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☆一章一話
キィィという車の急ブレーキの音が響き大破する音が耳に入った。
周りからは叫び声や、おびえる声が聞こえる。真横から車がものすごい速さで迫ってくる。
車がぶつかるかと思い身構えたが、体に痛みも衝撃もない。蔵之介はゆっくり目を開いた。大きく息を吐き吸いながら顔を上げた。そこで再び息を止める。
そこには巨大な何かが居た。
それは回転し、一つの足の様なものが頭上を通り過ぎた。細長い足を起用に動かし、蔵之介の方に顔を向けた。
その姿は蜘蛛。蜘蛛の体はトラック以上の大きさがあり、それから伸びる足のせいでさらにその姿は大きく見える。
蜘蛛の顔が近付いてきて首をひねった。いくつもある目の一番大きい物を見つめた。
蔵之介が手を伸ばし触肢に触れると、蜘蛛は少し体を震わせた。そして体を返しその場から跳び去った。その勢いであたりに風が打ち付け、周りの建物のガラスは破裂するように飛び散った。
「またこの夢」
顔を窓の方に向けると、外は暗かった。最近同じ夢を見ることが多くなった。
伸びをして体を起こすと、まだ制服の学ランを着ていることに気付いた。帰ってきてすぐに眠気に襲われベッドに身を置いたら眠りに落ちてしまった。
夢……、しかしこれは夢ではない。蔵之介はそう思っていた。五歳の時、実際に起きたこと。ビルをも登れるほどの足をもつ巨大な蜘蛛を。でもこの時のことを誰に話しても、信じては貰えなかった。実際に蜘蛛が居た交差点にも行ってみたが、何事も無かったかのように普段通りの街並みだった。
建物も破壊された様子はなく、近くのコンビニに入り子供ながらに身振り手振りで蜘蛛の大きさを示したが、笑ってからかわれた。自分でも夢だったのかもしれないと思い込みながらも、あの時触れた触肢の感触が忘れられずにいた。
制服を脱ぎハンガーにかけた。手で簡単にしわを伸ばしてつるし、クローゼットにしまった。
ティシャツとハーフパンツ姿で窓を開けると、冷えた優しい風が吹き込む。鈴虫の鳴き声が聞こえるすずしい夜。一匹の黒い小さな蜘蛛がぴょんと窓の縁に飛び乗ってきた。わざわざ壁を伝ってこんなところまで登ってきたのだろうか? しばらくの間その蜘蛛を観察し、可哀そうと思いながらも室内に入らない様つついて、外に追い出した。
のどに渇きを感じ、窓を閉め部屋を出てそっと階段を下りる。両親が帰ってきてる時間だ、また何か言い争いをしてなければいいけど。
「全く、あの子はダメね。話せば蜘蛛のことばかり」
階段の最後の一段を残し立ち止まった。リビングから母親の声が聞こえてくる。
「もっと他のことに興味を持たせたらどうだ?」
父親の声がして新聞をめくる音が聞こえる。蔵之介はうつむいた。ここに居るのがいけない気がしてくる。気が遠くなり、床が遠くにあるように空間がゆがんで見えた。
「男の子相手なんだからあなたが話してみてよ。私は蜘蛛なんて嫌いだし。この前噛まれたばかりなのよ」
「それはお前の仕事だろ。子供の世話は任せてるんだ」
父は興味なさそうに言った。
最近よくされる会話。聞きたくもない話だが、同じ家に住んでいれば嫌でも聞こえてくる。
その声はどこか遠くで聞いているかのような、小さくくぐもって聞こえた。
「なんであんな子産んじゃったのかしら、もっと聞き分けのいい子ならよかったのに」
その言葉にドキリとして両手を握る。
「でもまあ、もうすぐ出ていくわけだしいっか」
ため息交じりの母の声。その言葉にこらえきれず部屋に戻った。
のどに何か詰まったように声が出せなかった。ベッドに突っ伏し声を殺して泣いた。抑えたくてもとめどなく目から涙があふれてくる。
高校はこの村にはない。中学を卒業したら必然的に村を出ることになる。
僕は生まれてきちゃいけない子供だったのかもしれない。
でも、なんとかして認めてもらいたい。期待に応えられない自分が悔しい。
泣いて、泣きはらして、いつの間にか眠ってしまっていた。
気付いたら朝になっていた。
それから数週間が経ち、学校から帰ると母が慌てた様子で身支度を調えていた。
「どこかに行くの?」
「そう、あんたもよ。カバンおいて。車で待ってて」
母は鏡の前で下唇に口紅を塗った。
唇を合わせこすると上唇にも色が移る。
「見てないでさっさと行きなさい。どんくさいわね」
蔵之介はカバンを廊下に置いて、外に出て玄関のドアを閉めた。
どこに行くんだろう?
