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☆二章六話
今では体調がいいときにだけ座学へ足補運び、それ以外は部屋で安静に過ごしていた。お腹に子供が何人もいる、それを考えるとこの体の重さも理解できる。
海と走り回っていたかいがあって、体力も筋力もあるせいか生活はそれほど苦でもなかった。それが無かったら今頃起き上がることも出来なかったかもしれない。
「本でも読みましょうか?」
「うん、読んで」
ゼノスに言われ、蔵之介は嬉しそうに頷いた。
ここにある創作された本は全てがファンタジーの様に感じられ面白かった。海は蔵之介が外に出ない日は、部屋の隅で筋トレをして過ごしていた。そのためにスペースも蔵之介が用意して、海が筋トレ用の道具を置いていた。蔵之介は海が居るだけで心強かった。
さらに二週間ほど経つとお腹はさらに膨らんでいた。
「お腹が重い……腰痛い……」
何人お腹に居るのか分からないけど、お腹がかなり重くなってきていた。十人とヴィンター師は言っていたが
お腹を抱えて座っているのがやっとだった。
「これいつ生まれるの?」
蔵之介が聞くとゼノスは蔵之介の腰をさすりながら答える。
「種類や時期によって違いますが、母体のお腹が窮屈になると出産が始まる場合もあります」
「母体って、前の人もやってたんだよね? その時はどうしてたの? 何人くらい産まれてくるものなの?」
腕と頭をベッドにあづけ座り、ただゼノスに腰をさすってもらうのが蔵之介には楽だった。
「はい、最大九十五人の子供を生んだことがあるようです。その時は子供が育ち切らず出てきてしまったので、生き残れる個体のみが残りました。その人数でも八十七人は生存したようです。その子供たちは母体から出た後は父親の治癒糸の中で過ごし、子供がスリングの状態になるまで監視のもと成長を待ちます」
「九十五人……想像もできないよ。それに生んだのに死んじゃうなんて」
苦労して産んでも生き残れない。自然の掟とはいえ、悲しい。
「じゃあ十人くらいならなんとかなるものかな?」
「大丈夫だと思います。蜘蛛同士でも好んで同じように愛する人の中に卵のうを作る行為をし、出産をするものが居ます」
蔵之介は頭を上げ、頭だけゼノスに向けた。
「産む苦しみが必要ないのにわざわざ出産するの?」
「はい。多分人間の本能的なものなのではないかと研究され言われてます。それを味わい子供を育てる方が愛情が持てると言う方が一定数いらっしゃいます」
「そっか、好きなもの同士なら交わりたくなるんだね。ビアンカも俺に触られるのは好きみたいだし」
蔵之介はお腹をさすってため息をついた。不満があったり、嫌というわけではない。ただお腹が苦しくため息が出てしまう。蔵之介はベッドに寄り掛かかり目を閉じた。
「辛いですか?」
「うーん、なんかけだるい」
吐き気などはないが、体が重いせいで必要以上に動く気になれなかった。妊娠って大変なんだなと、ぼんやり考えていた。でも自分にはゼノスが付きっ切りで側にいてくれるし、お風呂も着替えも手伝ってもらえる。最初はゼノスに全部任せるのが違和感だらけだったけど、今となってはかなり助かっている。
歩きずらい場所では運んでもらったり、生活でやりずらくなったことが増えると海も助けてくれていた。優しくされると蔵之介はたまに泣きそうになって、その度に海に笑われていた。
「ゼノス、ありがとう」
「お礼なんて必要ありませんよ」
ゼノスは笑顔で言う。最初に必要ないと言われてから、ゼノスにお礼をいうことは無かった。けど今は無性に
