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散りかけた桜の木を、公園の電灯が明るく照られている。風が吹けば、数少ない桜の花びらがひらひらと散った。
春を迎えたとはいえ、夜は少し肌寒い。澄香 は腕を擦り、僅かに表情を歪めた。それは肌寒さのせいだけではなく、目の前の恋人の表情に不安を覚えたからだ。
そして、その不安は的中する。
「別れよう、俺達」
静かな夜にその言葉がやけに響いて、ひとり世界の片隅に取り残されたみたいだった。
真っ直ぐこちらを見下ろす恋人の背後で、桜の花びらがゆるやかに舞い散っていくその様子を、澄香は流れる映画のワンシーンのように見つめていた。
浅月澄香 の人生は、順風満帆だった。
黒い瞳に黒い髪、平均的な背丈に少し細身の体。出掛ける時は必ず帽子を被り、羽織る物を一枚持って歩く。これは季節関係のない、澄香の決まりごとだ。
澄香を物語の登場人物に当て嵌めれば、通行人Aがいいところだろう。地味でもないが、派手でもない。
学校の成績も、可もなく不可もなかった。生まれて二十八年、特別ずば抜けて何が出来る訳では無いし、悩みなら幾らでもある。それでも澄香は、今の自分は最高に幸せだと思っていた。
仕事場は、老舗の定食屋“のきした”だ。
それは、東京のとある駅の側にあるホール、歴史の古い“鈴蘭劇場”の裏手にあった。
この店には、幼なじみの依田公一 と共に、学生の頃からよく通っていた。気前の良い店主に、安くて美味しい定食の数々。おまけにご飯はおかわり自由、お金の無い学生には大変有難い店だ。
特に人気のメニューは、厚みがあるのに柔らく、味がしっかり染み込んだしょうが焼き定食や、本当にハムカツかと疑ってしまう程、ぶ厚いハムカツを挟んだハムカツサンドだ。
この店に澄香が勤めたきっかけは、“のきした”の店主、木下源二 、通称“源さん”が店を畳むと聞いたから。この店の味がもう食べられなくなるなんて惜しいと思い、澄香は公一と共に跡継ぎに立候補したのだ。
源二が店を畳むと決めたのは、自身の年齢が八十代に入り、厨房に立っているのが体力的にしんどくなってきたからだという。源二も出来れば跡継ぎをと思っていたようで、澄香達の申し出に驚きつつも、その熱意を受け止めてくれた。
そして修行を経て、公一が料理を作り、澄香は料理の盛り付けやキッチン外の仕事、目の前の劇場への配達等が役目となった。店主は、公一だ。それには澄香も異論はなかった。公一の料理の腕前は一級品で、料理だけではなく、判断力も決断力も彼は備えている、澄香にとっても頼れる友人だ。
今は、先代と変わらぬ味を提供しつつ、新メニューも開発したりしている。
勿論、恋愛面も順調だった。相手は同性で、同性愛者である澄香は、彼との出会いを奇跡のようだと思っている。恋した相手が同性を愛せる人というだけでも奇跡なのに、相手が自分を好きになってくれた、澄香の生まれ持った体質を知ってもそれを受け入れ、告白してくれたのだ。
こんな幸せな事はない、それは澄香の人生にとって初めての事で。
彼は澄香にとって、初めての恋人だった。
「おい、あんまり浮かれて転ぶなよ。ったく、付き合って何年たったよ」
公一は呆れながら言う。目付きは悪いが、話してみればその人の良さに気づくだろう。いつも半袖を捲り上げてタンクトップ状態にし、太い腕を出すのが公一のスタイルで、頭にタオルを被って巻き、腰にはエプロンを付けている。見た目はラーメン屋の厳つい店主だが、この乱暴に見える腕が繊細なフレンチも作れてしまう事を澄香は知ってる。
知っていても、そうと認められないのがなかなか不思議である。
昭和の匂いを色濃く残すその店は、悪い言い方をすればくたびれた、良い言い方をすれば味のある店だ。
白かっただろう外壁の色は所々剥げ、ショーケースの食品サンプルも時代を感じさせる。それは店内も同じで、汚れの染み込んだ壁や手書きのメニュー表が、この店の長い歴史を感じさせる。
だが、テーブルや椅子、テーブル上の醤油差し等、手に触れる部分は綺麗に磨かれており、衛星面では安心して食事を楽しめそうだ。