もしかしてどこかに捨てられるのかな?
自虐的なことは言っていて悲しくはなるが、一方で心が少し軽くなる。
一層その方が生きやすく楽になるのかもしれない。
自分はいらない子供なんだ。それが毎日のように頭をよぎり洗脳されていった。
母は慌てて玄関を飛び出し、鍵を閉めた。
「早く乗って」
車の鍵が開き車に乗り込む、まだ見慣れない村の道の中を走る。
ここには一年ほど前に引っ越してきた。出かけるにしても近くのスーパーや本屋程度だ。
見て回れば面白そうな街だったが、あまり見て回る気にはならなかった。唯一行ったのは蜘蛛がまつられている塚だった。三か所、それを線でつなぐと村の中心を囲むように並んでいた。
その塚にかかわると良くないことが起きる。そういわれ人が近付くことはなく塚も危険とみなされ柵で囲まれている。近くでそれを見ることは出来なかった。
友達もいない。前の学校でいじめを受けたせいで上手く話せなくなり、人と上手く関われなくなった。仲良くは無いがいじめられるわけでもない。ただ学校で日々が過ぎていく。そんな中でも興味を持っていた蜘蛛の存在がありそれが蔵之介の心のスキマを埋めてくれていた。
いくつか通り過ぎた十字路の先を曲がり、坂を上っていく。
ついた先はそう遠くはない、役所だった。
車を降り入ると、受付をして奥へ通される。人気はない通路をきょろきょろ見回しながら歩く。
母親はどこか嬉しそうな足取りで、軽やかにヒールを鳴らしツカツカと歩いていく。
一番奥の部屋につくと、扉が開いた。
「お待ちしておりました」
少し暗めの部屋。ブラインドも全て閉まり外とは遮断したような静かな部屋だった。空気も重く、闇取引でも始めようかと言った様子の部屋だった。
「いえ、遅くなってしまったようですみません」
母は所長と名乗る男によそ行きの笑顔で会釈する。家族には向けられたことのない笑顔だ。
「それで息子さんと旦那様の方は大丈夫だったでしょうか?」
「ええ、もちろん。同意しております」
なんの話をしているのだろう? なんの同意もした覚えはない。いつもこうだ。何も言わず、突然巻き込み何かを始める。引っ越した時だってそうだった。いじめられてると相談しても興味なさげに「あんたの気のせいよ」と流された。
気のせいのはずなんかない。あんな恥ずかしい思いはもうしたくない。思い悩んでいた矢先今度は「あんたの為よ」と突然引っ越しを決めた。まるで俺がいじめられている対策をした科の様に。
本当はどうでもよかったくせに、周りに評判良く話せればこの母親という存在は満足する。それで済むならもうそれでよかった。不機嫌でいられるよりはマシだった。だから従うしかない。
「そうですか。それはよかった。蔵之介君。本当にすまないね、君にこんなことを頼むことになって。私たちも 煮え湯を飲ませている気分で本当に申し訳ないと思っている。しかし、誰かがしないといけない事なんだ。そして、君が選ばれた。ある意味光栄なことなんだよ」
役所の人が言うと、書類と封筒を持ってきた。
「こちらにご記入をお願いいたします。あとお渡しした書類へのご記入は済んでおりますでしょうか?」
「ええ、もちろん」
と母は持ってきた書類を取り出す。
大人のやり取り。蔵之介は黙ってみているしか出来なかった。
書類にも何が書かれているのか分からない。
書類へのサインもほとんど母が済ませ、最後に蔵之介に記入する様促す。
「なんのサインなの?」
蔵之介が聞くと睨まれる。まるで聴くことすらも過ちだとでもいう様に。
「あんたは分かんないんだから言われた通りサインすればいいの!」
そう強く言われしぶしぶ名前を記入した。まるで奴隷だ。しかしそれを口に出せるわけもなく、サインをした。
サインが終わるとすぐに母に書類を奪われる。
「これで大丈夫でしょうか?」
「ええ、これで契約は完了です。こちらが謝礼となります」
先ほどの封筒を差し出し、母は中身を確認し口元を緩ませた。
「ええ、確かに。手続きはこれで完了でしょうか?」
「はい、最後に何かあればお二人の時間をおつくりしますが」
「いえ、結構です。あとはよろしくお願いします」
そういうと母親は笑顔で立ち上がった。蔵之介も立ち上がろうとすると、母に頭を撫でられた。
頭を撫でられるなんて何年ぶりだろうか?
