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第2話

 海まで徒歩十五分の町にある小さな日本家屋が、いまの実家だ。  大輔の母親が引っ越したのは十年ほど前で、父親の亡くなったすぐあとだった。  祖父母の空き家を簡単にリフォームして暮らしている。 「泊まっていけばいいのに……。あぁ、お友達の分の布団がないわ。先に言ってくれたら、用意しておいたのよ」  和室のテーブルに湯のみを並べたばかりの母親は、せわしなく立ち動こうとして落ち着きがない。 「そうだ、いただいたお菓子を出しましょうか。都会のお菓子なんて、めったに見ないわ」 「いいから。ちょっと落ち着けよ」  日の当たる縁側に座っていた大輔は、重たいため息をつく。煙草を消して、這うように座布団へ戻った。 「この近くに、古いホテルがあるだろ。目の前に小さい島があるところ。竹島(たけしま)だっけ? そこに泊まりたいからって、一緒に来てくれたんだよ。車も出してくれたし、ふたりで泊まった方が宿代も浮くし、俺も今日はそっちに泊まるから」 「あら、そう。あそこのランチはたまに行くのよ。雰囲気があって素敵でねぇ」  語尾の『ねぇ』が呼びかけるようになるのは口癖だ。   最近毛染めしたらしく、白髪交じりだった髪は根元まで黒い。肌ツヤはいいが、目元や口元のシワは深く刻まれている。  いつのまにか、ぐっと年老いた。それが自分の離婚のせいだろうかと思うと、罪悪感に胸を刺される。まるでトゲだ。チクチクと痛い。 「そういえば、お名前……」  母親がにっこりと微笑む。まず間違いなく、田辺が『イケメン』だからだ。  シャツの上に薄手のジャケットを羽織った男は、山手の奥様連中を軒並みぞっこんにさせて金を巻き上げるやり手の詐欺師だ。こんな田舎町の老婆ぐらいならイチコロだろう。  背筋をシャンと伸ばした田辺は、軽く会釈をしてから名乗った。 「田辺です。大輔さんとは、前の奥さんを通じて知り合った仲で……」 「まぁ、そう。倫子(のりこ)ちゃんの……。どうしているかしらねぇ」  ぼんやりとした口調でつぶやき、遠い目をして縁側の向こうを見た。  刑事の妻だった倫子は、愛人に溺れ、薬物へ手を出した。そのことを母親は知らない。大輔に落ち度があっての離婚だと信じているのだろう。小さくため息をついて、田辺へ向き直った。 「この子と仲良くしてくださって、ありがとうございます。仕事ばっかりするのは、父親の背中を見て育ったからで……、長所なんですけどねぇ。イマドキのお嬢さんにはつらかったんでしょう。田辺さん、ご結婚は?」 「……母さん」  失礼だと割って入る前に、 「これからです」  と田辺が答えた。 「あら、そう。田辺さんはモテるでしょうねぇ。お仕事はなにを?」 「金融業です」 「まぁ、ますますモテる感じ」 「母さん。ちょっと……」  テーブルに身を乗り出して止めると、細い肩をひょいとすくめた。ますます痩せたようだが、口は達者だ。 「あんたも落ち着いた頃でしょう。田辺さんに、誰か紹介してもらったら? どうせ、恋人なんていないんでしょう」  懐かしい冷たさが胸をえぐる。母親という存在は、ときどき恐ろしいほど不躾だ。家を出たというのに、まだ子ども扱いしてくる。 「いたって言わないけど……」 「いるの?」 「いない、いない」  笑って答え、まだ熱い緑茶を飲む。 「いい人がいたら、ぜひ、紹介してあげてくださいねぇ。このまま独り身だなんて、先々が寂しいだけだわ」 「母さん。しつこいから。……いいんだよ、俺は」  田辺の前で、女と付き合えとせっつかれるのは肩身が狭い。ぶっきらぼうに言うと、 「よくないわよ」  母親が不機嫌そうに眉をひそめる。親子間に不穏な空気が流れたが、田辺は困惑するでもなく、おっとりと話に入ってきた。 「大輔さんの仕事は、誰にでもできることではないですし、いまはいいんじゃないかと思いますよ。僕は、彼の仕事に打ち込むところを、尊敬してます」 「えっ?」  