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第6話

 温かい情けをひっそりと抱えているまなざしは、田辺が愛している男とよく似ている。口に出すことを知らず、誰に気づかれなくてもいいと、胸に溜めて生きているのだ。  会釈をして門を閉じ、かんぬきをかける。タクシーは大通りに待たせていた。  そこへ向かう途中で、足がもつれ、田辺はふらつきながら電柱にすがる。大輔の実家からは見えない場所だ。長く深い息を吐き出す。 「あー……」  言葉にならない声を出して、そんな自分のくちびるを手で覆う。くちびるも指も、どちらも小刻みに震えている。 「岩下さんの方がマシ……」  つぶやいて、背筋を伸ばす。  嘘なんて息をするように口にできる。人を騙して生きてきた。なのに、こんなに緊張して、成功に安堵するなんて久しぶりだ。  来た道を振り返り、田辺は深く腰を折って頭を下げた。  どんなことがあっても、大輔の母親は彼女だ。大輔がどんなにそっけなく振る舞ったとしても事実は変わらない。母子の間には、長い年月で培われた絆が見え隠れする。  だからこそ、二方向から引き裂かれるような思いを、大輔には感じさせたくない。母親と田辺とが秤に乗せられたなら、比重は間違いなく母親へと傾く。そのことで傷つかない大輔ならば、こんな出来すぎた真似はしなかった。そうではないから、予防線を張っておきたいのだ。  大輔が追い続けた男らしさは、父親の背中であり、母親の期待だ。それはいまでも変わらず、彼の中に染みこんでいる。押しつけられているのではなく、大輔自身がそれを良しとして受け入れたゆえの価値観だ。  そうやって男らしく生きてきた大輔の身体をもてあそび、まっすぐだった心を歪めてしまった罪悪感が田辺にはある。  大輔に対して、愛して欲しいと思ったわけじゃない。ただ、愛情を傾ける先を見つけてしまった。田辺にとっては、それが大事なことだ。  見返りは肉体関係の相手をしてくれるだけでじゅうぶんで、その先は期待はしていなかった。なのに、律義な大輔はまんまと罠にはまった。  ふたりの間に恋が芽生えたことが、田辺には信じられない。  いつかは終わることだと知っているからこそ、恋の果ては、できるだけ先延ばしにしたいと思う。いつか、大輔が心変わりしたとしても、責めるつもりはない。  その瞬間まで、気持ちの変わらない自信がある。  けれど、ふたりがこうしていることで彼が傷ついたり、誰かの横やりで引き裂かれることはおそろしい。田辺の気持ちだけは変わらないからこそ、身体を繋ぐ関係が終わったとしても、そばにいたかった。友人でもいいから、嫌われずに、ただ見守ることを許して欲しい。  自分の中に兆した弱気に、田辺はかぶりを振った。  髪をかきあげ、ジャケットの襟を正す。  よくない始まり方だったふたりの関係が、いい思い出になるように着地点を探している。大輔の母親に会ってみて、その気持ちはより強いものになった。  家庭の中に脈々と息づく価値観を否定することが、精神的な自立になるとは言いたくない。どんなささいなことでも、大輔を否定するつもりはないからだ。あの母親に育てられた大輔だ。そして、彼は自分自身の価値観をたいせつに守っている。  けれど、男らしくあろうとして疲れ果てた大輔は、結婚生活を破綻させた。自分を裏切った結婚相手のことさえも、自分の未熟さのせいだと悔いた彼を知っている。田辺だけが知っているのだ。  大輔が結婚に向かなかったわけじゃない。うまく弱さを見せることができなかっただけだ。自分の背中にすべてを背負い込んで生きるのが男だと、たいせつに守る価値観に教え込まれた結果だが、悪いことだとは思えない。  けなげな男だ。かわいそうなぐらいに一本気で、不器用で、そして真面目で。  絶対に、あきらめられない。  だから、どうしたって母親を丸め込んでおきたかった。昼間のうちに好印象を残して、夜中に思い詰めたふうを装って押しかけ、畳みかけるように口説き落とす。もう何度も繰り返した、たらしのテクニックだ。人妻たちの生活を乱さず、心の柔らかいところを優しくかき混ぜ、倫理観を惑わせる。  なんの不自由もなく生活しているセレブな人妻でも転げ落ちた。海沿いの鄙びた町で独居する熟女を騙すぐらい造作はない。  心の中でうそぶきながら、田辺は大通りまで出た。待たせておいたタクシーへ乗り込む。  母親を丸め込みにいくため、いつもより飲ませて酔わせたのだと知ったら、大輔は怒るだろう。  悪いのは自分だと、田辺は思った。  それでいい。近づいたのも、愛したのも、必要としたのも、田辺の一方的な欲望だ。  震えの去った手のひらを、暗い後部座席に沈んで見つめる。  今夜、またひとつ、欲望が生まれた。  大輔を産み育てた彼女にも、できれば愛されてみたい。  息子を守る第三者として、信頼を得たい。  そっと拳を握り、くちびるへと押し当てた。甘えたように『あや』と呼んでくる大輔の無邪気な声が耳のうちによみがえり、部屋に戻ったら、強く抱きしめようと決める。  タクシーの窓の向こうには、海に浮かんだ小島が見えていた。

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