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第5話
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寝落ちした酔っぱらいに、備え付けのパジャマを着せて、布団の中へ押し込む。枕を抱きしめるように横たわった大輔は、ひとしきり歯ぎしりを響かせ、すぅっと深い眠りに入っていく。
田辺はしばらく寝顔を眺めた。自分で整えている眉は以前ほど刈り込みすぎず、きりっとした線を描いている。いつもは撫で上げられている前髪が額を覆い、すやすやと健やかな息づかいを繰り返す寝顔は、逞しいような、凜々しいような、それでいて、甘えたような感じがする。起きているときに見せるさまざまな雰囲気がすべて入り交じっていて、田辺の胸はざわめく。指先で前髪を分けて、額へそっとキスをする。
大輔の顔は、いわゆる『かわいい系』からはほど遠い。仕事柄、目つきが鋭く、どちらかといえば、頬が引き締まったオラオラ系のカッコイイ顔立ちだ。なのに、田辺にはかわいく見えて仕方がない。
なにをしていても、どんなひどいことを言われても、無条件に許せてしまうぐらいにはぞっこんだ。大輔のためなら、いけ好かない佐和紀の足元に額をこすりつけることも苦にならない。それで大輔との関係が保てるのなら、安いものだ。内心では、あの狂犬にも特異な利用価値があったと思うぐらいだが、誰にも言ったことはない。
いまや、若頭補佐の嫁だ。そして、肩書き以上に岩下は恐い。世話になってきたからこそ身に染みている。溺愛している嫁の悪口は控えなければならなかった。
ホテルから乗ったタクシーを降り、薄暗い街灯が滲む路地を行く。門戸にはかんぬきだけがかかっていた。呼び鈴は門についていない。だから、かんぬきをそっとはずして、庭から玄関へ続くアプローチを抜けた。
引き戸の横に付けられたインターホンを押す。
田辺が訪れたのは、大輔の実家だ。あと一時間で日付が変わる非常識な時間だったが、迷いはなかった。田辺の再訪に驚いた大輔の母親はすぐに顔を出し、中へ招き入れられる。
「忘れものでも?」
寝支度を整えた姿で目を丸くする。玄関へ入った田辺は、まず頭を下げた。
「夜分遅くに申し訳ありません。どうしても、伝えておきたいことがありまして」
「大輔のこと……」
一瞬だけ怯えたような表情になり、玄関の壁へ手を当てた。自分の身体を支える。
田辺は「はい」と短く答えてうなずいた。神妙な面持ちで口を開く。
「倫子さんとの離婚の原因は、僕です」
「え……? じゃあ、田辺さんが倫子ちゃんと」
「いえ、そうではなく。僕が、大輔さんに横恋慕したので」
「あぁ、プラトニックな……、え?」
母親の聞き返しのタイミングは、笑ってしまいそうになるほど、大輔とそっくりだ。
「おそらく誤解があったんだと思います。その……、僕と彼が、そういう仲だと、倫子さんが勘違いして。それで、気持ちが離れて。……悪いのは、僕です。お母さん」
甘く呼びかけると、大輔の母親は呆然としたまま、目をしばたたかせた。
「あの子、そうなの……?」
「違います。大輔さんは結婚できたじゃないですか」
「あ、そう。そうね。あの子は、女の子と付き合ってきたし。え、でも、……じゃあ」
怯えた目が、すがるように田辺を見る。
その視線に応え、度の入っていない眼鏡をはずした。ゆっくりと鼻の付け根を揉んで、これみよがしなほど思い悩んだ風情を醸す。女性相手の効果はよく知っている。適度なタイミングで、眼鏡をかけ直した。
母親の顔から怯えが抜けて戸惑いだけが残るのを見定め、田辺は息を吸い込む。
申し訳なさそうに、でも、真摯に、目の前の相手を見つめる。詐欺師で食ってきたのだ。人の心の中へ入り、答えを先導する術は身についている。それで大金を巻き上げるのだが、今回に限っては同情を引きたいだけだ。
「大輔さんが好きです」
口にすると、思いがけず、田辺の心は震えた。大輔への気持ちが大きく膨れあがり、やがて胸の内へと染みこんでいく。
