでもそれに甘えていてはダメだと思う。
僕は、妹と二人でも生きていけるようにならなきゃ……。
そのためにはお金が必要だった。
妹を食べさせるために、妹と二人で暮らすために。
まだ二歳にもならない幼い妹は、今、母さんがこの町で一番仲の良かったおばさんに、面倒を見てもらっている。
最初は、僕もおばさんに一緒に面倒を見てもらっていたけれど、僕はもう着替えも食事も一人で自分のことは出来たし、いつまでもおばさん達に迷惑をかけるのは嫌だった。
僕の両親は駆け落ちというものだったらしくて、とにかく、どこにも連絡が取れなかったのだそうだ。
実際、僕は両親の親戚には一度も会ったことが無かった。
「――もう、僕の家族は、レリィだけだ……」
あれから何度となく自分の中で繰り返した言葉を、小さく呟く。
気持ちを張り詰めていないと涙が零れそうなほどに、僕は疲れていた。
妹の笑顔を思い浮かべてみる。
レリィは今頃おばさんのとこで、いい子にちゃんと寝てるのかな……。
泣いたりしてないかな……。
カーテンの隙間から、月の光が射し込んでいる。
どうやら、色々考えているうちに、ずいぶん時間が経ってしまったらしい。
明日も朝から、覚える事が山積みだろう。
もう寝なくちゃ……。
けれど、瞼を閉じると、あの日の光景が
まるで昨日の事のように鮮明に浮かび上がる。
父さんの眼鏡に入ったヒビも、
母さんを染める赤い色も……。
余りにも鮮やかなその色に、僕は耐えられなくなってまた目を開く。
あれから毎晩、これの繰り返しだった。
妹が、両親の最後を見ていなくて本当に良かったと思う。
僕の知る限り、妹が夜にうなされるような事は無かった。
部屋に射し込む細い光の筋……。
揺らぐ事のない月の雫をぼんやりと眺めていると、玄関で大きな音がした。
あれ、自転車の音したっけ……。
扉の音も聞こえなかったような……。
けど、どさっと、何かの……人の、倒れるような音は、確かに、した。
あの日もそうだった。
誰も気付かないうちに、強盗は家の中に居て、両親は刺されていた。
僕は、犯人の後姿すら見ていない。
そして、あの犯人はまだ捕まっていない。
そこまでを一気に思い出すと、頭まですっぽり布団にもぐって、早鐘のような心臓を必死で抑えて息を潜める。
そこへ、台所から小さな水音。
続いてコップのような、食器の音。
……強盗が、押し入った家でのんびり水を飲んだりするだろうか?
僕が怖がりすぎている。
それは自分でも良く分かっていた。
警察のおじさんも、もうあの犯人はこの町には現れないだろうと言っていた。
扉の音がしなかったのは、きっと、おじさんが寝ているだろう僕に気を使って、そうっと開けたからだろう。
頭ではそう思っても、僕は自分の体が震えるのを止められずにいた。
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少年は、とっくに寝ついた頃だろう。
なるべく音を立てないように家に入っておきながら、玄関で靴を脱ぎ損なって膝を付く。
ずしんと、鈍い音が家に響いた。
(もう少し……だったのにな)
指先が確かに、その長い尾びれを掠めた気がする。
俺は、しばらくその感触を思い返しながら自身の指先を眺めていたが、こみ上げた悔しさに力一杯拳を握りしめ、立ち上がった。
空をゆらゆらと、自由に泳ぎ回る白い魚。
それを捕まえれば、少しだけ死者と話すことができると言われている。
一体どういう原理で浮いているのかは知らないが、その魚はずっと昔から人の暮らす町中にいつもさりげなく居て、それを、そう不思議に思うこともなく今まで生きてきた。
しかし、彼女を失ってから俺は、それを本気で捕まえようと、必死で追い回していた。
仕事だけは真面目にこなしていたつもりだったが、あんな小さな子をいきなり押し付けられたところを見るに、社内の皆にも随分心配されていたのだろう。
ここしばらくは、仕事が終わればそのまま社用自転車で白い魚を追い回し、ヘトヘトになって帰った後は、飯も食べずに酒を浴びて寝るだけだった。
毎日増える生傷も、仲間に心配される原因だったのだろう。
白い魚を必死に追っての、全速力からのブレーキ。
止まり切れず避けきれずに、側面から木に激突した。
