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「…さっきの人、誰ですか?追いかけてきてましたけど」
ヤバい人?と尋ねながら体をゆっくり離せば、澄香 はまだ頬を赤くしながらも、苦笑ってその手を離した。
「…向こうからしたら、俺の方がよっぽどヤバい奴だと思うよ」
ソファーに背を預け、澄香はもう癖になっているのだろう、恐らく帽子に手を掛けようとして、帽子が無い事に、その必要も無い事に気付き、白い犬の耳を軽く引っ張った。
ふわふわとした、まるでぬいぐるみのような犬の耳。この目で見て、その手で触れて、本物だと分かっていても疑いたくなる。蛍斗 は、耳を弄る澄香の指の上からその白い耳に触れ、そっと全体を撫でてやる。澄香はそれが安心するのか、それとも心地良いのか、自分の手を引っ込め、蛍斗に身を委ねているみたいだった。
「どういう事ですか?」
ふわりふわり撫でながら、蛍斗が尋ねる。澄香は少し惑い、それから口を開いた。
「…俺、愛人の子なんだ。周防 グループってあるだろ?そこの社長の隠し子」
「え、」
愛人、隠し子、周防グループ。蛍斗は、まさか澄香がそんな家庭環境にあったとは思いもよらず、思わず固まってしまった。
「隠し子がばれるのもマズイけど、それ以上に獣憑きの人間が周防の家から出たってばれるとヤバイんだって。家の恥になるから、俺の事隠してるんだよ」
笑って澄香は、まるで当然のように言う。
周防グループと言えば、日本人なら誰もが知る大企業だ。リゾート事業が有名だが、その関連事業は多岐に渡る。
澄香はその会社の社長の、愛人の子供。更には、獣憑き。
当事者を思えば簡単に呑み込める話ではないが、でもそれが、澄香の生きてきた世界だ。そうでなくても獣憑きの症状に振り回されているというのに、父親に厄介者扱いされているなんて。
「…じゃあ、さっきの人は澄香さんを監視してるって事ですか?」
「常にって訳じゃないけど…ほら、今回騒動になったろ?|仁《じん》の相手が俺だってバレたんだと思う」
「あの人に捕まったらどうなるんですか?」
「暫くは、外出するなとか言うんじゃないかな」
「母親は?」
「母さんは、今一人で普通に暮らしてる。多分、あの家が一番厄介に思ってるのは俺なんだ、この体質は遺伝だから。母さんの家系にこの症状の人はいない、だから周防の家系に居るんだろ。
まぁ、邪魔な息子に邪魔な遺伝子まで備わっちゃったから、ちょうど良いのかもね」
「そんな事、言うなよ」
自嘲する澄香に、蛍斗は苛立って言う。その蛍斗の腹立たしさが言葉に乗って伝わってきて、澄香は眉間に皺を寄せたその顔に、そっと頬を緩めた。
そうか、怒ってくれるのか、俺の為に。
そう思えば、心が軽くなった。自分の為に怒ってくれる、味方でいてくれる、そんな人が居ると思うだけで心強くて、それだけで、ちゃんと自分の足で立っていられそうだと思えた。
「向こうにとっては、そうなんだよ」
「…仁はこの事知ってんの?」
「知らないよ。言う必要ないって言うか、言わないで良いならその方が良かったから」
「付き合ってる時は何も無かったの?」
「うん」
「…仁の前で耳が出る事は?」
「あー…それは、結構。仁って、やっぱり格好いいからさ」
「何それ、格好いいと耳出るの」
「緊張するから」
「ふーん…」
苦笑う澄香は照れているようにしか見えず、蛍斗はますます不機嫌になった。
澄香が蛍斗の前で犬の耳や尻尾を出す時は、不安になった時ばかりだ、しかも、大半は仁の事で心乱した時。蛍斗は、自分に対してドキドキしたりしない、そう言われているみたいで悔しかった。
分かってはいるが、澄香にとっては自分よりも仁の方が格段に上なのだろうと、同時にへこんでもいた。
「…ごめんな、こんな話して。迷惑は絶対掛けないから…っていうか、もう掛けてるよな、ごめん。でも、ありがとう助けてくれて」
蛍斗の不機嫌をどう捉えたのか、澄香は慌てた様子で距離を取り、小さく頭を下げた。なんとなく尻尾も元気がない。
そんな姿を見てしまえば、腹を立てた事が些細な事に思えてくる。いや、実際些細な事なのだけれど。今更、仁と比較したって勝てっこない。それでも、今、澄香の隣に居るのは自分だと、蛍斗はくしゃくしゃと自身の頭を掻いて、自分の狭量さを心の奥深くに押し込めた。
「俺が好きでやって、俺が教えてって言った訳だし…まだ、お試し続いてるんでしょ?俺達」
真っ直ぐに蛍斗が言う。
澄香はその言葉に安心していた。別れようと言った事を無かった事にしてくれている。そして、関係が続いているなら、手を貸すのもおかしな事じゃないと言ってくれているようで。
「…はは、駄目だなこれじゃ。俺、本当に君に頼ってばっかだ」
「頼ってよ、言い出したのは俺なんだから」
蛍斗は言いながら、ちら、と視線を澄香に戻す。澄香は尻尾をぱたぱたと揺らし、照れくさそうな表情で俯いていた。
その表情に、胸が騒めいた。その頬に触れたくて、その肩に、手に、唇に。蛍斗は鼓動に急かされるように身を乗り出して、澄香の唇を奪っていた。
「…え?」
澄香は突然の接触に、伏せかけていた瞼を持ち上げた。まだ間近にある蛍斗の瞳に、胸が痛いくらいに打ち付けているのが分かる。
「…ごめん、触っていい?」
今にもすぐに触れそうな唇が、そんな事を囁く。吐息が唇を掠め、息が止まりそうになるけど、澄香は果てしなく混乱の最中に居て、自分の状況を把握しきれていない。
「…え、え?ま、待って、もう…触ってるどころか、キス?」
「してますね、もう」
「え、えっと、え?」
真っ赤になって、肩を強ばらせ、大きく開いた瞳をうろうろさせて。蛍斗はその様子を間近で見つめ、自然と頬を緩めていた。
ただ、狼狽えるその姿が可愛くて、愛しくて、守ってあげたくて。
困った瞳と目が合えば、また唇が触れ合った。澄香は驚いて再び目を見開いたが、蛍斗は更に身を乗り出し、澄香の頬に触れて上向かせ、離れた二人を再び引き寄せた。
「……っ」
澄香は肩を跳ねさせて身を捩るが、積極的に触れてくる唇に、どんどん先に進まれてしまう。
ソファーに背が転び、その熱さに気持ちが伝わってくる。食まれ、耳を撫でられ、吐息が絡み合う。何度も思いが注ぎ込まれ、耳を撫でた手が首筋を腰を辿り、意図的に太ももへと辿られれば、澄香はさすがに驚いて抵抗を強めた。肩を押そうとして力が抜け、蛍斗のシャツを掴んだ筈が、手が滑ってしまう。
「ま、ちょ、」
は、と息を零し、唇から逃れると、澄香は顔を起こして蛍斗の肩に噛みついた。
「いって!」
「うぅ…!」
蛍斗が体を起こすと、澄香は涙目になりながら蛍斗を睨んでいた。噛まれた肩は、反射的に痛いと言ったが、子犬がじゃれつく位の力しか入っていない。
唇を噛みしめ、必死に涙なのか怒りなのかを堪えている澄香に、蛍斗はようやく冷静さを取り戻したようだ。
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