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第1章:First Love

腹部にのしかかる重みと いるはずのない人の気配で、 まぶたが開いた気がしたが これはきっとまだ夢の中だろう。 「・・・櫻井先輩」 曇ったガラス越しから見えるような 霞んだ初恋の人の顔が目の前にあり、 ついその人を呼び止めてしまう。 面長の顔に、切れ長の奥二重、 高くてスッと筋が通った鼻、 厚さも色素も薄い唇。 芯の太い黒髪は 頭の奥にしまった記憶よりも今風のスタイルで、 目の下のくまも深い。 ああ、きっと、もし今会ったのなら こんな顔してるんだろうな・・・ ピピッ、ピピッ! 朝6時を知らせるアラームが鳴ったのと同時に そのぼやけていた輪郭は、 くっきりと映し出され、 今の状況が夢ではないと気づいた。 俺の上に跨った 白衣を着たその人は面倒臭そうに頭をかき、 俺の胸元の名札をチラッと見た。 「柏木尚(かしわぎなお)・・・」 懐かしいその低音の声に、俺は驚きで何度も頷いた。 するとその人は俺の顔を見下ろし、クスッと鼻で笑った。 「そのテンパった時に赤くなる顔、全然変わんないな。」 「櫻井先輩・・・?」 「ああ。こんなとこで何してんの?」 「そ、そ、それはこっちのセリフです。」 「俺ここの産婦人科医。」 「え?」 「2年間、専門研修でアメリカに行ってたんだけど、 昨日帰って来て、今日からまたここで働く。 そういえば、2ヶ月前から男のフェローが入ったって 山梨先生から聞いたけど」 「・・・それが俺です。」 「ふーん。結局医者になったんだ。」 「っていうか、いつまで人の上に乗ってるんですか。 どいてくださいよ!」 「これは俺専用のベッド。 フェローは上。」 そう言い、二段ベッドの上を指差した。 都内にある藍羽(あいばね)総合病院産婦人科の 後期臨床研修医(フェロー)として 2ヶ月前から働き始めた時、 科に男の医師は俺しかいなく このフロアの男性ロッカールーム兼仮眠室は ある意味俺だけのものだった。 当直も頻繁にあり、45分の通勤も面倒くさくて シャワーや洗濯機もついているこの仮眠室で 最近は寝泊まりをしていてので すっかり自分の部屋気分でいた。 「それとも昔みたいにまた一緒に寝る?」 「何言ってるんですか。」 俺は自分の顔がさらに熱くなるのを感じ、 冗談がきついその人の肩を掴み、 ベッドから下ろそうとしたが 力強くてビクともしない。 そこへ、トントンとドアを叩く音がした。 「はーい。」 その人は軽く返事をし 一瞬で肩を掴んでいた俺の手をはらい、 ベッドから降りた。 彼がドアを開けると、 そこには慌てた様子の看護師が 付け加えたように驚いた顔をしていた。 「あ、あれ?あー、櫻井先生、お久しぶりです。 早速ですが、今来た妊婦さん、 破水していて、陣痛すでに2分間隔です。」 そんな慌てふためく看護師を他所に その人は冷静だった。 「了解。 フェロー、お前も、起きて、すぐ来い。」 寝起きで力の入らぬ足を無理やり立たせ そのまま二人について分娩室までいくと、 別の看護師が陣痛の痛みで泣き叫ぶ妊婦の腰を押さえていた。 妊婦の下半身の方でその様子を見ていた ベテラン助産師の金田さんが 俺たちに気づき、 「あ、櫻井先生、お帰りなさい。 もう子宮口9cm開いています。」 と告げた。 「もうすぐ産まれますよ。」 と櫻井先輩・・・先生は妊婦に優しく声をかけると、 手を洗いラテックスグローブをはめた。 「ほら、お前も。」 「はい。」 言われるまま、俺も一連の準備を済ませ、 168cmの俺よりも15cmほど高い彼の後ろについた。 数回陣痛の波を超え、 「もう無理ー!!!」 と叫ぶ妊婦に 金田助産師が 「頭見えて来たよ。次の陣痛でイキんで。」 と言い、数秒後にまた来た陣痛で 妊婦は大声を出しながら、力を入れると 赤ちゃんの顔と肩が同時にツルンと出て来た。 金田助産師は慣れた手つきで その肩を引っ張り、赤ちゃんを取り出した。 「あとは先生たちお願いします。」 そう言い、へその緒を切り、 赤ちゃんをお母さんとなった女性に抱かせた。 「おめでとうございます。女の子ですよ。」 俺と櫻井先生は、上半身で起こっている 感動の時間は関係なく これからの下半身の処置がある。 胎盤をまず出し、傷口の確認。 「あー、裂けちゃってるなー、 これ縫合出来る?」 