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第1話
横浜から高速道路を使って三時間半。
静岡県を突っ切って愛知県へ入る。高速道路を降りてからはバイパスを抜け、県道沿いのコンビニで車を停めた。大型トラックも利用できる広い駐車場だ。
田辺(たなべ)恂二(じゅんじ)が店内へ入っていくのを横目で見て、三宅(みやけ)大輔(だいすけ)は携帯電話を取り出した。
背中を預ける赤いクーペは田辺の愛車だ。海外メーカーの高級車で、よく走る。
大輔は車を持っていないが免許はあるので、運転を替わりながらここまで来た。ハンドルを握っていれば目的を思い出さずに済む。だから、ちょうど良い具合に気がまぎれた。
取り出した携帯電話で、これから向かう実家へ電話をかける。待ち構えていたかのようにコール一回で出てくる母親へ『もうすぐ着く』と告げた。無駄な長話が始まらないうちに手早く通話を終わらせた大輔のくちびるから無意識にため息が転げ出す。
「気が重いなら、やめてもいいよ」
アイスコーヒーを買って戻った田辺に、ひょいと覗き込まれた。
仕立てのいいシャツは紺のチェック柄で、センスがいい。それを肘までまくりあげ、ボトムは同系色のチノパン。ウェーブのかかった髪が額へさらりと落ちる。
顔にかけた眼鏡は、度の入っていない伊達眼鏡だ。あるのとないのとでは、第一印象のインテリ度に差が出る。
「そうはいかないだろ……」
差し出されたアイスコーヒーを受け取って、大輔は眉をひそめた。ゴールデンウィークが終わり、季節はいよいよ初夏の雰囲気だ。
日差しが鋭く肌を突き刺し、景色は眩しいほど明るい。
「どれぐらいぶりに帰るんだっけ?」
田辺に聞かれた大輔は、コンビニを囲うフェンスの向こうへ目を向ける。青々として広がる畑を漫然と眺めた。田舎だ。畑の向こうは、さらに田んぼが続く。
「五年は帰ってないと思うけど……」
正しい数字はもうわからない。離婚の報告さえ、仕事が忙しいことを言い訳にして電話で済ませた。あれが三年ほど前だ。
「実家っていっても、俺が育ったのはもっと山に近いところ。いま、おふくろが住んでるのは、海の近くで、自分の実家だよ。親はふたりとも、そのあたりの出身でさ。俺も子どもの頃はよく行った」
「……あらたまった挨拶をする必要はないんだよ」
優しい声で言われて、大輔は視線を田辺へ向けた。
眉をひそめて睨むように振る舞ったのは、田辺を見るのが恥ずかしかったからだ。
同じ男なのに、上等さがまるで違う。張り合うまでもなく、カッコイイと思ってしまう自分の素直さが照れくさい。
「でも……」
大輔は言いよどんだ。ふたりで大輔の実家へ行く。その行動の理由は、ただひとつ。
関係を持続させるための絶対条件を果たさなければいけないからだ。
大輔は県警の組織犯罪対策課の刑事。田辺は情報源のインテリヤクザ。
投資詐欺をシノギにしている田辺の兄貴分は、大組織・大滝(おおたき)組のキレ者、若頭補佐の岩下(いわした)周平(しゅうへい)だ。
数ヶ月前、大輔は同僚に陥れられ、拉致された。横恋慕からストーカーへと変貌した男の策略で、レイプショーへ売り飛ばされそうになったのだ。最悪の事態の中で、岩下が偶然居合わせたことは、幸か不幸か。判断に困る。
主催者側へ口を利いてくれたおかげで、見世物にならず済んだ。その点では九死に一生を得た。しかし、相手が岩下とあっては、気が休まらない。
冷静になって振り返れば、おそろしいほど大きな『借り』だった。大輔を助けようと駆けつけてくれた田辺は、謝礼金として五百万円もの大金を要求された。
兄弟分だからこそケジメが肝要な世界だ。翌日にはきっちり耳を揃えて支払った。大輔も出せるだけは出したいと申し出たが、結局、ヤクザ同士の話だからと拒まれていまに至る。田辺はそういう男だ。
「挨拶に行けと言われただけで、『恋人宣言』してこいとは言われなかった。だろ?」
いつになく真面目な顔で言われ、大輔は視線をそらした。
田辺はまた、自分だけの責任にしようとしている。謝礼金を黙って払ったように、これまで何度も、田辺は身を挺して大輔を守ってくれた。それを見過ごせたのは昔の話だ。
表裏の世界で暮らすふたりの関係は、もう七年近く続いている。
最初は肉体だけの仲だった。情報をもらう代わりに、大輔が身体を差し出す。どちらも異性愛者なのに、ずるずると関係は続いた。
すでに結婚生活が破綻していた大輔にとって、田辺から与えられる快楽は未知の感覚だった。女からは得られず、存在さえ知らなかった肉欲だ。
それがいつしか本当らしくなり、抜き差しならないと実感したのは拉致事件のさなかだ。