「言いたくなっただけだから、気にしないで」
「海もありがとう」
少し離れたところでハンドグリップを使い握力を鍛えていた海は「ああ」と短く返事をして顔をそらした。その耳が赤いのは見て取れ、照れているのが分かる。
蔵之介はベッドに頭を乗せ再び目を閉じた。
さらに数日が経ちその時が来た。
「ん!?!!?」
蔵之介はソファーにすわり背もたれに寄り掛かっていると、突然声を上げた。
「どうかしましたか?」
隣で本を読み聞かせていたゼノスは、何事かと本を閉じた。海も気付いて、腕立ての状態からすぐに立ち上がった。
「なんか、お腹の中が変かも」
「出産が近付いてるのかもしれません。ビアンカ王をお呼びします」
「俺が呼んでくる」
と海が言ってすぐさま部屋を出ていった。
ゼノスは蔵之介の隣にかがみ、お腹に触れ確認する。
「動いてますね」
「うん、なんかもぞもぞしてて気持ち悪い」
蔵之介は涙目で、口元を抑えていた。
「大丈夫です。すぐにビアンカ王が参られます」
ゼノスが蔵之介の背中をさすっていると、ドアがノックされすぐに開いた。
「蔵之介、産まれそうなのか?」
ビアンカはすぐに蔵之介の元に駆け寄ると、蔵之介は頷いた。
「よくわかんない。気持ち悪い、お腹の中でずっと動いてるんだ」
蔵之介は涙目で言った。
「すぐに準備する。ピーと海が今手配をしてる」
ビアンカはそれだけ言うと、蔵之介の背中と膝の下に腕を回し持ち上げた。
ゼノスと共に部屋を出て出産用に準備していた部屋に向かった。
部屋に入ると、中は畳が並べられた広い部屋だった。部屋の四つ角には角を取るように斜めに台座が張られている。入ってきた方向以外の三方向には特殊な蜘蛛の形をした置物が置かれている。中央には太い縄がぶら下がっていいた。
「この部屋は安産祈願の為に作られた。守られた場所だ」
ビアンカは部屋の中央まで行き、紐の横で蔵之介を下した。
準備を始めているオレンジ色の衣の人が何人かいて、お湯が入った浅い桶がいくつか置かれていた。
「ここで生むの?」
蔵之介は不安そうにビアンカを見上げる。
「ああ。蔵之介は紐に捕まって、体は起こしたままでいるんだ。そうしたら子供は降りるように出てくる。蔵之介は子供が出やすいように体を正しているだけでいい」
蔵之介は膝をついて座り。紐を抱きかかえた。掴み寄り掛かると軽く揺れはするが上下とも天井と床に繋がり安定していた。
「ベッドとかで産むのかと思ってた」
蔵之介は紐に身を預け体を揺らした。先ほどまであった気持ち悪さが落ち着き、今は冷静でいられた。
「産まれてくる人数が多い。一人目が出ればその後連なるように出てくることが多いんだ。寝ている状態ではそれが滞ってしまい、体に負担がかかる。この方が早く終わり、負担が少なくて済む。辛くなることもあるかもしれないが、頑張って欲しい」
ビアンカに言われ蔵之介はしっかり頷いた。再びよくわからない気持ち悪さがこみ上げ蔵之介は口元を抑える。
蔵之介はただ不安で、この後どうなるのか想像もできなかった。座った状態で産むなんて大丈夫なのだろうか? 体は持つのだろうか? 痛みは? 蔵之介の頭に疑問がよぎるが、どれも声には出せなかった。
「ビアンカは?」
一緒にいてくれるのだろうか? 蔵之介はそれを言うのはわがままな気がしてそれ以上言えなかった。人間の世界では男性が付き添うのは今でも五分五分だ。それを求めるなんてためらわれた。
「大丈夫、ずっと傍にいる」
蔵之介は片手で縄を掴みながら反対の手でビアンカの服を掴んだ。ビアンカは欲しい言葉をくれる。
