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第2章:First Kiss

櫻井先生がこの病院に来てから 俺は櫻井先生につくことが多くなった。 日によって多少違うのだが、 だいたい午前は外来、 午後は予定されている帝王切開か、分娩という感じだ。 そして週2で 休み前に当直がある。 午後や当直は体力勝負なところがあるが 午前は、意外と精神にきたりする。 と言うのも産婦人科の外来は どこか心療内科に近い部分があるのではないかと思うくらい 様々な悩みを抱える人が多く来る。 今日も一段と悩みを持った患者がいた。 何も言わず開き戸を開けて入って来た 母親に連れられた高校生の少女だった。 山本えれな。15歳。 櫻井先生の背後から パソコンのスクリーンの中に映された情報を読んだ。 未成年の予期せぬ妊娠。 よくあることだ。 大半は中絶という結論をすでに持ち こちらにやって来て、 妊娠の確認と、中絶手術の予約を取っていく。 しかしこの子は死んだ魚のような目で、 母親が「おろします」と言うのを隣で聞いているだけで、 ずっと黙り込んでいた。 壁のみで仕切っている内診室に少女だけ移動させ、 経膣エコーで胎嚢を確認した。 「ちゃんと妊娠してるね。」と櫻井先生は小声で少女に告げた。 薫ちゃんは、表情一つ変えない彼女に、 終わったからまた服を着るようにと伝え 内診台の側にある着替えスペースのカーテンを開いた。 着替えを終え母親の隣の席に着いた彼女に、 櫻井先生は優しい声で問いた。 「君も、お母さんと同じ意見でいいのかな?」 するとずっとポーカーフェイスを保っていた彼女が、 そっと涙を流した。 「お母さん、少しえれなさんと お話しさせてもらってもよろしいですか?」 「え?」 「このままではえれなさんの 心が傷つきますよ。」 「・・・」 「またお呼びするので、待合室でお待ちください。」 自分の意見を曲げられるのではないかとビクビクする母親を なだめるように薫ちゃんが待合室へと案内した。 母親が部屋の外から出たのを確認して、 櫻井先生は再び、彼女に話しかけた。 「今思ってる事なんでもいいから言ってごらん。 お母さんには言わないから。」 「・・・」 彼女は口を閉じ、 震える自分の指を眺めていた。 「そうだな。 じゃぁ、妊娠知った時、どう思った?」 「・・・」 「・・・びっくりしたのかな?」 「・・・はい。」 包み込むように彼女に喋り掛ける櫻井先生に 安堵したのか、重い口を開いた。 「・・・だけど、・・・なんだか嬉しい気持ちと ・・・お母さんに・・・怒られるっていう・・・怖い気持ちと ・・・たくさん混ざって・・・頭が痛くなって。」 「そうだよね。大変だったね。 じゃあさ、お母さんのこと一旦切り捨てて考えてみよう?」 「・・・え?」 「先生はね、君が決めたことなら どっちでもいいと思ってるんだ。 もちろんここでは妊娠と出産のお手伝いをしているわけだけど、 妊娠っていうのは、出産して終わりじゃ無くて、 子育てへと続いていって、 そこからが一番母親にとって大変なんだ。 妊娠して出産までは10ヶ月ほどだけど、 子育てはそれから20年前後続いていく。 だから何歳であろうと その覚悟があるのなら、産んで育てればいい。 だけど同じように何歳であろうと、覚悟がない人間に 子供は簡単に育てられないんだ。 もちろん、育てる覚悟がなく産んだとしても、 里親に出したり、施設に預けたり、 色々なオプションはある。」 「はい。」 「中絶するにしろ、しないにしろ、 まだ時間はあるから、その間悩めばいい。 産むも、諦めるも、君次第。 