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「最悪だー…」 翌日、店の休憩時間になると、澄香(すみか)は厨房内の椅子に腰かけ、深い溜め息と共に頭を抱えた。 常連客と顔を合わせる度、「疲れてるのか?顔色悪いぞ」と心配され、心配してくれるのは有難い事なのだが、まさか失恋しましたとは言えず、更にはその度に(じん)の顔を思い浮かべてしまい、勝手にダメージを負ってしまう心が憎い。 「大丈夫か?」 「…大丈夫。ちょっと長い夢見てただけ。俺なんかには出来すぎた夢だったんだよ」 「…本当に別れるなんて言われたのか?」 「言われなきゃ、こんなへこんでないって」 「でも、そんな素振り見せなかったじゃん、あの人。なんか理由あるんじゃないか?」 「分かんない。寄るな聞くなオーラ出してたもん」 苦笑う澄香に公一(きみいち)は戸惑いながら頭のタオルを取った。 「…まぁ、あれだよ、うん、他にも良い男はいるって」 「はは、(きみ)ちゃんて慰めんの下手だよな」 「悪かったな。しんどかったら、今日はもう上がって良いぞ、そこまで客も入らないと思うし」 いくら有名な劇場の側にあるとはいえ、通りから裏手にある古い定食屋、この店のピークは昼時だ。常連客も、来る曜日や時間はだいたい決まっているし、昔は無かったが、最近では劇場周辺にお洒落なカフェや飲食店はいくらでもあるので、昼を過ぎれば夜を含めて、あまり客足は期待出来なかった。 「平気、仕事はやるよ。逆に仕事してたい。その方が余計な頭使わなくて良いしさ」 「ならいいけど、無理すんなよ。お前が居ないと店は回んないんだからさ」 「はは、どうだかー。彼女とその内夫婦でやるつもりじゃない?」 「だとしても、ちゃんと雇ってやるから安心しろ」 「うわ、言ったよこいつ」 澄香は笑って、そんな他愛もない話に、心を慰めていた。 仕事が終わり、澄香はすぐに家に帰る気になれず、夜の街へ足を伸ばした。行き先は決まっている、馴染みのカフェバーだ。 “のきした”とは駅を挟んで逆側にあり、その路地裏にひっそりと佇むのは“ロマネスク”という名の店。ステンドグラスを嵌め込んだ黒いドア、その横には立て看板が控え目に置かれ、取り付けられたライトが店名を浮かび上がらせている。 店内に顔を覗かせると、外観は手狭そうに見えたが、店の中は結構広い。少し薄暗い照明、カウンターの中でシェイカーを振るバーテンダー、カウンターから一段下がったフロアにはボックス席が置かれ、その中央にグランドピアノがあり、ちょうど青年がピアノの前に腰かけた所だ。 金色に染まった髪に白い肌、くっきりとした猫のような瞳が印象的で、綺麗な顔立ちをしている。体格はスラリとしていて、白いワイシャツに黒いベストと黒いズボンはこの店のユニフォームだ。ピアノを弾く時は、シャツの袖を丁寧に捲る。その仕草が色っぽいなとつい見惚れてしまうのは、澄香だけの秘密だ。 彼の名前は蛍斗(けいと)、名字はまだ知らない。この店の店員で、時間のある時や客からの要望を受けた時、こうしてピアノを弾いている。 蛍斗は、接客は丁寧ではあったが、いつもどこか冷めたような雰囲気を纏っていた。だが、そんな青年の奏でるピアノの音色は優しく、かつイケメンである。気だるげな様子もピアノの前では不思議と色気に変わる、見惚れるなという方が無理かもしれない。 その証に、客からは王子様と呼ばれ、蛍斗に会いに来る女性客も少なくないようだ。 「お、タイミング良いじゃん」 そう澄香に声を掛けたのは、西岡真実(にしおかまみ)。彼女も、白いワイシャツに黒いベストと黒いズボンを身に纏っている。この店のユニフォームは、男女共に同じ形だ。 明るい茶色の髪を後ろに一纏めにし、あまり化粧っけがないが派手な顔立ちの女性で、スラリとして背が高く、ヒールを履けば澄香とそんなに背が変わらない。 常連客の澄香は、真実とはすっかり顔馴染みで、気づけばプライベートでも会うようになっていた友人の一人だ。 「今から?」 「うん、席どうする?」 「カウンター空いてる?」 「空いてるよ、いつもの?」 「うん」 「かしこまりー」 店の端にあるカウンターに腰かけながら真実を見送ると、澄香はピアノを振り返った。 店は畏まった雰囲気という訳でもなく、かといってピアノの音色に野次を飛ばすような客もいない。ゆったりと、食事と音楽が楽しめるカジュアルな店だ。 澄香はカウンター席で、蛍斗のピアノを聞くのが好きだった。クラシックは詳しくないが、彼のピアノは不思議と澄香の耳に良く馴染む。最初はイケメン店員の特技に驚いていただけだったが、気づけば彼のピアノの虜だった。 「はい、どうぞ。今日お客さん少ないから、泣いてもいいよ」 出されたカクテルと共に、真実にこっそり耳打ちされ、澄香は肩を跳ねさせた。 「な、なんで…!」 「目がパンパンだもん。愚痴なら聞いたげよっか?」 「…ありがとう、でも大丈夫」 「そ?イケメンが良いなら呼んで来よっか」 「もー、そういう店じゃないだろ?」 「あはは、冗談冗談、ゆっくりして行って」 ぽん、と肩を叩かれ、澄香はカウンターに突っ伏した。 真実は公一同様に、澄香の性癖を知る友人の一人だ。酔いの弾みでうっかりカミングアウトしてしまったのだが、真実はそれを普通の事として受け入れてくれた。 理解してくれていると分かっているから、冗談にも温もりを感じる。 なんで皆、こんなに優しいのだろう。 その優しさに、また涙が溢れそうだった。

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