ビアンカの服を掴むその手は震えていた。震えさせたくて震えさせてるわけではない、恐怖で勝手に震えてしまう。体の中で何かがうごめく感覚。本来ならいるはずのないものがそこにいる。感じたことのない震えがさらに不安を煽った。
ビアンカは蔵之介の様子を見て、蔵之介の左肩から背中を撫で右肩への手を動かした。
そこには服の上から糸が張られ、暖かさが増した。
「深く深呼吸して」
ビアンカに言われ、蔵之介は深呼吸を繰り返した。ビアンカの手は背中に触れる。
じっと耐え深く呼吸を繰り返す蔵之介を傍でビアンカは見守っていた。
「蔵之介が不安がると子供たちも不安になってしまう。大丈夫、安心して僕はここを離れたりはしないから」
「うん、離れないでね」
蔵之介は言って、安定した呼吸を繰り返した。
ゼノスはジュブナイルとのことで室内には居なかった。かわりに海が立ち合い、少し離れたところで立ち、怪訝そうに蔵之介を見ていた。ピーは周りへと指示を出し忙しそうにしていた。
蔵之介とビアンカのいる中央周りに屏風が交互に並べられ、周りの人たちは見えなくなった。
「服をめくるよ」
ビアンカはそういって、蔵之介の衣の裾をめくり腰に巻きつけた。下半身に履いていたズボンを下され脱いだ。そしてお尻の下に座布団を置かれた。
「この座布団に産み落とすんだ。そうしたら看護師が座布団ごと運んでいく。そして新しい座布団を敷き直す。そして産み落とす。それを繰り返すだけだ」
繰り返すだけだと言われても、清潔感やこんなところを誰かに見られるというのも不安があった。しかしわがままも言っていられない。蔵之介は泣きそうになるのを堪えた。今は泣いている場合でもない。
ここにきてどれくらい時間がたっただろうか。
蔵之介は深呼吸を繰り返し、涙目でひたすら今の状況に耐えていた。陣痛は痛みがあると聞いていたがそれはない様で、それが救いだった。
いつ出てくるのか全く分からないが、お尻の方へ何かが突き進む感覚がある。
汗と涙が自然と溢れた。テレビでみたことがある出産シーンのように助産師は居ない。どうすればいいのか全く分からない。ただひたすら、体の中で出ようとする子供の動きに集中した。
急にひんやりとした物が顔に触れる。見るとビアンカが湿らせたタオルで蔵之介の汗を拭いていた。蔵之介はビアンカを見つめるが、何も言えず呼吸を繰り返した。
「大丈夫。無事に終わるから」
ビアンカの言葉に頷き蔵之介は、紐を両手で握りしめた。
突然ぷつりと音を立てた。すると周りで待機している看護師立ちがざわめいた。
ビアンカは蔵之介のお尻を覗き背中を撫でた。
「大丈夫少し出てきてる」
「うん……」
蔵之介は目から涙をぽろぽろ流しそれしか言えなかった。
排便に近い感覚だけど、それとは全く違う。何か異物がじわじわと出てきている。意思を持って。
大きさも人間の子供程ではなさそうだった。しかし、なかなか出てこない。
「蔵之介いきんでみて」
ビアンカに言われ蔵之介はお腹に力を入れ、子供を押し出そうとした。
するとゆっくりと子供は外へと押し出されていく。
それは進むにつれ大きくなり、口が開かれていった。
「んあ、痛い」
蔵之介は初めての感覚に体を震わせた。
でももう少しで子供は出てくる。蔵之介はひたすら深呼吸を繰り返し、痛みに耐えた。ビアンカの触れる手だけに意識を向けた。そうしないと気を失ってしまいそうだった。
「大丈夫、上手くいってる」
ビアンカは蔵之介の背中に手を添えていた。
汗が出るとビアンカが冷えたタオルで拭いてくれて、それが心地よい。
いきんでは休み、それを何度か繰り返すと、一気に粘液の音とともに子供が外へと飛び出した。子供は準備されていた座布団に落ちた。