どんな決断をしても、喜ぶのも、苦しむのも、君なんだ。 だって妊娠してるのは君だろう? お母さんじゃないだろう?」 「・・・少し・・・考えて・・・みます。」 「じゃ、お母さんを呼んでもいいかな?」 「はい。」 「先生から、お母さんに言おうか?」 「・・・大丈夫です。自分で言います。」 あんなに硬かった彼女の表情が 少し和らぎ、目には光が見えような気がした。 外来が終わり、薫ちゃんとカフェテリアで昼食を取っていた。 うちの病院は、病院食が美味しいと有名で、 スタッフ用のカフェテリアも毎日飽きない和洋中のメニューだ。 薫ちゃんはミートソーススパゲッティーと ガーリックブレッドを、 俺は炒飯と麻婆豆腐を選んだ。 この時間は患者の昼食の時間とも重なり 全フロアの医者が集中的にやってきて混んでいるのだが、 ちょうど空いた窓側の席を見つけ、座った。 薫ちゃんはスパゲッティーを食べながら 手を口元で抑えて俺に話しかけた。 「櫻井先生って、クールに見えて 優しいとこあるんだね。」 「そうだね。」 「柏木先生、知り合いなんでしょう?」 「まぁ・・・」 「高校の時とかどんな感じだったの?」 「んー、一言で言ったら、完璧って感じだったかな。」 「じゃ、モテたんだ?」 「男子校だったから・・・よく分からないけど。」 「へぇー。あの見た目で、医者で、優しい。 非の打ち所がなさすぎて、絶対変な癖とかありそうだよね」 「ははは・・・どうかな。」 「そういえば、柏木先生が言ってたトラヴィス・スコットの 新曲聴いたよ。」 「かっこよかったでしょ。」 「うん。 でも、本当意外だよねー、柏木先生がヒップホップ好きとか。」 「そう?」 「誰かの影響?」 「そんなことないけど・・・」 「へぇー・・・」 薫ちゃんはニヤニヤしながら俺を見た。 俺は話を逸らすように炒飯を口にした。 ヒップホップのかけらもない俺が ヒップホップを聴くようになったのは 昔櫻井先生が一度だけカニエ・ウェストの曲を 聴かせてくれた時からだった。 好きな人が好きなものはなんでも知りたくて 聴いたその足でCDショップに駆け寄り 熊の被り物を被った人が写ったジャケットのCDを買い 何度もリピートした。 それから、なんとなく、ヒップホップばかり聴くようになった。 強目のビートと 正直何を言っているのかさっぱり分からない早口の英語が、 勉強のストレス解消や、 オペ前の緊張を和らげてくれるようになり 欠かせないものになっていった。 昼飯を食べ終え、 先ほど薫ちゃんが話していた トラヴィス・スコットの新曲をイアフォンを着け聴きながら 午後の仕事の前に仮眠室のベンチで一休みしていた。 すると、櫻井先生が入ってきた。 俺が音楽を止めイアフォンを外すと、 櫻井先生は ずっと考えていたことを口に出すように呟いた。 「難しい年齢だよな。 大人がすること、なんでも出来るのに、 決断だけは、まだ上手くできなくって。」 先ほどの少女の話だ。 「お前も進路とか迷ってたもんな。」 座る俺の肩に手を置き、俺の方を見た。 「櫻井先生は、東大医学部一直線でしたもんね。」 すると櫻井先生は、俺から離れ、自分のロッカーの前へと移動した。 「俺は、それしかレールがなかったからな・・・。」 なんだか意味深な言葉の返事に困っていると 櫻井先生は俺に振り向き問いかけた。 「そういえば、お前なんでまだ後期研修なんだよ? 何?浪人したの?それとも国家試験落ちたの?」 「2浪しました。」 「またなんで。」 「元はと言えば先輩が・・・」 と言いかけて辞めた。 「ん?先輩って俺?」 「いえ、なんでもないです。」 今更何を言ったって無駄だし、関係ないじゃないか。 