ドキッとしてしまい、撫で続ける手を静止することも出来ず座り直す。
「良い子でいるのよ」
それだけ言って部屋を出ていった。
どういう事? 最後の二人の時間? 契約? 謝礼?
混乱して立ち上がることも出来なかった。
――煮え湯を飲ませている気分
先ほどの言葉を思い返す。
裏切り? 酷いことが起きる。絶望感が残像のように脳裏によぎった。
「あの、僕は何を……?」
震える声で所長に聞く。
「いやー、君が引き受けてくれて本当に良かったよ。その様子だと詳しく聞いてるか分からないが、ここにはしきたりがあってね。百年に一度生贄を出さないといけないんだ。
この街には蜘蛛の守り神が居てね。蜘蛛の塚があるのは知っているだろ? そこには蜘蛛の神様がいるんだ。神様に生贄を差し出さないとこの町は滅んでしまうんだよ。毎回この選別に時間がかかっていてね。なんせ、子供を一人差し出して貰うことになる。さらに言えばこんなことがバレれば村一帯からクレームが殺到し、生贄を出すことなんて出来なくなる。
声をかけるのもかなり慎重にしないといけなくてね。
でも今回はすぐに決まってよかった。本当に助かった。君が快く引き受けてくれた事に感謝するよ。ありがとう」
所長は蔵之介の手を取り、何度も頭を下げた。よそ行きの笑顔、それは見てすぐにわかった。
蜘蛛の塚。それは蔵之介が唯一足を運んだ場所。関われば良くない事が起きると言われている場所。そんな場所に行ってしまったから?
「い、嫌です……」
蔵之介は、ぽつりとつぶやいた。
「は?」
所長は眉を寄せた。
「嫌です、生贄なんて。僕はまだ死にたくない、母さんだって、父さんだってそんな事、許すはずない」
「しかしね、現にこの同意書にサインをしている。君もさっきサインしただろう? 契約は成立しているんだ」
所長は書類をバサバサと振って見せた。
「そんなの知らなかった! 無効だよ!」
「君の保護者が同意してるんだ。君もサインをした。それで成立なんだ」
所長は首を横に振りにやりと笑った。さっき何の説明もされず記入した書類を思い出す。そんなものに母がサインをさせるはずない。
とにかく本人に確認をしたい。父さんもそんな事……。
考えるとここに引っ越してきた日以来ほとんど話していない。それは父を避けていて、父自身も蔵之介のことを見て見ぬふりしていたからだ。自分は父親にとって必要と思われていない。居てもいなくても同じだったのかもしれない。
蔵之介は立ち上がり、部屋を出ようとすると長身の黒服の男にドアをふさがれた。
所長は立ち上がり蔵之介に歩み寄る。
「逃げるなんてもうできないんだよ。今夜生贄を出さないといけないんだ。君は捨てられたんだよ。先ほどの母親の姿を見ただろ? あの封筒には二千万円の小切手が入っている。今までの君の養育費と今回のことの口止め料だ。毎回選別にお金がかかるが、今回は相手がよくてあっさりと決まったから普段より高めだ。その分ご両親も喜んでたよ。
いいか? 君は売られたんだ。捨てられたんだよ」
蔵之介の心に鋭い言葉が刺さる。
所長は顔をこれでもかと大げさな身振り手振りで話し、顔を寄せ、蔵之介の心を言葉でえぐった。
わずかの希望が消え
蔵之介は絶望感でその場に身を崩した。
母親に捨てられた? 売られた?