ズキズキと痛む体を、なんとか引き擦るようにして、ようやく家まで帰ってこれた。
(とにかく水を飲もう……)
台所で、渇いた喉を潤しながら体のあちこちを確認する。
明るいところでみても、大きな傷はないようだ。
水には血の味が混ざっていたから、口はどこか切れているようだが……。
着替えを手に取り、そうっと寝室の扉を開けると、少年がビクっと、跳ねるように体を起こした。
「起こしちまったか、悪いな」
やはり慣れないところでは寝つきが悪かっただろうか。
「唇から、血が……」
「派手に転がっちまってな」
月明かりの中、じっと見つめる少年の視線を背に受けながら、かぎ裂きになったシャツを着替える。
「……こけたんですか……? 自転車で?」
どうやら、俺が自転車で出かけた事に気づいていたようだ。
「ああ、かっこわりぃだろ? 皆には内緒にしといてくれな」
「は、はい……」
痛む体でやっと着替えを済ませて振り返ると、そこには俺のシャツをパジャマ代わりに身にまとった少年が、顔色を真っ青にして俺を見ていた。
その視線が、俺の口端に浮かんだ赤い痕に釘付けられている。
その意味にやっと気付いて、息が詰まる。
迂闊だった。
こいつは見たんだよな。
犯人に刺された、両親の姿を……。
あの後……少年とはじめて顔をあわせた後だ。
少年が受付嬢から建物の案内をされているうちに
所長がもう一度俺のところへ来て、あれこれ事情を話していった。
両親を亡くした兄妹を引き取った、村はずれの夫婦というのは、所長の妹夫妻らしい。
この少年はたった七つの歳にして、自分で自分達の生活費を稼がねばと思い立ったらしく、働きたいと言ってきたそうだ。
俺なら、せめてもう少し大人になるまで、家の手伝いでも何でもしてご厄介になりそうなものだったが……。
まあともかく、遠いとは言え、配達屋までは、こいつが世話になっていた家からも、通おうと思えば通える距離だった。
それをわざわざ、少年の方だけ所長に預けてきた理由というのを聞いてみれば、これが『少年が妹の前で良い兄過ぎる』というのだ。
男が、守るべき者の前で弱みを見せないようにしようとするのは、至極当然のことのようにも思えたが、所長の妹夫婦いわく『少し妹から離して様子を見てほしい』という事らしい。
「こんなの何とも無いって! 心配すんなよ」
無理矢理明るく笑いながら、手の甲で口端を擦る。
鈍い痛みにほんの少し眉をしかめると、少年が苦笑して答えた。
「はい……」
その小さな微笑みは、俺にはまるで泣き顔のように見えた。
(……泣けばいいじゃないか……)
こんな小さな子供が、いきなり両親を殺されて、それでも涙をこらえなきゃならない理由って何なんだ?
俺は、この少年の三倍以上も生きてるというのに、彼女が死んでから何ヶ月も泣いて暮らしていた。
彼女を助けられなかった事を悔やんで。
自分を呪って、毎日過ごしていた。
それなのに、この目の前の少年は、両親が亡くなって以降、ただの一度も泣いていないのだという。
所長から話を聞いたときは『何を大げさな』と思ったが、今にも壊れてしまいそうな少年の笑顔を見て、俺は今、確かに危機感を感じた。
思わず伸ばした手で頬に触れて、はじめて、少年が震えていたことに気づく。
(怖かったのか……? それとも、一人きりで、不安だったか……)
俺の態度に戸惑ってか、少年の透けるような金の瞳が僅かに揺れた。
そのまま、俺はベッドの上に膝立ちをしている小さな体を、そっと抱き寄せる。
「おじさん……?」
思ったよりもずっと細いその体は、腕の中にすっぽり収まった。
生きている証明であるかのように、鼓動を刻む、温かい体。
そういや、子供は俺達より体温が高いんだっけな。
布団から出てきたとこだってのもあるだろうが……。
そんなことを頭の端で考えていたら、小さな手が、そうっと背中に回ってきた。
少なくとも突然抱きしめられた事を不快に思ってはいないようだ。
そう認識して、さらに深く、懐へと小さな背中を抱きすくめる。
少年のさらさらとした髪が、屈んだ姿勢の俺の鼻先をくすぐる。
まだ幼いせいか、ほんの少し甘さを感じる少年の匂いは、死んだ彼女のそれに良く似ていた。