「俺は、お前が俺を追いかけてくるものだと思ってたけど。」 「え?」 「なんてな。」 **** 15歳の俺は櫻井先輩に夢中だった。 無事生徒会に入れたものの 櫻井先輩に会えるのは生徒会の会議がある水曜日の放課後だけ。 その他の日は1年と3年では校舎が違うため 廊下などですれ違うこともなかった。 ただ月曜日の2時間目だけは 教室の窓から体育の授業を受ける先輩が見えた。 陸上部でもないのに、 短距離を走ってもクラスで一番で、欠点のない人だと思った。 ある放課後、 先生に使いを頼まれた俺は 3年の校舎に入り職員室へ向かっていると 生徒会室に入ろうとする櫻井先輩の姿を見かけた。 「櫻井先輩?」 思わず声をかけてしまった。 「ああ、柏木。どうした?」 「生徒会の仕事ですか?手伝いますよ。」 「いや。生徒会がない日は 毎日ここで受験勉強してるんだ。 静かで、落ち着くし。」 「・・・お、俺も、勉強してもいいですか?ここで。」 「えー・・・」 「絶対邪魔しませんから!!!」 俺は少しでも先輩に近づきたくて必死にお願いした。 そして一切邪魔をしないという条件で、 一緒の空間にいることを許された。 長テーブルが縦2つ横2つに並んだ その端と端に座った。 密室の空間に好きな人と二人きりでいて 勉強なんか捗ることなく 俺は隙があれば 外を見るふりをして 窓側に座る櫻井先輩のことばかり見ていた気がする。 オレンジ色の光が校舎を照らし始めると 櫻井先輩は、帰る用意をし始めて いつも少し寂しくなった。 でも夏に近づき日が長くなるにつれ、 一緒に過ごす時間も毎日少しずつ長くなり、 そんなことだけで嬉しく思った。 距離が縮まるわけでもない 無言の自習の時間は1ヶ月半ほど続いていた。 夏休みに入る前の最後の金曜日のことだった。 生徒会室に夕日が差し掛かる少し前、 いつもトイレにすら立たない櫻井先輩が立ち上がり 俺の席の隣にそっと座った。 そして俺の顔を見つめ、 俺の顔がすっぽりと入ってしまうかのような大きな手で 俺のほおに触れた。 「毎日そんな俺のこと欲しそうな顔で見るなよ。」 俺は突然のことで びっくりして何も言えず ただただ顔が火照って行くのを感じた。 「顔真っ赤。」 「いや、これは」 俺は必死に自分の手で顔を隠そうとすると、払いのけられた。 「もっと見せて。」 こんな近くで先輩が俺のことを見ているなんて・・・ 心臓が止まりそうだった。 櫻井先輩は少しずつ顔を近づけてきて、 俺の緊張はマックスになり防衛反応のように目をつぶると、 ゴツンと自分の額を俺の額に当てた。 「俺のこと好きなの?」 「・・・え・・・あ・・・あの・・・は、はい。」 「可愛いな。」 焦っている俺の顔を見た先輩は、 鼻でクスッと笑い、そのまま唇を重ねてきた。 **** 「今日はちゃんと上で寝てるんだな。」 当直中の櫻井先生が開いた仮眠室のドアから漏れる外の明かりで 俺は目が覚めた。 「今何時ですか?」 「2時。」 「何かありました?」 「203の切迫早産で入院してた早川さんが、 破水して、さっき早産になった。」 「え、確かまだ28週でしたよね。」 「ああ。1270gでいまNICU。」 「そうだったんですか。」 「ってか、お前さ、家帰れよ。 毎日よくこんな固いベッドで寝れるな。」 「ちょうどいいベッドですよ。 櫻井先生、どんだけ腰甘やかしてるんですか。」 櫻井先生はインスタントコーヒーを 紙コップに入れ、電気ケトルであっためたお湯を注いだ。 「お前も飲む?」 「あ、自分でやります。」 俺はベッドから降り、自分のコーヒーを作った。 その様子を見ていた櫻井先生はフッと笑った。 「なんですか。」 「砂糖と、ミルク入れるんだな。」 