カウンター席と、テーブル席が六つ、定期的に入れ替わる漫画本や雑誌の棚、公衆電話、お手洗いのドアには何故か花のリースが飾ってある。これも、先代からの名残りだ。
ここは、先代の源二が休みなく続けた店、澄香や公一にとっても思い出の詰まった店だ。女性客はあまり来ないが、学生や男性客で日々賑わいを見せている。
「うるさいなー、良いだろ、最近会えてないんだから」
ムッと表情を歪めつつ、澄香は鈴蘭劇場に配達するハムカツサンドをトレイに詰めていく。
公一と違い、澄香はいつも長袖を肘下まで捲り、腰にはエプロン。頭にはバンダナを被っている。
「それにしても、あんなスター様がなんでお前を選んだんだろうな。女が駄目だって、周りには良い男も居るだろうにさ」
「それは俺が知りたい」
「とか言いつつ、俺が一番だって思ってんだろ?」
「まぁ、ラブラブだからな!」
「はは、自分で言うかね。さっさと行ってこい」
「はーい、行ってきまーす」
鈴蘭劇場では、毎日様々な公演を行っている。
芝居やライブ、イベントやショー。中でも多いのはミュージカルで、聖地とも呼ばれている場所だ。
澄香の恋人、外崎仁 もよくこのステージに立っている。
仁は、ここ数年になって実力が認められ、その甘いマスクも相まって人気が出てきており、メディアにもミュージカル界のプリンスとして取り上げられ、気づけばテレビで彼を見ない日はないくらいだ。
その恋人と、この夜久しぶりに会える事となっていた。
澄香は楽屋への配達を終え、廊下を進んだ所でふと立ち止まる。壁に貼られたポスターには、仁の堂々とした姿があった。
長身で、切れ長な瞳の端正な顔立ち。真っ直ぐ力強い眼差しが、二人の時はとても柔らかに微笑むのを澄香は知っている。
思い出して照れれば頬が緩む。今は大事な公演の稽古期間、公演になれば毎日とは言えないが、今日のような配達の時に顔を合わす事が出来るかもしれない。勿論、公演のチケットは購入済みだ。
「楽しみだな」
浮かれる心が抑えきれない。自然と溢れる笑顔をそのままに、澄香は恋人との逢瀬を夢見て店へと駆け出した。
そして、話は冒頭に戻る。
青天の霹靂とはこういう事かと、頭の片隅で冷静な自分が呟いたのを澄香は感じていた。だが実際の澄香は、現実が受け止めきれず、仁の言葉は流れるように澄香の頭から消えていく。
「…あの、え?な、なんて今?」
「…だから、別れてほしい」
散った桜の花びらが、足元を駆けていく。
静かな夜の公園で、取り残された世界から現実が押し寄せてくる。虫の声と、どこからか聞こえてくる車の走行音、電灯のジリジリとした音、合わない視線。
背の高い仁の照れた顔を、いつもくっついて下から覗き込んでいたのに、その腕の中にはもう居場所がない、それどころか、これ以上近づく事すら許さないと伝えてくる。
その足が、その腕が、合わない視線が。
澄香はぼんやりした表情のまま仁を見上げる。かっこいいな、別れ話すら絵になるのか、なんて思えば視界が滲み出し、澄香は咄嗟に顔を伏せた。
「…澄香、」
仁の躊躇いがちの声に、澄香ははっとして、そのまま素早く目を擦ると、何事もなかったように顔を上げた。
「そっか、そりゃそうだよ!俺には勿体ないと思ってたんだ、いやー…そうだよ、うんうん、仁は正しい!」
笑えば笑う程、口を開けば開く程、情けないと、惨めだと気づく、でも止められない。今黙れば、また涙が出そうだ。
澄香は、被っていた帽子をぎゅっと掴む。
別れる時まで女々しいとか、これ以上嫌われたくなかった。
「ありがとう!ごめんな、俺なんかに付き合わせちゃってさ」
「澄香、」
「大丈夫!俺、別れたらきっぱりと線を引けるから!これからはファンとして応援する…くらいは、良いかな」
「…俺、」
「ごめん!今のなし!別に本人に言う事なかったわ!はは、じゃ俺帰るね、本当ごめん、いっぱい迷惑かけて。ありがとう、会えて良かった!」
そう言って、澄香は逃げるように駆け出した。
付き合って二年と少し。もしかしたら、これが人生で最後の恋かもしれない。そう思えるくらい、澄香にとっては大事で、真剣で、宝物のような日々だった。
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