蔵之介は荒い呼吸を繰り返し、振り返ろうとしたが、ビアンカは蔵之介の頭をなでそれを止めた。
「今はまだ見ない方が良い」
ビアンカに言われ、その意味が分からないがすぐに次の子供が出てくる感覚が続きそちらに集中した。
一人目の子供はすぐに運ばれ桶にためられたぬるま湯で洗われる。
産声などは聞こえない。ちゃんと生まれたのだろうかと蔵之介は不安になるが、ビアンカを見るとほほ笑んでいた。
「大丈夫元気そうだった」
ビアンカに言われるが、それに返事をしている余裕などはなかった。安定した呼吸を繰り返そうと蔵之介は必死に集中した。他にこの不安を紛らわす方法が分からなかった。
「んうっ」
蔵之介は声を漏らし、体をこわばらせた。先ほどとは違い、勢いよく子供が出そうで少し堪えた。そして子供が出やすいよういきむと、子供がゆっくりと出てきた。ぐちょりと音が聞こえる。
「大丈夫二人目も無事だ」
ビアンカに言われ、深く呼吸をくりかえす。
蔵之介は反射的に後ろを振り返った。そして目に入った物を見てビアンカが一回目に止めた理由を理解した。
座布団の上には黒い手のひらサイズの塊が落ちていた。それは少しずつ動き足がその場でうごめいている。人の形はしていなかった。
「っ!!」
蔵之介が声にならない悲鳴をあげ、ビアンカは慌てて蔵之介の頭を抱きしめた。
「大丈夫、あれで問題はない。ちゃんと元気に産まれている」
人の形をしてなかった。
蔵之介は体を震わせた。
俺は何を産んでいるんだろう? 体内にあんなよくわからないものがいたの? 今もまだ体内にあんなものが……
蔵之介は息を荒くする。血圧が上がりどうにかなりそうだった。
ビアンカは様子の異変に気付き、蔵之介の胸と首に治癒糸を張り巡らせた。そしてビアンカに背中を撫でられると呼吸が落ち着き蔵之介は目を閉じた。
「大丈夫か? 蔵之介」
ビアンカは心配そうに蔵之介の顔をのぞき込む。蔵之介は涙をこぼした。
こんなの、こんな感覚知らない。どう言葉にすればいいのか、どうすればいいのかも分からない。
蔵之介は頷いた。
その後もそれが繰り返された。一人目が出るとそれに連なり出てくるというのは本当で、あとは早かった。九人目までそれが繰り返され、最後の一人と出てくるのを待っていた。
しかしなかなか出てこない。
「蔵之介、すこしお腹の中を調べるよ」
とビアンカが蔵之介のお腹に触れ、目を閉じた。蔵之介は返事も出来ず、意識がもうろうとしていて紐を掴んだまま座っていた。
ビアンカの手に暖かさを感じ、蔵之介の意識が途切れた。離れて見ていた海がそれに気づきとっさに走り寄って、蔵之介を支えた。
「そのまま」
ビアンカはそういって、蔵之介のお腹に手を当てていた。一分ほど経ち、ビアンカは蔵之介のお腹から手を離した。
「気配はない。これで終わりか。まだ卵の中に居るのかもしれない」
ビアンカはそういって、蔵之介の疲れ切った顔をから汗を拭きとった。
「あちらのベッドへ運んで少し休ませよう。産まれる様子が無ければ部屋へ連れて休ませる」
「はい」
ビアンカに言われ、海が蔵之介の服を正し、部屋の隅にある簡易なベッドへ運んだ。ビアンカは蔵之介を海に任せ、子供の元へ向かい一人ひとり確認した。
それは全て蜘蛛の形をしていて、水の入ってない桶の中を元気に歩き回っていた。
看護師達は子供たちが逃げ出さないよう見張り、出てくるとすぐに桶の中に戻す。それを繰り返していた。「元気すぎて困ります」と看護師たちが言って、周りもなごみ笑っていた。
ビアンカは子供たち全員確認し終えると、桶の上に治癒糸を張り、子供が出られないようにした。