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いつも、父さんが僕にしてくれたように、男の大きな体と太い腕が、僕を包んでいる。
汗のにおいと……転んだ時のだろうか、土と、草のにおいもする。
着替えたばかりのシャツからは、ふんわりとお日様の匂い。
それは、広い大地に寝転んだ時のように、僕の気持ちを落ち着かせてくれた。
「……あったかい……」
さっきまで、あれほど閉じる事をためらっていた瞼が自然と落ちてくる。
「お前の方が、ずっとぽかぽかしてるよ」
少しだけ間をおいて、帰ってきたおじさんの声は
僕が思っていたよりずっと優しい囁き声だった。
僕よりゆっくりリズムを刻む心臓の音が、とても心地良い……。
ほんの少し前まで、手を伸ばせばいつでも手に入ったはずのぬくもり。
もう、手の届かない遠いところへ行ってしまったはずの温かさが、今、ここに戻ってきたみたいだ……。
ううん、もしかしたら、本当は、僕が悪い夢を見ていただけかもしれない。
この瞼を開けたら、目の前に居るのはお父さんで、その横に居るのはお母さんで、僕は家に居て……。
そんなことを考えながら、僕はおじさんに抱き付いたまま眠ってしまったのだろうか。
次に僕が目を開いたら、夜はとっくに明けていて、ベッドには僕1人だった。
まだ閉じられたままのカーテンからは、明るい光が差し込んでいる。
……僕のために、閉じてあったのかな、このカーテン……。
そうっとそれを開けると、眩しい光に目がくらむ。
太陽に焼かれた目をぎゅっと凝らして、室内を見渡すと、そこは僕の家でもなくて、けど老夫婦の家でもなかった。
昨夜、初めて訪れた、男の部屋だったことを思い出す。
ええと……。そうだ。僕、お仕事に行かないといけないんだ。
いつもよりずっとぐっすり休んだらしい僕の頭は
いつもよりずっとのんびり動いているみたいだ。
こんなことじゃ遅刻しちゃう。
今まで、学校にも遅刻した事無かったのに。
ええと、今何時なんだろう……。
枕元に畳んでおいた着替えに袖を通していると、ふわりと鼻先を甘い匂いが掠める。
なんだろう?
なんだか懐かしい匂いだ……。
小さなボタンを止める手を休めないように気をつけつつ、回らない頭で記憶を辿ると、黄色くてふわふわした物が思い浮かんだ。
ああ、そうだ。お母さんがお弁当によく入れていた、甘い玉子焼きの匂いだ……。
匂いにつられるように階段をおりると、昨夜夕食を食べたダイニングキッチンから、男がひょいと顔を出した。
「おお、起きたか、ちょうどいいな」
ちょうど今、起こしに行こうかと思ったんだ。と笑いながら男が言う。
黙っているとなんだか怖そうにも見えるこの男は
笑うと途端に人懐こい雰囲気になる。
ずっと笑っててくれたらいいのにな……。
そんなことを考えながら男の脇を通ると、石鹸の香りがした。
……朝からシャワーでも浴びたのかな。
そういえば、昨日はとっても汗をかいてたみたいだったよね。
石鹸の香りはいい匂いだったけれど、なんだか現実的過ぎて、昨日のあの匂いや、あの温かさが、急に全部夢だったような、そんな気にさせられて……。
酷くがっかりした気分で、おじさんの示してくれた椅子に黙って座る。
もう一度だけ、ぎゅってして欲しかったな……。
うっかりそんな事を思ってしまって、慌てて首を振る。
「どうした?」
そんな僕を不審に思ったのか、僕の前にお皿を並べながら、おじさんが不思議そうに声をかけてきた。
もし僕が今、抱きしめてって、お願いしたら、このおじさんは僕をもう一度抱きしめてくれるのかな……。
黒い髪とお揃いの黒い瞳が、なんだか心配そうに僕を見ている。
反射的に込み上げてきた、甘えたくてたまらない衝動を必死で抑えながら「なんでもないです」とだけ答えると、慌てて視線を逸らした。
小さい頃から可愛がってくれた、近所の老夫婦にも言えなかったことを、昨日初めて会ったばかりのおじさんに言うなんておかしい。
なのに、ぽろっと、そんな事を言いそうになる自分が、情けないやら恥ずかしいやら悲しいやら、よくわからない気持ちで胸が一杯になって、なぜか顔が耳まで熱くなった。
僕は、なんだか……。
僕は、なんだか、昨日からおかしい。
色々あって、疲れてるのかな……。
