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「…仁 の事、ショックだったんですね」
澄香 は、気持ちの変化で特異体質の症状が出たと言った。苦笑う顔は無理をしているのは明らかで、それが蛍斗 の胸を騒つかせて、つい言葉が口をついていた。
蛍斗の言葉に澄香は黙って俯き、カップをテーブルに置いた。その横顔が、その尻尾が、しゅんと項垂れているのを見て、蛍斗は目を逸らした。自分で言っておきながらその姿に罪悪感を覚えて、落ち着かない気持ちになる。
「…遺伝って事は、親もそうなんですか?」
「母親は違うよ。…後は知らない」
気を取り直して聞いたつもりが、澄香の口振りはどこか冷めたものだった。蛍斗が不思議に思って逸らした視線を戻せば、澄香は表情こそ変化はなかったが、その尻尾は丸まって小さく震えていた。
無関心なその姿は、平静を保つ為のポーカーフェイスなのかもしれない。本心では、その尻尾が表すように何かに怯えているのだろうか。
これ以上何も聞くなとばかりに背けられた顔、頼りない右肩が蛍斗を警戒するように見つめている。
澄香は怒っているのかもしれない、けれど、その震える尻尾はまるで泣いているみたいだ。
ふと脳裏に仁の姿が浮かび、蛍斗は無意識に奥歯を噛みしめた。
悔しいような寂しいような感情が込み上げて、蛍斗は思わずその手を伸ばしていた。
「え、」
澄香の肩に腕を回して、体をこちらに引き寄せた。澄香は驚いた様子だったが、蛍斗は構わずその体を抱きしめた。
「ちょ!なんだよ!嫌な事はしないって言ったよな!」
澄香は途端に顔を赤くして、その胸を突っぱねようとしたが、蛍斗の腕がその力を強めたので、僅かな距離も埋まってしまう。頬がその胸に当たって蛍斗の体温に触れてしまえば、その香りが胸の奥まで染みて、揺れる心まで包まれてしまいそうだった。
「さっきはさせてくれたじゃないですか」
「それは…」
言い淀む澄香の体を、蛍斗の手がぎゅっと抱きしめる。まるで縋るようなその腕に、逆立てた毛も戸惑って、逆に落ち着いてくるようだった。
「…すみません、無神経でした」
「…いや、俺もごめん」
あからさまな態度は大人げなかった、澄香もその思いから謝れば、蛍斗は安堵したように腕の力を抜いた。けれど、その囲いを解こうとはしない。澄香は戸惑いながらも、その腕の中に留まった。何となく、振りほどけなかった。
「…大体は分かりました。このまま休んでいれば症状は抑まるんですか?」
「うん…」
手持ち無沙汰になったか、それとも慰めだろうか、蛍斗の手は澄香の気持ちを宥めるように、ぽん、ぽん、と優しいリズムを刻む。
先程より緩んだ腕の中は温かく、そんな風にあやすように撫でられれば、澄香の瞼がだんだんと重くなってくる。薬には安定剤が入っているので、そろそろ眠くなる頃合いだ。
「…澄香さん?」
少しずつ体重が預けられてくるのを感じ、蛍斗が様子を窺うが、澄香は目を開けているのも辛くなってきたのか、目を閉じたまま反応もない。このまま眠ってしまうのか、眠る前にベッドに移動させた方が良いかと悩んだが、微睡み始めた姿を見ていたら起こすのも気が引けてしまい、まぁ良いかと、蛍斗はその体を受け止めた。
そうしている内に、白い犬の耳がぴくりと小さく動くので、蛍斗は躊躇いながらもその頭に触れた。無抵抗に頭を撫でられる澄香は、まるで心を許してくれているみたいだ。拒絶されない事にホッとして、そのまま白い耳に触れた。
「…ん、やめて、擽ったい」
「あ、すみません…感覚はあるんですね」
人の耳が消える訳ではないので付け耳のようにも見えるが、犬の耳にも感覚はあるようだ。先程は犬の耳だけでも動いていたし、こちらの耳でも音が聞こえるのだろうか。
耳も気になるが、先程から感情を表すかのように自由に動く尻尾の方も気になる。好奇心が疼いて、されるがままでいる澄香を良いことに、蛍斗はその尻尾に触れた。
「ん、擽ったい…」
もぞもぞと腕の中で動く姿が、何だか可愛らしい。それに、初めて尻尾を見た時から、実はちょっと触れてみたかったのだ。
手でそのふわふわの尻尾の感触を弄んでいれば、澄香は次第に体から力が抜けていくのか、蛍斗のシャツを掴んでいた指にも力が入らない様子だ。
「ね、やめて、俺、今あんまり動けない、から、」
「それも薬のせい?」
「そう、ちょっと眠るようになって…んっ」
鼻にかかったような声が聞こえ、蛍斗は驚いて咄嗟に手を離し、反射的にホールドアップした。
思わずドッと胸を跳ねさせたが、澄香はといえば、薬の成分が行き届いたのか、そのままこっくりと眠りに落ちてしまった。
「………」
自分の胸の中ですっかり夢の中へ旅立った澄香に、蛍斗は暫し固まっていたが、平常心を取り戻そうと深く息を吸うと気持ちを整えた。
「…いや、何やってんだ」
冷静に戻れば、自分に呆れてくる。蛍斗はがしがしと頭を掻くと、澄香の体をそっと抱え上げ自室へ向かった。そして、澄香の体をゆっくりとベッドに横たえる。
犬の耳が小さく震えたのを見て、蛍斗はそっとその耳を撫でると、静かに部屋を後にした。
その後、澄香が目を覚ますと、気づいたら耳も尻尾も消え、蛍斗も側に居なかった。
「…あれ?」
暗い部屋を見渡すと、部屋の角にアップライトピアノがあった。それから、デスク、本やCDが詰まった棚があり、床には雑誌が乱雑に積まれていた。
「…蛍斗の部屋か?」
そんなに散らかってないじゃん、と思いつつクローゼットに目をやると、布の端が扉の隙間から飛び出しており、扉も軽く開いていた。気になって扉を閉めようとそのまま押してみたが、物がパンパンに詰まっているのか閉まる気配はない。これが、部屋が散らかっていない理由だろうか。クローゼットの扉を開けたら物が飛び出てくる想像をして、少し笑ってしまった。
ベッドから起きてカーテンを開けると、朝日が眩しく目に飛び込んできた。どうやらあのまま朝まで眠ってしまったようだ。
蛍斗に世話を掛けたと申し訳なく思いつつ再び部屋へ視線を戻すと、アップライトピアノが目に入る。黒い輝きを放つそれは、大事にされている様子がその佇まいだけで伝わってくるようだ。
そのままそっと部屋の外を覗くが、人の気配はやはりない。廊下を行きリビングに向かう。リビングのカーテンを開けると、テーブルの上に、家の鍵とメモが置いてある事に気がついた。メモには、“帰る時は下のポストに鍵を入れて行って”と書いてある。蛍斗はもう出掛けてしまったのだろう。
澄香は鍵を手に部屋を見渡した。テーブルの上に置かれたカップはそのままで、昨日と何も変わった様子がない部屋に、仁が帰って来なかった事を知った。
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