しばらく子供たちは好奇心で糸と桶の中を歩き回っていたが、糸にくっつくとさかさまのまま動かなくなった。
「治癒糸で寝たようだな。監視は続けてくれ」
ビアンカはそういって蔵之介の元に戻った。ベッドに横たわる蔵之介は意識を取り戻し、うっすら目を開けていた。
「蔵之介。子供は九人生まれた。全員元気に走り回っているよ」
ビアンカが蔵之介に言うが、蔵之介の呼吸は浅くビアンカと目を合わせようとしなかった。
「さっきから様子が変だ。声をかけても返事がないし、手を握っても握り返す様子もない」
海は蔵之介の手を握っているが、握られた手は力が入らずそこに置かれたままだった。
「心音は安定している。むしろそれがおかしいのか?」
ビアンカは言って、蔵之介の胸元の糸を確認する。
「子供をあれだけ産んだんだ。動揺しててもおかしくはない。出血も少ししてるし、それを治すために血流も上がるはずだ」
海に言われ、最悪の想像がビアンカの脳裏をよぎった。頬から冷や汗が流れる。
「治癒糸で体の回復を促そう」
ビアンカが蔵之介の体に糸を張ろうとすると海がその腕を掴んだ。
「蔵之介は大丈夫なんだろうな?」
海に睨まれ、ビアンカはほほ笑んだ。
「大丈夫だ、信じて」
海はしばらくビアンカを睨み、手を離した。ビアンカは蔵之介の体に治癒糸を張り巡らせると、蔵之介も安心したのか目を閉じ眠りに落ちた。
「海、ヴィンター師を呼んでくれるか? ヴィンター師にも蔵之介の状態を確認してもらいたい」
「分かった。すぐに連れてくる」
海は部屋を出ていった。
ビアンカはベッドに座り、蔵之介の頭を撫でた。
「お疲れ様。よく頑張ったな」
ビアンカが言うと、蔵之介は目を少しだけ開けて、ビアンカに目を向けた。しばらく見つめ合い、蔵之介はゆっくり目を閉じた。
蔵之介の心音は驚くほど安定している。
「ビアンカ王」
ピーが歩み寄る。
「医師に確認をお願いしますか?」
ピーの後ろに医師が立っていた。ビアンカは頷き立ち上がり避けると、医師たちが蔵之介の体を確認した。「状態は安定している。何の問題もなさそうだ」と医師は告げた。
ビアンカも安心して頷いた。そして周りの者たちに声をかける。
「ここに立ち会ってくれた者たち、協力してくれた者たちには心配をかけた。暗黙を守り手助けしてくれたことには感謝する。ここまでの礼は後日しっかりさせてもらう。今後も子供たちのことを一緒に見守っていて欲しい。よろしく頼む」
ビアンカの類い稀な感謝と敬意に、そこにいた者は膝をつき頭を下げた。ビアンカは蔵之介を優しく抱き上げ、部屋へと運んだ。
ビアンカは蔵之介を部屋のベッドに寝かせると、ベッドに座る。ずっと外にいたゼノスは心配そうに蔵之介を見ていた。
「蔵之介は大丈夫だ。子供も九人産まれ、全員元気だ。ゼノスにもここまで蔵之介を支えてくれたことに感謝する」
ゼノスは驚き、膝をついて頭を下げた。
「身に余る光栄です」
ビアンカはほほ笑み、蔵之介に目を移す。蔵之介の頬を撫で、唇を重ねた。
暖かい春の風の暖かさから、かけていた布団を蹴とばしていた。しかし、朝の空気はまだたまに冷たさがあり、冷えから目を覚ました。掛け布団をひっぱり肩まですっぽり埋まるが、外の明るさに気付き細く目を開けた。カーテンから明かりが漏れ、光が当たる場所は白く輝いていた。
蔵之介は起き上がり、トイレに向かった。体を動かせば寒くなくなる。用を足しながら既に冷え始めた足をこすり合わせた。
今日も一日が始まった。