「嫌いな物とかあったら、遠慮なく言えよ」
僕の返事に、おじさんはちょっと困った顔で笑いながら、僕の頭をぐりぐりと撫でてくれた。
それがたまらなく嬉しくて、泣きそうになる。
おじさんが朝ごはんに作ってくれたスクランブルエッグは、形こそお母さんの玉子焼きとは全然違ったけれど、お母さんのと同じくらい甘くて、優しい味がした。
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「聞いたよ、シリィ君。仕事の覚えがとても良いんだってね」
「あ、所長さん。ありがとうございます」
日が暮れる頃、二日目のお仕事が終わって帰る準備をしていると、所長さんがやってきた。
僕を心配して、わざわざ様子を見にきてくれたのかな。
お仕事の感想をいくつか聞かれたので、精一杯答える。
所長さんが満足そうに頷いてくれたのを見て、ホッとする。
僕はちゃんと、誰にも迷惑をかけずにお仕事が出来てるのかな……。
今は無理だとしても、早く一人前にお仕事をして、自分と妹を養っていけるようになりたい。
ううん、ならなきゃいけない……。
「ガド君とはどうだい? あんな見た目だが、面倒見のいい奴だろう」
所長さんの言葉に、いつの間にか俯いていた顔を慌てて上げる。
「ええと、とっても優しいですっ」
「ははは、そうだろうな。あいつはそういう奴だ」
僕の答えに、所長さんが嬉しそうに笑う。
「ご飯はちゃんと食べたかい?」
聞かれて、答えようと口を開いたら「ガド君と」と、所長さんから言葉が足される。
どういう意味だかよくわからないままに「はい」と返事を返したけれど、少なくとも、答えが間違っている事はないはずだ。
「そうかそうか、その調子で毎日一緒にいてやってくれるかい?」
所長さんが、少し悲しそうに微笑んで僕を見る。
「……僕が一緒にいると、ガドおじさんに何か良い事があるんですか?」
聞かない方が良い事のようにも思えたけれど、僕はどうしても、その質問をせずにはいられなかった。
「ああ、少なくとも、人間らしい生活が送れるだろうからね」
「?」
じゃあ、人間らしくない生活ってどんな生活なんだろう。
聞いてみようか迷った時「まだここにいたのか」とガドおじさんの声がした。
「玄関で待ち合わせだって言っただろ」
言いながら部屋に入ってきたおじさんが、所長さんに気付いて頭を下げる。
「ああ、ガド君、君はまだシリィ君におじさん呼びされたままなのかい?」
「え、ええまあ……そう見えるなら、それでいいかと……」
ごにょごにょと、なんだか言いづらそうに語尾が小さくなるおじさんの声。
「シリィ君、ガド君はね、君から見ればおじさんかも知れないが、実はまだまだ若いんだよ。お兄さんとでも呼んでやってくれないかな」
「は、はいっっ」
慌てて返事をする僕に、おじ……お兄さんが困った顔をする。
「……別に無理に変えなくてもいいぞ」
所長さんに別れの挨拶をして、迎えに来てくれたおじ……お兄さんと一緒に、夕ご飯の買い物をしながら帰る。
結局、お兄さんがそれまでどんな生活をしていたのかは聞けなかったけど、僕が一緒にいるとお兄さんに良いことがあるなら、それは本当に……凄く凄く、嬉しい事だった。
お兄さんは、料理はあまりできないんだと言って、安くて美味しいお店でおかずを買って帰って二人で食べた。
食器を洗うお手伝いをしていると
「家でこんな風に、誰かと夕飯を食べる日が、また来るなんてな……」
と、小さな呟きが水音にまぎれて聞こえてきた。
すごく小さな声だったし、僕に言った言葉じゃないみたいだから、きっと、聞こえなかったフリをするのが良いんだろう。
僕は、黙ったまま、お兄さんが洗った食器を拭きながら考える。
また……ってことは、僕が来る前にもあったってことだよね。
お兄さんはこの家で、今まで誰と暮らしてたんだろう。
どうして今は、一人だけで暮らしてるのかな……。
そうっとお兄さんの横顔を盗み見る。
その目が、食器のその向こうを見つめているのを見て、僕はなんだか息が苦しくなった。
「あ、そうだ、お前」
「な、なんですか?」
不意に声をかけられて、一瞬食器を取り落としそうになる。
「俺の事はさ、名前で呼んでくれたらいいよ」
……名前?
