15 / 41

15

ピアノの演奏が終わり、それから少しして、澄香(すみか)蛍斗(けいと)は店を出た。辺りは暗く、近くの店の店頭のライトがチカチカと揺れていた。 「送る?」 「大丈夫だよ」 「…うち来る?」 「え?」 「…何もしないし、(じん)も居ないし」 「……」 「嫌ならいいけど」 「…い、嫌って訳じゃ」 澄香が戸惑って視線を揺らす中、少し遠くの方から「澄香」と声を掛けられた。落ち着いた、大人の男性の声だ。 振り返ると、背の高い男性が佇んでいた。暗がりの中ではっきりと顔は見えないが、スラリとした体躯をスーツに身を包んでいる。 「お話があります、一緒に来て貰えますか?」 澄香の知り合いかと、蛍斗が澄香を見やれば、澄香は男の姿を目に止めて視線を揺らしていた。その表情からは戸惑いや恐れが感じとれて、蛍斗は不可解に眉間に皺を寄せた。 「…知り合い?」 「ごめん、今日はありがとう」 「え、澄香さん」 蛍斗は歩き出した澄香の手を掴み、引き止めた。 「あの人、誰?」 男は優しげな声で澄香を呼び止めていたが、澄香の様子を見れば、あの男が澄香にとって良い人間だとは思えなかった。その証に、澄香は蛍斗の質問に答えようとしない。その内に澄香の体が震え出し、頭を押さえ出したので、蛍斗は慌てて上着を脱いで澄香の頭に被せると、そのまま澄香を背中に隠した。 「申し訳ありませんが、俺が先約なので失礼します」 「え?」 澄香とスーツの男は同時にきょとんとして、それから蛍斗は「走って!」と、澄香の手を引き再びロマネスクに戻っていった。 「待ちなさい!」 男の焦った声が背中に飛んでくる。店のドアを慌ただしく開けて飛び込めば、騒々しく舞い戻ってきた蛍斗と澄香に、真実(まみ)は驚いた表情を浮かべた。 「なに、何事?」 「裏口通して!」 「は?」 それだけ言い残し、蛍斗は澄香の手を引いて店内を走り抜けて行く、それに続いてすぐに男が店に入って来た。 真実は訳が分からないながらも、トレイを片手に男の前に立ち塞がった。 「いらっしゃいませ、一名様でしょうか」 「客じゃない!彼らに話があるんだ」 「申し訳ありません、店内ではお静かに願います」 申し訳なさそうに真実は言い、横を通り過ぎようとする男の前に体を入れた。物腰は柔らかく丁寧な口調だが、ここを通さないという意思が伝わってくる。 「すまない、彼らに用があったんだ。邪魔したね」 「え、」 男は真実の固い意思を感じ取ったのか、それとも騒ぎを起こすのは得策じゃないと思ったのか、彼はあっさりと身を引いてしまった。ここから押し問答が繰り広げられるだろう、それなら望む所だと、密かに心を決していた真実は、肩透かしを食らった気分だった。 「…あいつら、大丈夫かな」 何をやらかしたのか、それとも巻き込まれたのかは分からないが、追われているとは穏やかじゃない。 真実は心配そうに裏口のドアを見つめた。 蛍斗と澄香は裏口から出ると、細い裏道を走り抜け表通りへと向かった。まだ明るい夜の通りを車が何台も走り抜けて行く。足止めを食うかと思ったが、ちょうど横断歩道の信号が青に変わったので、蛍斗達は足を止めずに走り抜ける事が出来た。横断歩道を渡り終えて振り返ると、その内に青色の信号がチカチカと点滅し、赤に変わった。男の姿は見当たらない。 ほっと安堵の息を吐いた蛍斗は、隣で蛍斗の上着を腰に巻いている澄香を見て、思わず笑った。 「あんたメンタル弱いな」 「しょうがないだろ、上着借りるよ」 澄香の頭には帽子があるが、恐らくその下には耳が出ているのだろう。いつもより帽子が膨らんで、帽子を押し上げているのが分かる。上着で隠した腰元には、恐らく尻尾が出ているのだろう。顔はブスッとしているが、腰に巻いた上着が揺れていた。きっと、その下にある丸まった白い尻尾が揺れているのだろう。犬が見せる感情表現と同じなら、澄香は今、嬉しいとかポジティブな感情を抱いているのだろうか。 強引に連れ出してしまったが、自分の判断が間違っていなかった事に蛍斗はほっとした。それに、繋がれた手が離れても、澄香は蛍斗の側に居てくれる。 二人並んで歩き出して、付かず離れずの距離で自然と会話も増えていって。前みたいにまた澄香が受け入れてくれた気がして、それが嬉しかった。 そのまま二人は、蛍斗の住むマンションに向かった。 澄香の部屋だと男が待ち構えているかもしれないし、蛍斗の部屋の方が落ち着けると判断したからだ。 部屋に入り、澄香は僅か目を瞪った。この間来た時とは違い、リビングが思いの外散らかっていたからだ。