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ありふれた殺人 2-3
「お願いだ! ここから出してくれ!」
男がドアの向こうに立ったような気配を感じ、私はさらにドアを叩いた。だが男から反応はない。悔しくなった私は先ほどよりも強くドアをガンガンと叩いた。
「私をここから出してくれ!」
そのときだ。凄まじい音を立て、向かい側からドアが蹴られた。私は男が憤っていると知り、思わずその場にへたりこんでしまった。私がおとなしくなったと知ると、男はドア下の隙間から一枚のメモを滑り入れた。私は震える手で、それを読んだ。
『ドアから離れろ。今から鍵を開けてやる』
その場で書いたものなのか、手帳か何かの切れ端に殴り書きのように書かれていた。
唯一にして最大のチャンスだと思った。体格差では私に勝ち目はない。ランニングの度に私が見かけた男が目の前にいるのだから。
しかし不意打ちならどうか。私たちを隔てるドアは外開きであり、上手くいけば男をかわし、逃げられるだろう。私はこの家に何年も住んでいるのだから、このドアさえ突破できれば私が有利だ。
私が何も反応を起こさないことに安心したのか、扉の向こうからおそらく南京錠と思われる鍵の開く音が二回聞こえた。私が意識を失っている間にそこまでの細工を施していたのかと思うと空恐ろしくなる。
私は深呼吸し、身体をリラックスさせる。いつでも駆け出せるように。
扉がギィ・・・と開く。今だ! 私は雄叫びを上げながら扉に突進した。この勢いならば扉の向こうの男にダメージを与えることができるだろうう。そう思っていたのが間違いだった。
堅牢に思えた扉は呆気なく開き、男のうめき声すら聞こえず、支えを失った私はそのままの勢いで廊下に突っ伏し、身体を強かに打ちつけた。
なぜだ。
どうして。
様々な疑問が脳内を駆けめぐる。身体が痛い。
私が呻き声を上げると、頭上からはあ……と落胆の声がこぼれた。
横たわる視界に綺麗に磨き上げられた革靴が映る。そのまま視線を上げてその人物を認識した瞬間、私は身体の痛みなど忘れて男の顔を穴が空くほど見つめた。
私と目が合うと、その男ーージョエル・クラウスは診療所での優しい顔から一変し、光のない瞳で私を見下ろし、言った。
「ダニー。あなただけは俺から逃げないと信じていたのに……」
「……ジョエル、どうして……君が」
「俺たちは愛し合っていた。そうだろう? それなのに、どうして逃げようとするんだ?」
ジョエルの問いに、私は首を横に振ることしかできなかった。今すぐにでもジョエルから離れたかったが、恐怖とショックのあまり身体が硬直し、まったく動かせなかった。
それでもジョエルが持っていた手錠を目にした途端、私は声にならない悲鳴を上げ、誰かに助けを求めるようにして廊下を這って進んだ。
「ああ……誰か、誰か……」
私のささやかな抵抗を楽しんだ後、ジョエルは私の背を彼の膝で押し潰し、私の両手を後ろ手にして手錠を掛けた。そのまま引きずられるようにして、かつて安住の地であった私自身の寝室に連れこまれたのである。
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