「最悪だー…」 蛍斗(けいと)とお試しの恋人となった翌々日、“のきした”の厨房にて再び頭を抱える澄香(すみか)を見て、公一(きみいち)も首を傾げた。今は休憩時間で、二人で賄いを食べ終えた所だ。 「元々そいつに目をつけられてたのか？つーか、仁(じん)の弟って今まで気づかなかったのか？」 「仁から弟が居るのは聞いてたけど、あんまり話したくなさそうだったから。弟がいるからって、家に呼ばれる事もなかったし。それに蛍斗もさ、俺が仁と付き合ってた事を知ってたかは分からないけど、俺は店にはしょっちゅう行ってたじゃん。なのに、今までまともに話した事も無かったんだよ？それがなんであんな…」 何より最悪なのは、売り言葉に買い言葉の流れで、思ってもない事を言ってしまった。蛍斗と付き合うつもりなんか無かったのに、心はまだ仁の側に居るのに、何故あんな事を言ってしまったのか、自分で自分が信じられず、澄香は後悔してもしきれないようだ。 仁にはきっと、軽い男だと思われただろう。今更元に戻れないのは分かってはいるが、ますます嫌われたかと思うと、へこんでしまう。 はぁ、と重い溜め息が零れる。もうすぐ仁の舞台が始まる。数日前まで、これから仁とたくさん会えるんだと心踊らせていたのに、今となっては喜んでいた心は沈みに沈み、どこまで行っても底なし沼だ。 一昨日の夜、仁が部屋を出て行った後、澄香は持っていた薬を飲み蛍斗の家で夜を明かした。澄香の特異体質専用の飲み薬は、小さな白い錠剤で、見た目は市販の風邪薬等と変わらない。 その薬を飲めば、澄香の体に突如現れた犬の耳と尻尾も、数時間程で消えるという。 澄香の体質は、“獣憑き”と言われている。 遠い昔にいたといわれる、動物の能力を持った人間、獣人を先祖に持つせいだといわれているが、それは一部で伝説的に語り継がれてきただけで、本当の所は分かっていない。他にも、世界中の人間を集めた中で人体実験を行い、その時変化した遺伝子が受け継がれているのではという都市伝説的なものもあるが、どちらにせよそれを証明出来る物はどこにもなかった。 分かっているのは、起源は不明だが遺伝によって起こる体質の変異だという事と、症状を抑える薬があるという事、症状を完全に無くす事は出来ないという事だ。 動物の耳や尻尾を持つ特異体質の人々は、知られていないだけで世界中にいる。 皆、澄香のように耳や尻尾が生え、耳や尻尾が生えてる間は、その動物の特性が能力として表れるという。鼻が利くとか、夜目が利くとか、足が速くなるとか、当人の限界を超えた力を使う事が出来るという。 澄香は犬だが、人によって受け継ぐ動物の遺伝子は様々で、能力もその動物によるもの、またそれにも個体差はあった。 澄香が獣憑きによって授かった能力は嗅覚だと診断されているが、かといって犬のような抜群の嗅覚があるわけではなく、人である時よりちょっと鼻が効く位の感覚だ。なので、頑張って力を使ったとしても、澄香にとっては何の役にも立たない能力だった。 それに、その能力は自分の限界を超えるものなので、その力を無理に使えば、耳と尻尾が消えて症状が治まった時、反動で体に負荷がかかるという。 なので、耳や尻尾が出てしまった時は、獣の能力を使おうとせずに薬を飲み、症状が治まるのを大人しく待つ人がほとんどだ。 澄香の気持ちが幾分落ち着いて、蛍斗が紅茶を淹れると、二人は並んでソファーに腰かけた。薬を飲んだ後というのもあるが、そうでなくても、さすがにワインを飲む気分にはなれなかった。 澄香はカップを受け取ると、それが仁も良く淹れてくれた紅茶だと気づき、はっとして蛍斗を見たが、蛍斗の様子は何も変わらない。 こんな些細な事で仁を思い出す自分が、何だか情けなくて、恥ずかしくて。澄香は誤魔化すように湯気の立つ紅茶の表面にそっと息を吹きかけ口につける、その香りと味わいが、胸に立つさざ波も優しく包んでくれるようで、少し泣きたくなった。 これはきっと、たまたまなんだろうな。 血は繋がらずとも二人は兄弟なのだと、澄香はぼんやり思い、涙の気配を喉奥に押し込めた。 「薬があるって事は、どこかで処方されてるんですか？そんな体質があるなんて初めて聞きましたけど」 少し落ち着いた様子の澄香を見て、蛍斗は尋ねた。 「うん…一般的には知られないようにしてあるから。こんな奇妙な姿、見せ物の対象だろ？昔は、この体質の人達が、見せ物や人間以下の扱いを受けていたらしい。闇市や、危ない取り引きとかで。それがずっと黙認されてたらしいんだけど、それじゃ駄目だって声が上がって、取り締まりも強化されて、獣憑きの人達は人権を得る事が出来たんだって」 ふぅ、と再び紅茶に息を吹きかけ、澄香はカップに口を付けた。まだ少し熱かったのだろう、ふるっと小さく犬の耳が震えたのを見て、蛍斗は思わずじっとその様子を見つめてしまった。「それからは」と、澄香が話始めたので、慌てて白い耳から目を逸らした。 「それからは、この体質の事は世の中に伏せられてきた。また同じ事が起こらないようにって。そもそも、全国的に知られてる体質じゃなかったし、知ってる人は話すのもタブーになってたみたい。 それと同時に専門医が出来たんだ。指定の病院があってね、俺が行ってる病院も、普通の病院なんだけど、特異体質の症状も診てくれてるんだ」 蛍斗は澄香の話に相槌を打ちながら、澄香の腰元でふわりと揺れる白い尻尾に目を止めた。ふわふわの尻尾は、思わず触れてみたくなるような毛並みだ。この毛並みも個人で差が出るのだろうか、蛍斗がぼんやり考えていると、パタパタと尻尾が揺れた。あっ、と思い視線を上げると、紅茶を飲んでホッとしたように表情を緩める澄香がいた。 なんだかその姿が可愛らしく見えて、自然と口元を緩めていた蛍斗は、そんな自分に気づくと誤魔化すように小さく咳払いをし、さりげなく居ずまいを直した。 「…じゃあ、結構居るんですね、その体質の人って」 「うん、コミュニティーもあるから、そこで情報交換もしてる。アンダーグラウンドでは、危ない薬の売買もあるって話だよ」 「え、その体質用の？」 「そう。病院で処方されるのは、安全に症状を抑えられるものだけど、即効性はないし、ずっと効果が得られる訳じゃない。地下では、より長く強い効き目のあるもの、即効性のあるもの、外見の症状を抑えつつ動物の能力だけ得られるものとかもあるんだ」 「…詳しいですね」 「そりゃ、この体質とは生まれてからの付き合いだから情報は入ってくるよ、使った事ないけどね、副作用が酷いのは目に見えてるし。しかも、その薬だって絶対とは限らない。今みたいに気持ちが影響したり、ホルモンバランスや、生活習慣によって症状が出る周期にもバラつきがあるし、それは医者の薬も同じ」 「じゃあ、薬を飲んだから安心って訳でもないんですね」 「まぁね。症状は抑えられるけど、この体質とは死ぬまで付き合わないといけないから」 苦笑う澄香に、蛍斗はそっと目を伏せた。