何とか握りなおした食器を机の上に置いて、割って迷惑をかけずに済んだと胸をなでおろしつつ、答える。
「ええと、ガド……さん?」
「ああ、それでいい」
僕の言葉に、僕を見ていた黒い瞳が細められる。
そうか、笑っても目尻があまり下がらないから、この人が笑うと、なんだかいたずらっぽい顔になるんだなぁ……。
ぼんやり、そんな事を思いながらその笑顔を見上げていると、不意にその顔が困ったように首をかしげた。
「大丈夫か? ぼーっとしてるぞ」
ガドさんが食器から手を離して、その手を僕の前で振る。
手からガドさんの体温が移ったのか、人肌ほどの水滴が僕の頬に落ちると、なぜか僕の体が一瞬大きく揺れた。
その衝撃で僕はようやく我に返る。
「だ、大丈夫ですっ!」
「……そうか。……あんまり無理するなよ」
どこか言い辛そうに、目の前に立つ僕の倍以上も大きな男が目を伏せた。
僕……心配かけちゃったのかな。
気をつけないと……。
「まあ、明日は休みだから、お前はゆっくり休めよ」
「……ガドさんは……?」
思わず聞き返してしまった自分の口を慌てて押さえるものの、言葉は既に出てしまった後で、ガドさんはそんな僕の仕草には気付かないまま食器を棚に仕舞いつつ答えた。
「俺は……ちょっとこれから出てくるから、さ」
昨日と同じだ……。
また昨日みたいに出かけて行って、また昨日みたいに……怪我を……して帰ってくるんだろうか。
脳裏に、昨日見たばかりの赤が過ぎる。
「お前は先に寝とい――」
そう言いながら振り返ったガドさんが、僕の顔を見て固まった。
マズイ。僕またぼんやりしてたみたいだ。
「あ、はいっ。先に寝てますねっ!」
慌てて誤魔化し笑いをする僕の頭を、ガドさんがその大きな手の平で、まるで壊れ物に触るみたいに、そうっとそうっと何度も撫でる。
大人の人に頭を撫でられる事は良くある事だったけど、ガドさんのそれは、なぜかとっても気持ちが良くて、僕は力が抜けそうになるのを堪えるのに必死だった。
その晩、ガドさんはどこにも行かずに、僕と一緒にベッドに入ってくれた。
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……やっぱり眠れない。
目を閉じると、どうしても浮かんでくるあの赤い色。
そこから逃げるように、僕はまた目を開いた。
今日は一人じゃないから、大丈夫かなって思ったんだけど……。
すっかり暗闇にも慣れた目で、
同じベッドで眠るガドさんの背中を見つめる。
広いこのベッドの上では、僕とガドさんの体が触れる事はなかった。
もうちょっとだけ、近くに行ってもいいかな……。
そしたら、もうちょっとだけ、ガドさんの体温とか匂いとかを感じられるかも知れない。
そしたら、僕はきっと……きっと、昨日みたいに安心して眠れる……。
きっと、怖い夢も見ない。
なぜだか、凄くそんな風に思えて、僕はガドさんを起こさないように気をつけながら、そうっとそちらへ近づこうとした。
そのとき、掠れた声がした。
「――っアリア……」
え……?
なんだろう、今の、人の名前……かな?
寝言……だよね?
動きかけた体勢のまま固まっている僕の耳に、苦しそうな呻き声が途切れ途切れに聞こえてくる。
ガドさん、うなされてる……。
反射的に、自分が日々苛まれている耐え難い悪夢が脳裏を掠める。
僕は、ガドさんが心配でたまらなくなった。
何かに必死で耐えるような、荒い呼吸。
どんなに悲しい夢を、見てるというんだろう……。
急に、あのときのガドさんの小さな呟きを思い出す。
今まで……ガドさんと一緒にご飯を食べてた人の夢なのかな……。
「逝かな……っ」
ガドさんの微かな声に我に返る。
とにかく、ガドさんを起こさなきゃ。
ほんの一瞬躊躇った後、その背中に手を伸ばす。
僕の手が触れる寸前、ガドさんがこちらへ寝返りを打った。
ガドさんの太い腕が、僕の背中に振ってくる。
一瞬、息の詰まるような衝撃。
下のベッドがふかふかなおかげで、あまり痛くはなかったけれど、僕は完全にガドさんの腕の下敷きになってしまった。
(……あ、あれ……?)