「あ、はい。」 会陰切開が間に合わなかったらしい裂けた跡があった。 会陰切開をしていれば だいたい一直線に綺麗に簡単に縫えるのだが、 そうでない場合は、 複雑に裂けた数カ所を縫わなければいけないケースがあり 今回のケースはそんな感じだ。 お母さんの赤ちゃんとの対面が一通り済んだ後、 「切れたところ、麻酔をして、縫いますね。」 と声をかけ、麻酔を打ち、縫合しはじめた。 何回もやっていることだが、 隣で見ている人のせいで、いつもより緊張した。 処置後の患者を看護師が車椅子で病室へ連れて行き 俺たちは使い捨てのグローブを脱ぎ捨て、 シンクで手を洗った。 先に洗い終えた櫻井先生は、 「意外と器用なんだな。お疲れさん。」 と、俺の肩をポンポン、と叩いた。 しかし すぐさま別の看護師に呼ばれ、 またグローブをはめ、 隣の分娩室へと消えて行った。 その後ろ姿は 桜の蕾が色づき始めた13年前のあの日、 愛し合っていると微塵も疑っていなかった俺を置いて、 一人去って行ったあの背中に良く似ていて 頭に一瞬鋭い痛みが走った。 ***** 14年前、15歳の春、 俺がその人を初めて見たのは 開陵高校入学式の時だった。 3年生の生徒会長と紹介され 在校生代表として祝辞を読んだ櫻井優一(さくらいゆういち)は、 セットしてあったマイクを 自分の高さにあげなくてはいけないくらい身長が高く 肩も広くて体格は大人の男性そのものだった。 ブカブカのブレザーを着た俺たち一年生とは違い、 自分の体型にきちんと合ったものを着ていて、 それだけでカッコ良く見えたのだが、 落ち着いた低い声に、クールな眼差し、 そして、体育館の天井窓からスポットライトのように降る光に 照らされる姿が神々しく見えて、 息をするのを忘れるくらい、ただただ見とれていた。 彼がステージ上にいたたった3分の間で 今まで生きてきた世界が モノトーンだったかと錯覚してしまうくらい 何もかもが綺麗に色づいて見える世界へと変わった。 超難関大学への合格者数が、 日本でもトップ10以内に入る開陵高校の生徒会は、 選挙や立候補で決まるわけではなく、 2、3年生は前年の学年成績2トップが自動的に入れさせられ、 1年生は入試の成績と4月末に行われる試験の結果を見て、 2人、先生の推薦によって決められる。 ちなみに生徒会長は、3年生の成績が一番良い人が なることになっている。 そんな届かぬ神のような存在の人に 俺みたいな新入生が近づけるわけもなかったが、 入試の時の成績が3位だった俺は、 もしかしたら4月末の試験で1位になれば 生徒会に入り、 櫻井先輩にお近づきになれるかもという下心で 受験の時よりも猛勉強をした。 ***** 「櫻井先生です。 新しく入った人たちは知らないかもしれないけど、 2年前まで ここにいて アメリカのJH大学病院で2年間 あちらの産婦人科医専門研修で 最先端の医療に触れ、経験を積まれ、 また戻ってきてくださいました。」 産婦人科部長の山梨先生が 朝のミーティングの前に 医師、助産師、看護師に櫻井先生の紹介をした。 「櫻井優一です。 よろしくお願いします。」 若い看護師たちが俺の後ろで ヒソヒソと騒いでいる。 「もうお会いしたと聞きましたが、 こちらがフェローの柏木先生。」 「ええ。実は高校が同じで。な?」 「ああ。はい。」 「あら。そんな奇遇があるのね。」 「まぁ、医者の子供達がたくさん通っていた男子校だったので。」 「へぇ。」 開陵高校は、病院と提携し 早々から医療の勉強ができることもあり 医者、歯医者、獣医などを親にもつ生徒が集まり その経験から必然的に医学の道に進む者が多かった。 俺の家も例外ではなく産婦人科医一家で、 両祖父は、リタイアしているが、元産婦人科医、 父は祖父から継いだ小さな「柏木産院」を 「柏木レディースクリニック」と名を変え、 それを、そこそこ大きくした開業医。 そして母親も助産師として、そのクリニックで働いている。 俺と5つ離れた妹も今看護学校で 助産師になるための勉強をしている。 櫻井先生の父親も確か大学の医学部教授だ。 今日は山梨先生の勧めで 一日中櫻井先生につくことになった。 午前中は外来、午後からは分娩。 9時から始まる外来の10分前の外来受診室では 患者が来るまでの間、 看護師達たちが、櫻井先生を囲っていた。 