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その後、澄香 は自宅に帰ったが、昨日はせっかくの休みだというのに何も手につかず、一日中、蛍斗 との関係について頭を悩ませ終わってしまった。
そしてその悩みは引き続き、今に至る。
「なんだかあれだな、スターの次は王子様って、ある意味モテ期だな」
「もー、違うから。てか、通行人Aには勿体ないよ」
「何だよ通行人って。そしたら俺は通りすがりのヤンキーか?」
「はは!でも将来絶対ラーメン屋の店主になるんだよ!」
「何でよ、それなら定食屋にしてくれよ」
笑う澄香に公一 は少し安心して、それから「お前はいつも自分を下に見すぎだ」と、その頭を小突いた。優しい拳に、胸が温かくなる。通行人Aでもこんな幼なじみがいるなら、人生捨てたもんじゃない。
「俺が劇場の配達に行こうか?」
「…ううん、仕事だもん大丈夫。さっさと帰ってくれば良いんだし」
「…こんな事なら、撮影受けなきゃ良かったな」
公一の言葉に、澄香もそうだったと思い出す。
今回の公演の宣伝の為、仁 がバラエティー番組に出演するのだが、それが、馴染みの店にタレントが行ってご飯を食べるというもので、その馴染みの店に“のきした”が選ばれたのだ。
「まさか、お前が仁と別れて拗れるとは思ってなかったからさ…」
この話が来た時は、澄香だってまさか仁と別れているとは思っていなかった。仁だって、きっとそのつもりはなかったのだろう、そう考えると、仁が心変わりしたのは最近の事となる。
恋人の心変わりに全く気づかないで浮かれていたなんて、自分が情けなくて、澄香はまた落ち込みたくなった。
「店主の公一が居れば大丈夫でしょ?俺は厨房から出なければさ」
「…まぁ、そうか、そうだな」
公一に心配かけまいと、澄香は笑顔で頷いた。
それから、スマホを確認する。一昨日、マンションに向かう道中で蛍斗と連続先を交換したのだが、一日経っても蛍斗から連絡はなかった。家の鍵は大丈夫だったろうか、心配だが、こちらからはどうにも連絡しにくい。
それに、丸一日空けて考えてみると、もしかして蛍斗にからかわれただけではないかとも思えてきた。それならそれで良い、澄香にとっては、正直その方が良かった。
元を辿れば、蛍斗と付き合うと啖呵を切ったのは澄香だ、身勝手だと思いつつもそんな事を考えていたのだが、そう思っていられたのはその日だけで、翌日からは毎日のように蛍斗から連絡が来るようになった。
電話やメールのやり取りだけの日もあれば、デートのお誘いの日もある。
デートといっても、会うのは決まって夜で、蛍斗の家だった。そしてそれは大体、仁が家に帰ってくる前だ。最初は偶然かと思ったが、まるで仁の帰りを見計らうかのように呼び出されると、さすがに嫌気が差してくる。
そして、これには何か意図があるとしか思えなかった。
お試しのお付き合いが始まってから二週間、この日もまさしくそうだった。仁は玄関に澄香の靴があると分かると、リビングには入らず、自室に入ってしまう。澄香が気まずさに蛍斗の顔を見ると、蛍斗は上機嫌で、まるで仁に見せつけているのではと思う程だ。付き合うといっても、澄香が嫌な事はしないという約束だから触れ合う事もない。それはいいとして、会っても大して喋る事もなく、ただ二人で黙って映画やテレビを観ている。その時の蛍斗は大体心ここにあらずで、仁が帰ってきた時だけだ、彼が楽しそうに話し出すのは。
明らかに、何かある。仁への当てつけか何か知らないが、あまりいい気はしない。
「…なぁ、今度は外で会おうよ。俺の家でもいいし」
「どうして?俺はうちで良いですけど」
「俺が嫌なんだよ、もし嫌ならいいよ、別れよう。どうせ俺の事好きじゃないだろ?」
「そんな事ありませんよ、何か機嫌悪い?」
思い出したように優しい顔をして、慰めようと伸ばしてくる蛍斗の手を払う。
「兄貴への当てつけか俺への当てつけか知らないけど、もう嫌なんだよ!大体お前、仁を忘れる為に使って良いって言ったじゃん!こんなんじゃ忘れられる訳ないし、ここに居るのも苦しいし、俺はお前の道具じゃない!」
立ち上がって出て行こうとする澄香を、蛍斗は慌ててその手を掴んで引き止めた。
「待って!分かった外で会おう、それなら良い?」
「嫌だ。お試しはもう終わりだ、もう会わない」
「なんでよ、このままじゃ、ずっとあいつの事を引きずったままだよ?」
「そんなのお前に関係ないだろ!放せよ!」
カチャ、と仁の部屋のドアが開く音がして、たまらず澄香は蛍斗の手を引いて玄関を飛び出した。
「ちょっと何?」
蛍斗は迷惑そうな顔で澄香の顔を覗き込んだが、その表情にはっとした。澄香は唇を噛みしめ、必死に涙を堪えているようだった。
蛍斗は戸惑いつつも、その体を抱き寄せた。澄香は抵抗しようとしたが、涙を見られたくなかったのか、抵抗を早々に諦め、されるがままだった。
「ごめん…今度どっか連れて行って」
「…え、なに、俺が連れてくの?」
「どっか行きたいって言ったの、あんただろ。俺、年下だし」
「…分かった、俺もごめん」
「…ううん」
その腕に抱き寄せられれば、意外としっかりしたその体に、思わず寄りかかりたくなる。
一体、蛍斗は何を考えているんだろう。いや、自分もだ、どうしてこの手を突き放せないのか、今は自分の事も良く分からない。
ただ、それでもこうして抱きしめてくれる温もりに、ほっとしてしまっている。
混乱する思いを宥めるように、澄香はぎゅっと目を閉じると、そっと蛍斗の肩にその頭を寄せた。
あんなに綺麗で繊細なピアノを弾く手が、どこか躊躇いつつ頭を撫でる。初めて犬の耳を晒した時よりもぎこちない手つきに不思議に思ったが、好きでもない相手にごめんねと思いつつ、澄香は蛍斗の仮の優しさに甘え、消えない傷口に目を背けた。
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