嘘と真実を混ぜ合わせ、恋人の母親を騙すことに躊躇はない。大輔と倫子、そして大輔と田辺の間にある真実は、確実に大輔の母親を傷つける類のものだ。永遠に知らないでいて欲しいと大輔も考えるだろう。
「彼が、僕をどう思っていたとしてもいいんです。これから先、ずっと彼を守ります。許して欲しいと、ここで言うつもりはありません。……たとえ反対されても憎まれても、変えられない気持ちなんです」
「……なんて、言えば……いいのか」
言葉を詰まらせながら、大輔の母親は視線をさまよわせる。
「大輔は、その、女の子が好きな子だし……。あなたにはもっといい人が」
「そんなことを考えていたら、こんな時間にお邪魔していません。……彼に、気持ちを伝えたいと思っています。玉砕は覚悟です。それでも、きっと、僕は……、彼以外を守りたいとは思わないので。きっと友達のままでいます。それだけ、あなたには、伝えておきたくて」
言葉を選ぶように声を途切れさせ、そのたびに息を継ぐ。大輔の母親は、あたふたと指先をさまよわせる。
「こ、こま、困るわ……。それじゃあ、あなたが損をするわよ。あの子は父親に似てひとつのことしかできないの。仕事と思えば、仕事だけなの。ね、悪いことは言わないから、別の男にしなさい」
田辺の肩に手を置いて、揺すりながら言い聞かせてくる。その指をそっと剥がして、両手で包んだ。大輔の母親だと思うと、演技を超えて見つめてしまう。
わかって欲しいことも事実だ。どんなに薄汚い真実があったとしても、たったひとつ、大輔を想う気持ちだけは清い。
「お母さん。どうぞ、そんなことはおっしゃらないでください。女を好きでも、男を好きでも、心からこの人だと思える相手と巡り会えるなんて奇跡です。……大輔さんを育ててくれた、お母さんに感謝します。たとえ、彼が、僕を選んでも、あなたはずっと、彼の『特別な存在』ですから」
口にすれば、ほんの少しの嫉妬が混じる。自嘲を胸に隠し、柔らかく微笑んでみせた。
「……そ、そうね……。う、うん……」
大輔の母親は、狐にでも騙されたような顔で、こくこくと繰り返しうなずく。
自分の息子が男に言い寄られていることを理解できていないし、しようともしていない。
「今度は、お墓参りに同行させてください。お父さんにも、きちんと挨拶をしたいので」
「えぇ、ぜひ。そうして……。えぇ」
田辺の雰囲気にすっかり飲まれ、もっともらしく言いくるめられたことにも気づいていない。田辺はおおげさにホッとした演技をつけ加え、弱く微笑んだ。
「それじゃあ、僕はこれで」
「あ、あ……。お茶でも……」
「ありがとうございます。でも、タクシーを待たせているので……。夜分遅くに失礼しました」
握っていた手をするりと離して一礼する。直後、慌てたように腕を引かれた。
「待って。タクシー代……、持っていきなさい。あなたみたいな人が、あの子なんて……」
財布を取ってくると言う大輔の母親を、今度は田辺が引きとめた。
「受け取れませんよ。それより、これを」
ジャケットのポケットから、二つ折りにした銀行の封筒を取り出す。
「大輔さんが、お母さんに渡そうと用意していた『お小遣い』です。恥ずかしいから渡さなかったと言っていたので。電話、してあげてください。着信を残すだけでも。携帯電話にかけると、履歴が残るじゃないですか。それだけで、息子って、安心できるんですよ。でも、折り返しは期待しない方がいいですね」
差し出した封筒を大輔の母親の手に押しつけ握らせる。
警察官の忙しさを知っているからこそ、母親は心配を募らせて口数を増やす。しかし、息子である大輔は心配をかけまいとして口数を減らす。どこにでもある親子の行き違いだ。
予想していたから、封筒も中身も、田辺が用意しておいた。大輔はなにも知らない。
「おやすみなさい、お母さん。また近いうちにお会いしたいです」
それじゃあ、と、はにかみを浮かべて頭を下げ、戸締まりを忘れないように言い添えて外へ出る。門まで戻って振り向くと、大輔の母親は引き戸を半分ほど開けて見送っていた。
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