期待されてないのは分かっていた。
期待に応えられないのも分かっていた。
けど、せめて生きることくらいは許されてると思っていた。
その希望が絶たれた。
蜘蛛の糸がぷつんと切れると、巣が絡むと元には戻せない。もう落ちるしかない。立ち上がることも出来ずうなだれていると
「連れて行きなさい。今回も先方から服が届いている。向こうについたらそれを着させて行かせるんだ」
と所長の声が聞こえる。隣でしゃべっている声なのにすごく遠く聞こえた。
くぐもった声が止まると。体を無理やり持ち上げられ、地下駐車場にある車に担ぎ込まれた。
窓から外をみようとするが、外は見えない。多分外からも中は見えない。
終わりだ。全部。失望感から体に力が入らなかった。
どこに連れていかれるのかも分からない。
しかし、蔵之介にはもうどうでもいいことだった。
捨てられた、売られた、生贄にされる。
残された現実をかみしめた。
涙がうっすら一筋流れた。
何もかもがなくなった。
着いたのは、森の奥深く、自力で戻るのはかなりこんなんだろう。服は全て脱がされ、見慣れない薄手の白い衣を羽織らされた。
それ以外は身に着けてはいけない。靴も、下着も全て着ることは止められた。思いのほか衣はしっかりしていて、秋風の肌寒さを感じない。
「ここから先に進むんだ。自分の足でだ」
先ほど、ドアをふさいできた長身の男が言った。示す方向には鳥居が並んでいた。ここは蜘蛛の塚よりも人が避けている場所。
来るのも買えるのも困難な場所だが、興味本位で来る人もまれにいる。しかし、子供が行けば帰ってこない。帰ってきてもおかしなことを言い出す。記憶がなくなる。さまざまな事が言われ周辺の人は誰も近付くことは無かった。
蔵之介は何も考えず、先へ進んだ。
捨てられたんだ、何が起きても怖くはない。
両親に捨てられる恐怖に比べたら、何も怖くはない。
蔵之介は抜け殻の様に歩いた。
ただ、言われた方向に足を進めた。
しばらく歩いていると、足元にねちょりとしたやわらかい感覚と音。
「え? なに?」
蔵之介が後退ろうとするが足のうらにくっつき、持ち上げると糸を引き、動けば動くほど足に絡みついてきた。
「もしかして蜘蛛の糸?」
側にあった木に手をつくがそこにもねちょりとした感触。手を離すと細かい糸を引いた。
払いのけようとするがやはりこちらも手に容易に絡みつく。
これ以上動かない方がいい。それは瞬時に分かった。
絡みついた蜘蛛の糸は、振動を察知した主が現れる。これだけでかい蜘蛛の糸だ。主も相当大きいだろう。
けれど蔵之介は落ち着いていた。記憶に大きな蜘蛛の存在があるからだ。
動かず待っていると、木が遠くで揺れた。
「くふふふ」
「ふははは」
「ひひひひ」
いくつもの笑い声が近付いて来る。
一人、二人ではない、気付くと周りからカサカサと葉のこすれる音や、木のきしむ音が聞こえ、多くの気配を感じた。
「なっ、何?」
すると顔の横ぎりぎりに蜘蛛の糸が走った。それは後ろにあった木にくっつく。
かすめた左頬に薄く切れ目が入り、血がこぼれた。
上空で木がきしみ、木の葉が舞った。何か戦いが起こっているのか、呻く声や打撃音が聞こえてくる。
車の中で聞いた事を思い出した。
ここには蜘蛛の獣が住むと言われている。百年に一度、生贄を捧げる契約で村の人は平和に暮らしていた。生贄が戻ってきたことは一度もなく、どうなるのか全く分からない。
今や笑い話になっていて誰も信じてやいない。知らない人間だっている。黒服の男は所長の事をいかれた男だと言っていた。黒服の男自身もこの話を信じていない様だった。
