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その日の夜、のきしたの店仕舞いを終え、澄香(すみか)はひとつ息を吐く。心配症の公一(きみいち)は、自分の家に来るかと言ってくれたが、そもそも同棲している真帆(まほ)に悪い。開店中も何も起きなかったし、大丈夫だと言って澄香は店を出た。 帰り道、スマホが鳴って画面を見ると、そこには(じん)の名前があった。思わずドキリとしながら電話に出ると、心配そうな声が聞こえてきた。 「ごめん、大丈夫だったか?俺のせいで、あんな写真出回って」 「…なんで謝るの、仁が撮ってくれって頼んだ訳じゃないだろ?」 「そりゃそうだけどさ…ちゃんと、騒がれないよう訂正するから」 「ありがとう…なんか変だよな、付き合ってる時はこんな事無かったのに」 言いながら、ふと思う。付き合っている時は、肩を寄せ合って歩いても、二人でいる事を隠そうとしなかった。それでもきっと、周囲には仲の良い友人にしか見えなかっただろう。 高架下で写真を撮られたのは、傍目からは二人の姿が友人同士には見えなかったのかもしれない。壁際に追いこんで身を寄せ合っているなんて、確かに仲を勘繰りたくなるような写真だ。 それなら、仁はどんなつもりであんな事をしたのだろうか。 気になっても、澄香には聞けなかった。 仁と再び共に居られる道があるのかもしれない、そんな期待が押し寄せても、|蛍斗《けいと》の顔が浮かんでしまう。 もう、蛍斗の隣にさえ居場所はないというのに。 「…そっちは大丈夫なの?公演中だろ?」 「大丈夫だよ、問題なくやれてる。みんな報道も笑ってる位だし。だけど、何かあったら連絡してよ」 「うん、ありがとう」 それから当たり障りのない会話を交わして通話を終えれば、寂しいようなもどかしいような感情が押し寄せる。帰り道の高架下に差し掛かれば、そこに仁への思いがまだ残ってる気がして、思わず足を止めた。後ろから車が走り去り、澄香は落ち着かない気持ちで、その場から逃げるように立ち去った。 のらりくらり歩いていれば、暗い路地裏に、細やかなライトが灯る看板が見えてくる。 あのピアノの音が、心の支えになっていた。いや、そんな綺麗なものじゃない、ただの逃げ道だ。自分から別れると言って会いに来るなんて、あまつさえ会えるかもと、心の底で思ってるなんて。 本当に馬鹿だと踵を返そうとした所で、こちらに向かって歩いて来た人物と目が合い、互いに固まってしまった。 「……」 目の前に居たのは、蛍斗だった。暗い上に、互いに下を向いて歩いていたので目の前に来るまで気づかなかった。蛍斗だと思えば、途端に心臓が急かすように鳴り出し、澄香はたじろぎ帽子の端を掴んだ。そんな澄香の反応を見てか、蛍斗はすぐに踵を返し歩き出してしまう。 「ま、待って!」 澄香は追いかけ、思わずその手を掴んだ。すぐに振り払われなかった事に安心しつつ、蛍斗が立ち止まると、澄香は慌ててその手を放した。 「えっと、店に来たんじゃないの?」 「…仕事がある訳じゃないから」 「でも、用があったんだろ?俺帰るから、寄っていきなよ」 蛍斗は小さく溜め息を吐き、澄香を振り返った。澄香は顔を上げず、「じゃあ」と言って踵を返そうとすれば、蛍斗が「待って」と、声を掛けた。澄香が躊躇いつつ振り返れば、蛍斗は気まずそうに視線を泳がせた。 「…もう、用は済んだから」 「え?」 「…あんたに会えるかなって思って来ただけ。どうしてるかなって思って」 「そ、そうだったの」 狼狽える澄香の様子を見て、蛍斗は迷いつつ声を掛けた。 「あんな小さな記事どうってことねぇよ。みんな、真に受けないだろうし…まぁ、分かんないけど」 ぎこちないフォローに笑顔で応えたかったが、上手く笑えなかった。 情けない、蛍斗の前で。ここは、なんて事ないと胸を張らなくては、蛍斗もいい加減呆れるだろう。 そう思っても、顔が上げられない。顔を伏せた澄香の視界に、蛍斗の足元が見えた。あ、と思っていれば、蛍斗がすれ違い様に澄香の手を取り、そのまま歩き出した。 「え、蛍斗?」 「仕方ないから慰めてやる」 「え?」 「俺のピアノは、その内タダじゃ聞けなくなるしな!感謝しろよ!」 ぶっきらぼうな背中に、強引でありながら、躊躇うよう触れる繊細な指先。澄香は、その指先を少しだけ力を込めて握った。 あの週刊誌の写真を見たなら、蛍斗には仁の相手が誰か分かってる筈だ。それでも、こうして手を引いてくれる、まだ、その優しさに寄りかかっていいのかと、甘えてしまう。 「…はは、それじゃ、今からしっかり聞いとかないとな」 澄香の言葉に、蛍斗はほっとしたように頬を緩めていた。 その日聞いた蛍斗のピアノは、いつもより優しい音色で、絡まる澄香の気持ちも否定せず受け止め、寄り添ってくれるようで。 大丈夫だと、背中を支えてくれる。 ピアノの前に居る蛍斗は、澄香の側に居る時と違い、しゃんと背筋を伸ばし、いつも通り爽やかで丁寧で、どこか雰囲気を残す青年だ。これが蛍斗だと思っていたのに、不器用で大雑把で、優しい蛍斗を知ってしまったから、今の蛍斗の姿はまるで別人のようで。 それが少しだけ寂しかった。 蛍斗も、こんなに遠いんだな。 澄香はカウンターに一人突っ伏し、蛍斗のピアノの音に耳を傾けながら、そっと目を伏せた。

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