この暮らしが始まって数日しかたっていない。その前の記憶はほとんどなかった。俺はこの街で生贄とされたが、五月十四日俺は役所の敷地内で倒れていた。すぐに病院へ運ばれ検査を受けた。体には特に問題なしとのことだが、大人たちは何やらざわついていた。
体の中をいじられている可能性があるとか、体内に蜘蛛の糸があったとか。蔵之介には聞こえないよう話しているようだったが、蔵之介は物陰にかくれ聞いていた。
その後、なぜ倒れ居ていたのか、なぜそこに居たのか、何があったのか。問われたが全く記憶がなかった。どこか森の中に居たような気がする。そのイメージが頭をよぎる程度だった。
記憶のない俺は入院中に生贄にされ、森の中へ向かったのだと聞かされた。両親はというと既に引っ越したあとで調べても見つからなかったとのことだった。蔵之介を生贄として差し出した対価として手に入れた小切手を盗まれ。そして、家のローンを払えなくなり、蔵之介を失ったことで両親は破局したらしい。
両親の顔すら覚えていない。何の執着もなかった。他に行く当てもなく一時的に区役所に務める一人の男の元に引き取られることになった。
家事くらいは手伝えという条件で俺はここに住まわせてもらっている。
いつも通り、朝食を作る為に台所に立った。作れるモノと言っても大したものではなく、ご飯を焚いて、卵を焼いて、添え物の野菜を炒めか温野菜を作り、ベーコンかウィンナーを焼く。もしくはパンにバターを塗ったり、ジャムを塗ったり。そのループで作っていたが、男は文句を言わず毎日完食して仕事に出ていった。
男が出ていった後、蔵之介は洗い物をして、洗濯ものを干し、カバンを持った。そして学校へ向かう。
学校では平凡な日々だった。少し遠巻きに見るものもいるが、特に話しかけてくる人もいない。友達と呼べる存在は居なかった。それでよかった。特にさみしくもなく、ただ生きてるだけでいいなら楽なものだ。
帰りの時間になると、部活もせずに家に向かった。一応俺は受験生らしいが、今の所高校に行く予定はない。突然の居候の身で、高校の学費を払ってほしいなんて言えなかった。中卒で働くしかないのだろうと蔵之介はぼんやり考えていた。
家のことを任されてる身として遊んでいる暇もない。帰ったら掃除をして、風呂とトイレも掃除して、洗濯ものを取り込んで、そして夕食の買い物と料理。やることは多かった。
窓をあけ、部屋の中に掃除機をかけていく。全体的に掃除機をかけ終えると掃除機のフロアノズルを外し部屋の隅っこのごみを吸っていた。そこに急にでかい蜘蛛が飛んできた。
「うわっ」
突然のことに驚き思わず蔵之介は蜘蛛に掃除機を向けてしまう。するとズボッと音を立てて掃除機の中に蜘蛛が吸い込まれていった。
「あ! うわ! 海!」
吸い込まれた蜘蛛は青かった、思わずその名前を叫び掃除機のスイッチを切って掃除機のパイプをのぞき込む。しかしそこに蜘蛛の姿は見えなかった。
「どうしよう中まで吸い込まれちゃったかな?」
慌てて、掃除機の中を開きハサミで紙パックを切り開いた。しかしそこにも蜘蛛は居なかった。
「あ、あれ?」
蔵之介は困っているとパイプの先から蜘蛛が顔を出し、飛び出した。蔵之介を見るとその場で元気だとでもいうかのように、くるくると歩き回った。どうやらパイプの途中で踏ん張ってとどまっていたらしい。
蔵之介は安心し、ペタンとその場に座り込んだ。
「よかった。元気そうだね」
蔵之介はその蜘蛛をまじまじと見て、手を伸ばした。その体についたほこりをつまんで取り覗くと、蜘蛛はぴょんぴょん跳ねてカーテンの上まで登って行った。
「海だよね?」
そう呼んでも何の反応もなかった。違うのかな? と思い首を傾げる。
掃除機の紙パックを切ってしまったので新しくつけ直し、掃除の続きを始めた。