獣の姿だって誰も見た事がないのだ。信じられるわけがない。
しかし数百年前、その契約を破ろうとした。生贄を出さず、日々平和に過ごしていた。正しくは当時の所長は話を信じず、生贄の事を完全に忘れていた。
すると畑の作物や水、家や植物全てに蜘蛛糸がかかり使い物にならなくなり生存の危機に見舞われた。
村長は慌てて生贄を選別し、神隠しと言う名目で一人の十歳前後の男の子が送り出された。
それ以来、その仕来りは内密に裏で続いていた。
にわかには信じがたい話だが、今の状況を考えると信じざるおえない。
手や足に絡まる大きく強力な蜘蛛の糸。それがいま目の前にある。通常の蜘蛛の糸よりも太い。
そして頬を切った糸。それは細く鋭利でするどかった。どちらも普通の蜘蛛の出す糸ではない。
蜘蛛は好きだが、こんな糸は知らない。こんな巨大なクモがいるなんて辞典にもネットにも載っているわけがない。記憶に残る巨大な蜘蛛が頭をよぎった。しかし、気配はそんなに大きなものでは無い。気配から狼か、熊か動物くらいの大きさを想像させた。
「俺の獲物だ!」
背中の方から声がして振り返ると、一人の男が鋭い爪を光らせ飛びかかってきた。
それは蜘蛛ではなく人の形をしている。緑の衣の羽織りをなびかせ、その装飾は光りもないのに部分的に光沢が 輝きを放つようだった。それに美しさを感じた。
「誰が渡すか!」
声と共に黒と黄色の衣が飛び掛かって来た。緑の衣に糸をかけ、引き寄せ蹴り飛ばす。
「あれは私の獲物だ!」
黒の衣の男が叫び
「俺のものだ!」
と赤い衣の男が黒い衣の男を羽交い絞めにする。
「邪魔をするな! お前みたいな雑魚虫が勝てるわけない」
悪態と怒号、そして蜘蛛の糸が飛び交いあたりに糸が張り巡らされていく。
「すごい……」
見たこともない光景を見ているはずなのに、恐怖心より好奇心が勝った。こんなに巨大な糸が飛び交うところが見れるとは思わなかった。網もかなり強力な物で木や岩をに傷をつけていく。上空の暗い中からパラパラと葉や枝が降り落ちてくる。
しかし、その糸はその役目を終えると力なく垂れ、地面に落ちた。
ピシャっと音が聞こえ、背中を押された気がした。振り返ると背中に蜘蛛の糸がついていた。
「来い!」
そう聞こえ背中に着いた糸に引っ張られ、木や地面につながる手足の糸がブチブチと切れた。
「うわっ」
体が軽々と持ち上げられ宙で体が回る。上下が反転したあたりで突然別の糸が飛んできて体を引いていた糸が切られる。空中で急に重力がかかり落下した。
「あぁ、うわあああ!」
蔵之介は叫びながら頭を抱え込んだ、蜘蛛の網が張られ地面スレスレで体はバネのようにはね、止まった。
「もう、なんなんだよ!」
先ほどまで蜘蛛の糸に感動していた蔵之介だが、さすがの出来事に恐怖で目から涙が溢れ出す。ため息を付こうとすると、今度は口元に糸がぐるぐると巻かれた。
「んん!」
「何してるんだ!?」
蜘蛛の白い衣の一人が怒鳴る。
「うるさいから口塞いだだけだろ!」
他の蜘蛛がにやりと笑い答えた。
「生贄には手荒な事はするなって言われてるだろ!」
他からがやがやと声が上がる。
「うるせー! テメーらの口もさっさと塞いでやる!」
何人かが言い争ってる声と木のきしむ音が続く。
ひゅんひゅんと蜘蛛の糸が張り巡らされ、ねちょねちょ付着する音が聞こえる。
口をあふさがれてしまい声が出せなくなり、呼吸も浅くなる。息苦しくなり、さらには蜘蛛の糸に囚われ体を動かすことも出来なった。恐怖心から体が震えた。このまま自分は死ぬのだろうか?