なにを言い出すのかと驚いて目を見張る。しかし、爽やかな笑顔の田辺は、母親へ向かって話を続けていた。 「倫子さんのことも、彼ばかりが悪かったわけじゃないと知ってます。再婚されたそうですよ」 「なんで知ってるんだよ」  と疑問を投げかける大輔の目の前で、母親がうんうんとうなずいた。 「知ってるわぁ。お手紙をもらってね……」 「え……。マジで」 「大輔に悪いことをしたって、書いてあって。なんだか、泣けちゃってねぇ……。再婚することをお許しくださいだなんて、ねぇ……。友達みんな泣いてたわ」 「もらった手紙を見せるのは、どうかと思うんだけど?」  「いいじゃない。倫子ちゃんにはわからないんだから」 「そういう問題かよ……」  ぼやいた大輔の隣で、肩を揺らして笑った田辺が腕時計を見た。 「大輔さん。これからお墓参りですよね。そろそろ行かれた方が」 「あ、そうだ」  すでに二時を回っている。のんびりしていると、夕方になりかねない。母親も気づいたらしく、腰を浮かせた。 「そうそう、お隣さんが車を貸してくれるから。大輔、あんた運転してね」 「……おまえも、行く?」  田辺に向かい、なにげなく声をかける。腰をあげた母親が動きを止める。嫌がってはいない。客人の意思を尊重しようと待っているだけだ。  ふたりからの視線を受け、田辺は首を横に振った。 「親子水入らずで、どうぞ。邪魔はしたくないので」 「邪魔じゃないけど。……ん?」  答えた大輔は違和感を覚えて首を傾げた。見つめてくる田辺の目に戸惑いがある。それを察したらしく、母親が間に入った。 「お墓参りなんて楽しくないんだから。まだ、海を見ている方がいいじゃないの。田辺さん、今度はゆっくりしていってくださいねぇ」 「また寄らせていただきます」  にっこり微笑んだ田辺が立ち上がる。  母親は玄関先で見送り、大輔が門の外までついていく。車は近くのパーキングに置いてある。 「なぁ、あや……」  大輔だけの呼び名を使う。振り向いた田辺が、困ったように目を細めた。 「墓参りについていくなんて、変でしょう。どうしてもと言うなら、かまわないですけど……。素直な気持ちで手を合わせられなくなりますよ」  田辺の手が、さりげなく肘を撫でて離れる。  線を引かれたとわかった。そこがケジメのつけどころだ。  友人以上の関係だとは紹介できない。そんな相手を墓の前に引っ張り出したところで、湿っぽさが増すばかりだ。 「迎えに来るから、連絡して。大輔さん、夕食に誘われたら、断らなくてもいいよ」 「今夜はコース料理だろ。俺だって、そっちがいい」 「じゃあ、お母さんも一緒に……」 「ランチで行ってんだから、いいだろ。別に。誘わなくたって」 「大輔さん」 「なんか、調子狂う」  ぶつくさ言って背を向けた。家へ戻る途中で振り向くと、田辺が軽い仕草で手をあげる。キザなのにシャレて見え、カッコつけだと思う一方で、心の奥がびりびり痺れた。  「連絡して」  声をかけられ、ポケットに突っ込んでいた片手をあげて返す。 「おぅ、あとでな」  そっけない自分の返事が、今日に限って、やけに冷たいように思えて不安になる。友達ならこんなものだ。だけど、本当は違う。  一緒に墓参りをして欲しかった。母親と一緒にテーブルを囲んで、夕食を取りながら、家族の話もしてみたい。  だけど、そこにはいつも『嘘』が転がっている。  家の中に戻った大輔はため息をついた。  本当のことは言えないけれど、言いたい気持ちがある。これが俺の恋人だと、初めて本当に好きになった相手だと口にしたい。  だから、一度目の結婚は間違いで、そして離婚も失敗じゃない。 そう考えたことを家族にわかって欲しいと思うことは、家族だからと負担を押しつけることにもなりかねない。ふと冷静になって、大輔はもう一度、深いため息をついた。

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