「悪いですか。」 「いや、可愛いと思って。」 可愛い・・・ 「馬鹿にしてるんですか?」 額から首にかけて、 噴火寸前の火山のように体温が沸々と上がっているのを感じる。 「してないよ。」 「ほっといてください。」 だいたい顔に熱を感じるときは 赤面している。 見られたくない一心で 俺は櫻井先生に背を向けた。 「おい、尚。」 不意打ちの名前呼びで爆発しそうだ。 「無駄。 耳まで赤いよ。」 最悪。 「今更隠す必要なんてないだろ。」 「いや、これは。」 俺は、甘ったるいコーヒーを一口飲んだ。 櫻井先生と再会してから俺はおかしい。 赤面症もだいぶマシになって、 最近では ほぼ出なくなっていたのに、 櫻井先生の言う一言だけで こんなにも反応してしまうなんて。 俺はもしかして まだこの人のこと・・・ ああああ 何を考えているんだ。 いや、絶対そんなことない。 「お前のその顔って、 誰にでもってわけじゃないんだろ?」 バレている。 「・・・これ以上刺激しないでください。」 「お前の顔がそうなった時、 ここもどうなるか知ってるんだけど。」 そう言い、背後から腕を回し、 俺の膨れ上がったスウェットパンツに手を乗せた。 「やめて下さい。」 「動くと、コーヒー溢れるよ?」 「でも」 櫻井先生は、スウェットパンツと一緒に下着を少し下げ、 そのまま硬くなった俺のそれをギュッと掴んだ。 「ア、ァ、ダメですって。」 「体はそうは思ってないみたいだけど。」 櫻井先生の大きな手の中で包まれ、 腰の力が少しずつ抜け、 全ての感覚が一点に集中していく。 「アァ・・・」 おかしくなりそうだ。 疲れていて最近自分でも触れていなかったそれを まさか櫻井先生に触れられているなんて。 上下に優しく扱きながら 人差し指で先に触れ そこを何度も撫で回した。 「ほら、見てみな。」 俺の視線を下に誘導させると 人差し指を少し上にあげ 糸を張った液体を見せつけた。 「もう止めてください・・・」 その瞬間、撫でるように動かしていた右手の スピードを上げ 左手で俺のTシャツを捲り 胸元の突起物を弄った。 短距離を一気に走ったみたいに 息が切れて行く。 少し荒れた二本の指で胸の先を擦られると ざらざらと痛いのに気持ちがよくて、 俺の手首も足首も痙攣したかのように震えた。 「本当に止めてほしいの?」 「・・・ぁァン。・・・ハァ・・・ァあ・・・。」 「そんなの無理だよな?」 患者への優しさなんて微塵も感じないくらい意地悪な声。 「ァ・・・ヤぁ・・・・・・ぁ・・・。」 言葉にならない吐息が 意思を裏切り漏れてしまう。 徐々に指の感覚も消えていき 冷めきったコーヒーが入った紙コップが 手から滑り落ちた。 背後から首筋を舐められたその瞬間、 コーヒーまみれになった床の上に 白い液体がポタポタと溢れた。 シャーっと蛇口から出る水の音だけが響く部屋の中で 強目のドアのノック音がした。 「はーい、今向かう。」 櫻井先生は、 ドアの外に聞こえるくらいの大きな声で言うと すぐさまペーパータオルで 洗った手を拭き 身なりを少し整え、 床を拭く俺の髪をそっと撫でてから 部屋を後にした。 俺の体はまだ熱を帯び、 心臓はドクンドクンと低音で鳴っていた。 頭の中は色々な思考や憶測で ぐるぐるでごちゃごちゃだ。 床掃除で山になったペーパータオルを 一気にゴミ箱に捨て、 俺も手を洗い、新たにコーヒーを入れ口に含んだ。 砂糖とミルク無しのコーヒーは 熱くて、苦くて、舌が痛い。 大人になりきれない俺の心は あの時から止まったようだった。

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