捨てられたというのに死ぬのはまだ怖い。
ここに先ほど見た岩にも傷をつける糸が飛んで来たら避けようがない。どうにか抜け出せないかと付着した糸を引っ張り外そうと動くが、動けば動くほど服にへの付着面積が広がっていく。
先ほど手足に絡みついた糸は体を引かれると共に簡単に切れた。なのに蔵之介の力では切れない。それだけ力のある者たちの戦いなのだろう。百年に一度の生贄をかけた戦いだ、自分がどうされるのかは分からないが、戦ってる者たちにとっては多分相当な覚悟をしてきているに違いない。
シュッと音が聞こえ、音のした上空を見ると、枝が落ちてくるのが見えた。思わずきゅっと目を閉じると、顔の横をかすめて落ちていく。
「うぅ・・・怖いよ」
思わず弱音がこぼれた。こんなの話に聞いてない。命が目当てなら誰でもいいからさっさととどめをさして欲しいくらいだと、眼から涙がこぼれた。この後いったいどうなるんだろう?
暗闇で争いが続き、いつまでこの状態が続くのか蔵之介の不安が募った。会話を聞くにその争いの種は蔵之介、やはり生贄をかけてのものの様だ。
ふと、ふさがれていた口の糸が外されてることに蔵之介は気付いた。さっきまで確かにふさがれていたのに。周りを見るが誰がいるわけでもない。もう訳が分からないと蔵之介はため息をついた。
「いいか? 俺が生贄を手に入れる! バードイートの名に懸けて!」
声を上げたのは一際からだのでかい男だった。バードイートは鳥をも食べる蜘蛛の事だ。それだけ体は大きく、巣もでかい。蔵之介は頭だけ声の主の方へ向けると、男は木の上から蔵之介を見据えにやりと笑った。
蔵之介は苦笑するとその間に白い衣の蜘蛛が三人立ちはだかった。
はっきり見えはしないが、その蜘蛛の足元にきらりと蜘蛛の糸が光った。
「生贄はお前の物にはならない! それが定めだ」
「今からそれを証明してやる」
三体がそれぞれ別の方向へ散り、バードイートへととびかかった。
一体が網を作りバードイートのからだを捉え、もう一体が鋭く尖らせた細かな糸を途切れることなく飛ばした。
バードイートはそれを見て笑い体にまとわりつく糸をちぎり外した。それと同時にも一体の白い衣の蜘蛛が背中に勢いよく太くとがった糸を突き刺した。
それは剣のような形をしている。
「糸が弱いな」
突然横から声がして見ると白い衣に白い髪の男が立っていた。
頭側に立ち、顔は見えない。
「君は誰の生贄になりたい?」
その男は少しだけ振り返り、問う。
しかしまだ顔は見えない角度だった。
「俺は、怖いから早く終わって欲しい」
「分かった」
白い衣の男はそういって、高く飛び上がり、木の中に消えた。
「それで隙をついたつもりか?」
バードイートは脇にわずかながらに傷をおいながらも剣をかわし、白い衣の一人の剣を持つ腕を引き細かな糸に向かい盾にする。
「ひっ」
盾にされた蜘蛛が声を上げ、糸を飛ばしていた蜘蛛は糸を飛ばすのを止めた。しかし既に飛ばしている糸が大量に飛んでいく。
「糸を止めるな!」
別の声がして、木の陰から別の白い衣の蜘蛛が飛び出してきた。
その蜘蛛は先ほど側に立っていた男。髪まで白く輝いて見える。
白い髪をなびかせ、瞬時にバードイートの腕に切りかかる。先ほどとは違い、髪を高い位置で結び束ねていた。バードイートは避けようとせず捉えた白い衣の蜘蛛を盾にする。それを見て、体を返しバードイートの肩を足蹴にし、白い衣の蜘蛛を引っ張った。
しかし、そんなことでバードイートの腕から奪えるはずもない。その巨体にある力はただならぬものだ。無理に引けば手足が千切れる。すると白い髪の蜘蛛は自分の指に噛みついた。するとすぐに口を離し人差し指と親指輪を作り、口に添えた。それを見てバードイートは舌打ちをし、捉えていた白い衣の蜘蛛を手放し、その場から立ち退いた。同時に二人の体も落下した。
そこに細い糸が流れ込み空を切った。
白い髪の蜘蛛は地面に着地すると口から何かを吐き出した。
「すみません」
助けられた蜘蛛が言うと、白い髪の蜘蛛は立ち上がった。
「最善を尽くせ」
それだけ言って軽くほほ笑むとすぐにその場から立ち去った。
それから数分経った。ずっと見ているせいか落ちてくる枝は一切ぶつかってこないと気付く、そんな余裕すら出てきた。枝が落ちてきそうになるとどこからともなく蜘蛛の糸が飛んできて弾き飛ばされる。
それを、目の前で何度も見た。
どうやら、生贄とはいっても守られているようだった。
先ほど聞こえた「手荒なことはするなと言われている」という言葉はきっとそれを意味している。
動き回る音が減っていき、数人になっているのがわかる。蔵之介から左上あたりに戦う二人、それとは別に蔵之介から枝を払ってくれる一人。三人いる事は容易に想像できた。
しかし僕はいつまでこの状態なんだろう?