「海ってなんだっけ?」
掃除機を見て天井近くにいる青い蜘蛛に目をやるが、海はそこでじっとしていた。大きい蜘蛛だが、害はなさそうなのでほっとくことにした。もしかしたら男が帰ってきたら殺そうとするかもしれない、それまでには追い出さないとと考えながら蔵之介は買い出しに出た。
スーパーがいつもより込んでいて、安売りもあり、レジに想像以上の行列が出来ていた。時間がかかってやっとの思いでスーパーを出た。時間はかかっても安売りでいろいろ買えるチャンス。それを逃すわけにはいかない。居候の身としては安くお金のやりくりをしなければならない。
両手に大きな袋を持ち、帰宅する。
「ただいまー。重かった……」
蔵之介は袋を持ってキッチンへ向かった。袋をそこにおいて、上着を脱いだ。
「お帰り」
既に帰宅していた男がリビングの椅子に座り、顔をこちらに向けた。
「村田さん、今日安売りしてたからいろいろ買ってきたよ……」
男に言いながらテーブルを見るとそこには海がいた。
「あ、その蜘蛛」
慌ててテーブルに駆け寄る。
「あの、これは。掃除してるときに入ってきちゃったみたいで。ごめん追い出すよ」
蔵之介がテーブルに置いた手に海は歩き、よじ登った。
「問題ない。飼えばいい」
村田はそういって立ち上がった。
「風呂は沸かしたから、先に入ってくる。夕食を作っておいてくれ」
「うん」
村田はリビングを出ていった。手の甲に乗った海をそのまま持ち上げ、背中を撫でた。
「よかったね。名前は海でいいよね?」
蔵之介が言うと海は頷くように首を動かし、手の甲からおりてテーブルに着地した。その後、テレビのリモコンの上で何度かジャンプしてテレビをつけた。そしてテレビの方に向いてそのまま見ていた。テレビは将棋の盤面を映している。
それを見ていた蔵之介は驚いて一瞬言葉が出なかった。しかし将棋を見ているのだと理解し
「変なの」
とつぶやいて、夕食の準備を始めた。
鍋でクツクツと野菜を煮立たせていると村田が風呂から上がり出てきた。
テレビの前のソファに座り、チャンネルをクイズ番組に変えると、海は振り返り不満そうにその場で飛び跳ねた。
「いい運動になりそうだな」
村田が言うと海は諦め、蔵之介のいるキッチンへ向かった。蔵之介は調理に使った道具を洗って片付けていた。
片付け終えると海が居るのに気付きほほ笑んだ。
「そんなところで何してるの? 料理に落ちたら大変だよ」
蔵之介が言うと海は鍋を見てそこから数歩離れた。
蔵之介はカレールーを取り出し、火を止めて鍋に入れた。
ルーが解けるまでじっくり混ぜ溶け切ったら再び火をつけ煮立たせた。それは空腹を誘う香りで作ってる蔵之介も早く食べたくて仕方なかった。
ご飯を皿によそい、出来上がったカレーをかけた。そしてラッキョウを乗せる。それを二皿準備してリビングへお皿を運んだ。
水とスプーンを運ぶと村田は、律儀に「いただきます」と言って食べ始める。
蔵之介も「いただきます」と言って食べ始めるが、目の前で海がじっと見つめてきているのが目に入った。
「蜘蛛ってカレー食べられるの?」
「食べるわけないだろう。勝手に部屋の中の虫を食べるよ。明日は餌を買ってきてやれよ」
「うん、この蜘蛛は俺が世話するの?」
村田怪訝そうな顔をした。
「俺がするわけないだろ。お前の蜘蛛なんだからお前が世話しろよ」
蔵之介はカレーを一口食べてもぐもぐと咀嚼し、飲み込む。
「なんで俺の蜘蛛って分かるの?」
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