田辺がいたから、大輔は恐怖に耐えられた。そうでなかったなら、平常心を保てたかどうか。大輔にも自信はない。
それぐらいに、被害者になるということはショッキングな出来事だ。
「いいのかよ。相手は、あの……、岩下の嫁だ」
大輔の言葉に、田辺はにやりと笑う。
「そうだよ。単なる『嫁』なんだから」
嘲るような口調が悪めいて、やっぱりヤクザだと思わせる。それを魅力的に感じてしまう自分がほんの少しだけ後ろめたい。
若頭補佐・岩下の嫁。旧姓・新条(しんじょう)佐和紀(さわき)。嫁といっても男だ。
組織犯罪対策の部署で知られるようになったのは結婚してからで、元々は生活安全課が対応してきたチンピラだ。
『こおろぎ組の狂犬』という通り名を持ち、組がバカにされたと言っては単身、金属バットを担いでカチコミをかける。街で売られたケンカは必ず買い、相手が立ち上がれなくなるまでぶちのめす。
聞けば、あきれるほどの暴れ者なのに、すこぶる付きに顔がいい。普段から眼鏡をかけているが、それでも驚くほどの美形だ。
田辺とは小さな悪事を働いた仲らしいが、関係はよくない。傍から見れば美形同士で絵になるが、それは新条佐和紀が結婚して小ぎれいになったからだ。
昔のふたりは、実力にも立場にも大きな差があり、佐和紀側に遺恨が残っている。いわゆる犬猿の仲だが、岩下に対して直接的な借りを作った田辺は彼を利用した。
金を渡しただけでは安心せず、口添えを依頼したのだ。実力者である岩下を抑えるには、愛妻を利用するのが一番だと、田辺は苦々しく語った。
そのとき、佐和紀から出された条件が、大輔の実家への挨拶だ。
筋を通すためのケジメなのか、単なるいやがらせなのか。田辺は後者だと断言したが、大輔にはどちらとも言えない。
岩下から嫌がらせを受ける不安と、佐和紀から出された条件は、物憂さにつり合いが取れているからだ。どちらも同じぐらいに重苦しい。
「挨拶に行った既成事実があれば、あとは俺がどうとでも切り抜けるから」
思った通りの発言を田辺にされて、大輔はむすっとした視線を向ける。
「それが嫌なんだよ。おまえばっかり……」
すぐに視線をはずして、顔をそむけた。
自分が背負えることはなにもない。ヤクザ側の話だ。頼みごとをして条件が出れば、それを飲むか、頼みごとをあきらめるか。ふたつに、ひとつだ。もしかしたら、飲むこと以外に選択肢がない可能性もある。
ヤクザを取り締まっていても、彼らの流儀は独特で、いまだに理解できないことも多い。
「大輔さん、そんなことはない」
田辺の声と一緒に視線を感じる。
「……もしそうなら、大輔さんよりも俺の方が幸せだってことになるね」
「なんでだよ」
振り向いて睨みつけると、田辺は優しい笑顔になった。
「俺の方がたくさん、あんたを愛してるってことだろ」
「……はぁ?」
意味がわからず、ただ恥ずかしい。あきれた顔をしてみせたが、熱くなる頬は隠せず、全身がカァッと火照り始める。大輔は慌ててアイスコーヒーを飲んだ。
たくさん愛していたらどうなるのか。なぜ、幸せということになるのか。
聞いてみたいが、知るのは怖い。もしも、多く愛した方が勝ちなら、大輔は確実に負けている。でも、それが嬉しい。そんなふうに思ってしまうから、世も末だ。
たくさん愛されている自分の方が幸せだと、喉元まで出かかった言葉を飲み込み、
「トイレ、行ってくる……っ」
くるりと踵を返した。瞬間、腕を引かれる。
「早く、キスがしたいな」
ぐっと引き寄せられ、耳元に甘くささやかれた。不意打ちの口説き文句に、大輔はぶるっと大きく震えた。半袖のポロシャツから出た腕にぶつぶつと鳥肌が立つ。
けれど、それもまた嫌悪ばかりが理由じゃない。
ほんの一時間前に、サービスエリアの片隅で濃厚なのをした。くちびるを塞がれ、息を奪われ、大輔はぎゅっと目を閉じた。立派に『ディープキス』だ。
なのに、まるで満たされていない。
「いま、そんなこと……。バカだろ。母親に会いに行くんだぞ……」
腕を振りほどいて、田辺の肩へ拳をぶつける。
痛がるそぶりも見せずに田辺が言った。
「あんまり深刻に考えないで。親しい友人として、離婚後の大輔さんと仲良くしてる……。それでいいんだから。いきなり男と付き合ってます、なんて……言われた方も困る」
だからネクタイは締めないでいくと言われ、それが正しいと思う一方で、気分は塞いだ。
人に言える関係じゃない。刑事じゃなくても、ヤクザじゃなくても。
「時間をかけて、わかってもらった方がいい」
田辺の静かな声が胸に染みて、大輔はじっと足元を見つめた。
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