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玄関のドアが閉まる音が聞こえ、呆然と立ち尽くす澄香(すみか)に、蛍斗(けいと)は微笑みを向けた。 「澄香さん、(じん)の許可も下りましたし」 伸ばされた蛍斗の手を、澄香は勢いよく払った。 「触るな!」 パシッと乾いた音が、静かな部屋に響いた。蛍斗はさすがにムッと眉を寄せたが、文句を言う間もなく、澄香は床に座り込んでしまった。その肩が小刻みに震えるのを見て、蛍斗は澄香が泣いているのかと思ったが、慰めようとその肩に触れようとして、澄香が泣いているのではないと気付いた。 「澄香さん?」 体を小刻みに震わせ、その震えを抑えようとしてか、澄香はぎゅっと自分の体を抱きしめている。様子の変わった澄香に不安を覚え、蛍斗は澄香の前にしゃがむとその顔を覗き込んだ。 「どうしたんですか?大丈夫ですか?」 「うぅ、見るな、こっち来るな…」 震える体に青ざめる表情を見れば、さすがに心配になる。 「来るなって、どう見てもおかしいでしょ、具合悪い?寒い?」 澄香は顔を俯け、何も答えない。どうして良いか分からず、寒いならば体を温めるべきかと、蛍斗は立ち上がり、とりあえず自室からタオルケットを持ってリビングに戻って来た。 「澄香さん、これ、」 そして、蛍斗は蹲る澄香の姿を見て、思わずタオルケットを床に落とした。 「…え、」 「み、見るな!ち、違うんだ、これは、」 澄香は必死に頭に手を当てて叫ぶが、手だけではそれを覆いきれず、隠しきれていない物が指の隙間から見えてしまっている。 澄香の頭には、白いふわふわのものがあった。三角形の形に近く、頭の形に沿って垂れているそれは、犬の耳に似ている。それだけじゃない、その腰には、丸まった白い尻尾まである。ふわっとした手触りの良さそうな毛並みが、可哀想に震えて縮こまっていた。 「ち、違うんだ…」 澄香は顔を上げず、蹲って頭の耳を抑えたまま、違う違うと繰り返す。 澄香の感情に重なるように動く尻尾に、おもちゃにしては生き物のように生々しく、かといってそれが本物であるならば、それは人間にはそもそも生えていないものだ。 あり得ない目の前の状況に、頭が上手く働かない。蛍斗は呆然としたまま、でも問わずにはいられず口を開いた。 「…それ、何?」 澄香は答えられず、唇を噛む。だが、蛍斗の目には、普通の人間には無い筈のそれが確かに映ってしまっている。澄香は震える体を叱咤してどうにか立ち上がると、そのまま蛍斗の脇をすり抜けようとする。 「ちょっと、」 蛍斗が咄嗟に腕を掴めば、腕を振り払おうとした反動で澄香は転びそうになり、蛍斗はその腰を支えて床に下ろした。 「危ないって、大丈夫?」 「さ、触るなってば!」 再び腕を突っ張ねられ、目が合った。澄香は、怯えていた。泣きそうに、怖いと訴えるその瞳に、蛍斗は戸惑い、落としたタオルケットを拾うと澄香の頭から被せた。 「見てないから、何も見てませんから」 そう言って、蛍斗はそっと澄香の頭に触れる。澄香はびくりと体を震わせた。 「大丈夫、怯える事ないよ。あんたのそれ可愛いだけだから」 「か、可愛い訳ないだろ!そんな事言うのは|仁《じん》、」 タオルケットから僅かに見えた顔、澄香が「仁だけだ」と言おうとした事が分かり、蛍斗はぴくりと手を止めたが、それでもその頭を撫でた。 「…可愛いですよ」 「…気持ち悪いだろ、こんな耳と尻尾」 「驚きはしましたよ、そりゃ。それって…犬ですか?」 「…マルチーズ」 「…ふっ」 「わ、笑うなよ!俺だってどうせならドーベルマンとか格好いい犬が良かったよ!」 「ははは、無理ですよ、あんたじゃ」 「無理とか言うな!俺の何を知ってるんだよ!」 タオルケットを頭から被ったままそれを握りしめて牙を剥かれても、しゅんと項垂れるような白い耳を見てしまった後では、怯えた子犬が頑張って威嚇しているようにしか見えない。 だがそれを言ったら、澄香は更に機嫌を損ねるだろうと想像し、蛍斗は自然と表情を緩めていた。 奇妙には変わりないのに、不思議とその耳や尻尾自体に、気持ち悪いといった印象は沸いてこなかった。この頭に耳があるのも、その腰に尻尾があるのも、違和感を通りこして、それが澄香にとっての当たり前の姿に見えて。一度受け入れてしまえば、困惑や戸惑いも嘘のように引いてしまった。戸惑いがあるとするならば、そんな風に澄香の姿を見て思う、自分の感情に対してだけだった。 「何も分かりませんよ、だから教えて下さい」 「え?」 いつもよりも和らいで聞こえるその声に、澄香は戸惑いながら視線を上げた。 「仁は知ってるんでしょ?あんたのそれ」 「……」 「それなら俺にも教えて下さい」 「…からかってんの」 「どうしてそうなるんですか、言ったでしょ、口説いてるって。あんたの事知りたい」 それにと、蛍斗はにこりと微笑む。 「俺と付き合うって言ったのは、澄香さんだよ?」 「……」 「お試しでも良いから、仁を忘れるまででも良い、俺を使って良いから」 「…なんでそんな事」 「澄香さんが好きだからだよ。澄香さんが嫌な事はしないから、駄目?」 そっと澄香の手を取り、蛍斗は澄香の顔を覗き込むので、澄香は戸惑いに瞳を揺らして、その目を伏せた。 「迷う事ないよ、だって仁があんたを振ったんだろ?あいつの事なんか気にする事ないよ」 あいつの事、そう言う蛍斗の声が吐き捨てるようで、以前、弟と折り合いが悪いと話していた仁の言葉を思い出す。この兄弟に、何があったのだろう。 そんな疑問を思い浮かべていれば、蛍斗がタオルケットの端をちょんと引いた。それにそろそろと視線を上げれば、蛍斗は面白くなさそうな顔を浮かべていた。 「…な、なんだよ、分かってるよ、俺が振られたことは!」 「そこは責めてませんよ。ちょっとだけ、抱きしめても良い?」 「え…、」 その優しく窺うような仕草に、何だか強く拒否も出来なくて、澄香が戸惑って視線を泳がせていれば、否定がないのを肯定と捉えたのか、蛍斗は澄香の体を抱きしめた。その腕が思いの外優しくて、澄香はますます戸惑うばかりだ。 蛍斗は、本当に自分が好きだというのだろうか。 蛍斗の自分への思いを測りかね、仁への思いと、自分の秘密だった体質の事が邪魔をして、どうにも上手く頭が回らない。 どうしたら良い、どうすれば良かった、どうしたいんだろう。 分からなくて、澄香は目の前の優しさに考える事を放棄し、その腕に身を任せた。

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