動けない状態が続き、手足がしびれてきた。
時間がたち、緊張がほぐれてくるとお腹がすいてくる。蜘蛛の世界の食事って人間と同じなのかな? と頭をよぎった。普通の蜘蛛が食べるのは虫だけど、蔵之介はそんなものは食べれない。囚われて生活したら何を食べて生きていけばいいんだろう? でも、蜘蛛が獲物を勝ち取ったらそれは捕食対象だ。やはり食べられてしまうのだろうか?
そんな想像をしていると、再び蜘蛛の糸が飛んできて、蔵之介をとらえていた網が切られた。
いきなりの事で受け身を取れず背中から地面に落ちた。
「いっ……けほけほ!」
背中を強く打ち、声を出せずむせた。起き上がると後ろから手を脇に回され体を持ち上げられた。
「うわぁ!」
そのまま抱きかかえ上げられ、木の上へ運ばれる。
「お、落ちる!」
蔵之介は目を閉じ、思わず体を持ち上げてくる相手の肩にしがみついた。
「信じて」
透き通ったような声。声の主を見ると先ほどの白い髪の蜘蛛。長い髪に白い服。先ほどは目の錯角かと思ったが、やはりその姿は暗闇の中でも輝いて見えた。
「綺麗……」
蔵之介はそうつぶやくと、白い髪の蜘蛛はほほ笑んだ。
木の上まで運ばれたが蔵之介は白い髪の蜘蛛から目が離せず、見つめあった。
「ありがとう」
白い髪の蜘蛛はそういって、蔵之介は唇を奪われる。
これはキス?
突然の事で抵抗が出来なかった。
「んっ!?」
蔵之介は驚くが、白い髪の蜘蛛は気にせず、すぐさま居た木を蹴りその場を後にする。同時に唇が離れ、別の木に飛び移り振り返った。
「戦ってる最中にいちゃつくなんて、ずいぶん余裕だな」
追ってきた相手が伸ばした糸が、先ほどまで居た枝に絡みついた。その糸の主はバードイート。先ほどの戦いを見ていて分かったが、この二人は強い。バードイートは物理的な力で、白い髪の蜘蛛は何か別の力。
「戦ってる最中に生贄を傷つけようとする君に言われたくはないね」
肩にかかる白い髪を後ろへと手で流し、蔵之介を背中側へ回した。
蔵之介は足元を見て、とっさに白い衣にしがみつく。
「あの、ここ、高い……」
蔵之介が言うが、白い髪の男は聞いているのかいないのかバードイートと対峙している。
蔵之介に見向きもしない。下を見ないようにし、強く男の服を掴む。落ちたら確実に死ぬ。
高いところは苦手で、足が竦みそうになるが必死に堪えた。
バードイートは歯を見せ厭らしく笑う。
向かってくるバードイートは巨体。それも人の形をしていて身長は二メートルを優に超えている。
その巨体は軽々と木を足蹴に飛び、二人の木の元へ跳んで来る。
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