櫻井先生はパソコンのスイッチをつけると たち上がる間 まんざらでもない表情で 彼女達の質問に答えたりしていた。 エコーなどの精密機械の電源をつけていた俺が どこかつまらなそうな顔をしていたのか、 「柏木先生ったら、いじけちゃってー。」 と看護師の薫ちゃんが背後からちょっかい出してきた。 薫ちゃんは同い年で29歳。 俺は医学部に入るまでに2浪しているので、 医療現場では彼女の方が先輩だが、 洋楽好きという共通点もあり、仲良くしている。 「いじけてないよ。」 「はいはい。確かに、櫻井先生は ハイスペックでかっこいいけど、 柏木先生だって私たち女子達の憧れだよー! 目が大きくて、色白で、可愛いってみんな話してるし。」 「男にとって可愛いは褒め言葉じゃないし、 憧れの意味もなんか違うような・・・。」 「えー。そうかなー。」 「とにかく可愛いは、無し!」 薫ちゃんと話している途中 櫻井先生とふと、目が合った。 「おいフェロー、そろそろ患者くるから、席につけ。」 櫻井先生は少し強めの口調で俺に指図した。 自分だって、看護師とイチャイチャしてるくせに。 外来が始まり、看護師達は櫻井先生から離れ、 俺は、櫻井先生の隣にある椅子に座った。 患者が呼ばれるまでの数秒間、 櫻井先生はパソコンの中の患者のカルテを見ながら 俺に話しかけた。 「お前あいつと付き合ってるの?」 「え?あー、薫ちゃんですか? 何言ってるんですか。ないですよ。」 「ふーん。」 「付き合ってるやつ、いんの?」 「別に、いません。」 「ふーん。」 そこへ、「失礼します」という声の後に 開き戸が開き、臨月であろう妊婦が入ってきた。 午前の外来は難なく終わったが、 午後は、分娩が立て込んだので、忙しかった。 いつ何が起こるか分からないのがお産だ。 「お疲れ様。」 緊急帝王切開が無事終わり 夜7時過ぎに今日の櫻井先生と俺の仕事は終わった。 ロッカールームで、 汗のかいたスクラブを脱ぎ、 Tシャツに着替えた。 一方の櫻井先生も着てきたらしいワイシャツのボタンを閉めていると 看護師から再び呼ばれた。 最後のボタンを閉める前に、秒で脱ぎ 控えのスクラブをロッカーから取り出した。 「当直の先生もいるし、 お前は、今日は帰れ。」 スクラブに白衣を羽織った櫻井先生は 俺にそう告げると 看護師と共にあっという間に去って行った。 俺は、自分のスクラブと、櫻井先生のスクラブを 洗濯機に放り込み、 スマホを眺め、しばらくベッドの上で座っていたら ウトウトしてきて、そのまま眠ってしまった。 体がやけに窮屈で目が覚め 寝返りをすると 上半身裸の櫻井先生が隣で寝ていた。 「え、なんで」 と無意識に漏れた声で櫻井先生を起こしてしまった。 「あー、んだよ。やっと寝付いたのに。」 「なんで隣で、しかも裸で寝てるんですか。」 「俺のベッドだから。」 「それは謝ります。けど・・・上にもベッドありますし。」 「俺のこと待ってたんじゃないの?」 「何言ってるんですか。」 「だって、俺帰れって言ったじゃん。」 「帰るのだるくて。」 「ふーん。」 20cmほどの距離からの櫻井先生の まっすぐな視線を感じ、 気まずくて視点を下に向けると そこには浮き出た鎖骨があって、 それが妙に色っぽくて 自分の顔が火照って行くのを感じた。 「ちょうどいい。抱き枕になって。」 「え?」 櫻井先生は俺を転がし壁に向かせ、 引き締まった筋肉がついた長い腕で 背後から俺を抱きしめた。 そして、その先にあるゴツゴツした太長い指で 俺の胸にそっと触れた。 「この心音、懐かしいな。」 恥ずかしいくらいに高鳴る鼓動が 櫻井先生の手と一緒に小刻みに動いているのが 自分でも分かった。 「落ち着く。」 櫻井先生は、そう耳元で囁いた。 「お、俺、ちょっと外の空気吸ってきます。」 激しい動悸でストレス状態になった俺は 全力で、櫻井先生の腕を振り切り Tシャツとスウェットパンツのまま、部屋を出た。 ダッシュで2階分の階段を飛ぶように下り、 救急が使う建物の後ろ側にある自動ドアへと走った。 外に出た瞬間に体をまとった6月の夜風は 顔の発熱と心臓の脈動を抑えるには暖かすぎだ。 救急車のサイレンが鳴り響く中 俺はしばらく人気(ひとけ)のないところに潜み 星ひとつない空を見上げながら、 体の火照りを 時間が解決してくれるのを待った。

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