身をよじろうとしても、ビクともしない、ずっしりした大きな腕。
……ここからどうやって抜け出そう。
昨日、ガドさんに言われた
「俺は寝相があまりいい方じゃないからな、下手に近づかない方がいいぞ、多分」
という言葉を頭の隅っこに思い出しながら、まずは、胸を潰されている事で浅くしか呼吸できない息を整えようと、慎重に息を吸い込んだとき、僕を押さえつけていた腕が大きく動いて、僕はガドさんに背中から抱きすくめられる様な形になった。
ガドさんの苦しげな息が耳元にかかる。
途端に背筋がぞわっとして、僕は反射的に声を上げた。
「ガドさ――」
そこに、まるで泣いているかのような、切なげに掠れたガドさんの声が重なる。
「俺を……置いていかないでくれ、頼む……」
本当に小さな小さな、懇願の声が、僕の耳元で囁かれた。
途端、弾けるように、あの日の激しい感情が胸によみがえる。
『お父さんっお母さんっっ! やだっっ死んじゃやだよっっ!!』
あの日……みるみる冷たくなる両親に縋って、僕は泣き叫んでいた。
僕を置いて行かないでと、願い祈る事しかしなかった……。
無力な自分を心の底から呪う。
本当はあの時、僕がただ泣いていただけでなく、すぐにお医者様を呼んでいたら、母は助かっていたのではないかと、後日、お医者様がおばさん達にこっそり話していた。
もちろん、僕に聞かれているとは知らずにだろう。
それ以降、僕は泣かないと決めた。
どんなときも、自分にできる最良のことをしようと誓った。
実際、それから僕は一度も涙をこぼしていなかったし、僕の涙は、もうあの日に枯れ果てたんだと思っていた。
思っていた……のに……。
「……っ」
自分の上げた小さな嗚咽と、耳元でシーツに落ちる水滴の音が、静かな部屋に、やけに大きく聞こえる。
しばらく、ただ溢れ出して止まらない涙と、色んな感情がごちゃごちゃになって整理できない心に翻弄されて、何が悲しいのかもよくわからないまま、泣き続ける。
不意に、僕を抱きしめていた温かい腕が動いた。
そこでやっと、自分がガドさんに抱きしめられていた事を思い出す。
急に、自分を支えてくれていたこの手を離されるのが怖くなって、緩められた腕の中、僕は向きを変えてガドさんの胸にしがみついた。
こんな不安な気持ちのまま、手放されたくない。
いつの間に悪夢から抜け出したのか、ガドさんの整った呼吸が頭上を掠める。
そうっと、その顔を覗こうとした時、僕の両肩をガドさんの手が掴んだ。
ひょいと、布団の中から、僕はガドさんと同じ目線まで引き上げられる。
「……泣いてるのか?」
まだろくに開かない目をしぱしぱさせながら、ガドさんが問いかける。
その声が酷く優しくて、僕は息が詰まった。
「……っ」
返事が出来ないかわりに、せめて何か答えたくて、僕はガドさんの頬にそうっと触れる。
ガドさんは、僕の指に撫でられると、くすぐったそうにちょっと微笑んでから、僕を引き寄せた。
そのまま、ガドさんの唇が僕の瞼に触れる。
(え?)
一瞬なんだか分からなくて、固まってしまう。
けれど、僕が硬直している間に、ガドさんは、僕の頬を伝っていた涙も、瞼に残った涙も、優しくその唇で拭ってくれた。
まるで、そうするのが当然だとでも言うように。
ガドさんに躊躇う様子はなくて
「もう、大丈夫だからな」
まだ少し眠そうな、普段よりゆっくり話す温かい声に、思わず頷く。
なんでだろう。この人にそう言われると、本当に大丈夫な気がしてしまう。
ガドさんの胸元に優しく抱き寄せられて、僕の全身から力が抜ける。
どうしてこんなに安心できるんだろう……。
僕はそのまま、急激な眠気と疲労感に襲われて、ガドさんの温かい腕の中で、とても安らいだ気持ちで眠りに落ちた。
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