脱いだ服だろうか、ソファーの上には乱雑にシャツが放られ、皿やカップ、弁当の容器等がテーブルを占拠している。床にもビニール袋や雑誌が散らしてあるし、良く分からない物も転がっている、恐らく掃除もしていないのだろう。 仁が居ないと、部屋はこんなにも変わるのか。澄香は軽く頬を引きつらせた。 「とりあえず休んで下さい。なんか飲む?珈琲でいい?」 「う、うん、ありがとう」 キッチン内の様子も気になるが、とりあえずは座る場所の確保だと、適当に服を畳んで端に寄せ、散らかっているゴミであろう物は、とりあえず床に放ってあるビニール袋に突っ込んだ。それから何気なくを装い、澄香は出しっぱなしの食器等を持ってキッチンへ向かった。珈琲の準備をしてくれている蛍斗の様子を横目に食器を流しに置くと、「すみません、散らかってて」と、蛍斗は申し訳なさそうに苦笑った。 「ううん、忙しいとこうなるよな」と、澄香はフォローしつつ、キッチンから部屋を見渡した。初めは頬を引きつらせたものの、この部屋の惨状は、蛍斗を身近に感じさせてくれるようで、澄香はどこか安心していた。 ピアノの前に居る、よそ行きで完璧な蛍斗ではなく、澄香の知ってしまった、本来の蛍斗の姿が見えた気がして。 まるで蛍斗の隣に戻ってこれたみたいで、嬉しかったのかもしれない。 帽子を脱いで、腰に巻いた蛍斗の上着を取れば、犬の耳と機嫌の良さそうな尻尾が顔を覗かせる。 先にソファーに戻っていると、珈琲を淹れた蛍斗が隣に座った。当然のようなその距離に、澄香はじっと蛍斗を見つめ、それから少しだけ側に寄った。 「…何?それ以上側にくると、襲っちゃうかもよ」 冗談めかした言葉に笑って、澄香は珈琲を口にした。 「…なんで、こんなにしてくれんの、俺、本当に蛍斗を利用してるだけだよ、これじゃ」 「最初からそう言ってたじゃないですか。俺を使って良いって」 「…それ、蛍斗にメリットある?もう仁は、俺達が付き合ってる事を知ってる訳だし」 「…俺がそうしたいだけですから」 言って、蛍斗は澄香の垂れた犬の耳に触れた。ふわ、とした感触に微笑む蛍斗に、澄香は戸惑い瞳を逸らした。 「…俺、面倒じゃん」 「今更ですね」 「…気持ち悪くないの?」 「あんたのこれは可愛いだけだって言いました」 「…物好きだね」 素っ気なく言いながら、尻尾が嬉しそうに揺れている。澄香はこの事に気づいているのだろうか、気づいているなら質が悪いと、蛍斗は困ったように頬を緩めた。 遠退いた筈の心が近くなった気がして、蛍斗は少し浮き足立って、そうなれば、浮かれた心には悪戯な欲が芽生えてきて。澄香がカップをテーブルに置いたのを見計らい、蛍斗はその体を抱きしめた。 「ちょ、ちょっと!」 「ねぇ、薬以外で消す方法ないの?いやらしい事したら消えるとかさ」 「おい、」 抱きしめられながら尻尾を撫でられ、澄香は身じろいだ。更に垂れた耳を食まれ、澄香は驚いて顔を上げた。 「そんなエロマンガみたくなってたまるか!」 そう腕を突っぱねるが、澄香は腕の中から逃げ出そうとはしない。その事に気を良くして、蛍斗の悪戯心が更に増してくる。 「分かんないでしょ、やってみる?」 「ん、ちょっと!」 今度は本当の耳にキスされ、腰をなぞる手が意図的に誘ってくる。もう逃げるかな、と澄香の顔をちらと窺えば、澄香は真っ赤な顔で俯いてた。 「澄香さん?」 「し、したいなら…する?」 「え、」 ドッと胸が高鳴り、思わず固まった。ふと尻尾を見れば、怯えてか震えている。それを見て、蛍斗は澄香の体を優しく抱きしめ直すと、宥めるように背を撫でた。 「しませんよ、からかっただけです」 焦りつつそう声を掛ければ、澄香はほっとした様子で体から力を抜き、蛍斗の背中にそっと手を回した。 どこか縋るようなその指先に、蛍斗は複雑な思いになる。 頼ってくれるのが嬉しくて、可愛くて、抱きしめたくて。何か抱えているのなら、安心させたい思いもあった。冗談めかして心の強ばりを解せたらと。だから、今のは本当にちょっとからかってみただけだ。 だが、けれど、と蛍斗は思う。 体を許せる事が合図ではないが、まだ澄香の心には仁がいる、自分では仁を越えられないと言われたような気がしてしまう。 「……ふ、」 「え、何?」 「いえ、なんでもありませんよ」 しかし、再び元気に振れ始めた丸まった尻尾を見れば、それは可愛さでしかなく、蛍斗の寂しさも、結局は澄香が払ってくれるのが、どうしようもなく胸の奥を温めて。 離れられないこの気持ちの名前を否定する事は、蛍斗にはもう出来なかった。

ともだちにシェアしよう!