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演奏を終え、集まった観客から拍手で送り出された|蛍斗(けいと)は、その群衆の中に澄香(すみか)が居ない事に気付き、焦って辺りを見回した。 「澄香さん?」 人が多い遊園地の中、フードコートの中も、その付近を見ても澄香の姿は見えず、蛍斗は焦りながらスマホを取り出した。 「どこに、」 言いかけて、スマホを操作しようとした指が止まる。楽しそうな人々の声が横を通り過ぎて、不意に自分だけが取り残されたような感覚になった。 澄香は、自分から居なくなった。それは、と考えて、蛍斗は手を下ろした。 「…俺と、いたくないって事か…?」 仁のようにはなれない、一緒に居ても好きになるどころか不安すら拭えない。 仁の代わりにすら、なれない。 「あの、さっきピアノ弾いていた人ですよね?」 突然声を掛けられ、蛍斗ははっとして顔を上げた。振り返ると、いつの間にか若い女性の二人組がいて、どこか浮き足立った様子でこちらを見上げている。蛍斗が若干戸惑いつつ頷けば、彼女達はキャアと可愛らしい声を上げ、再びきらきらとした眼差しで蛍斗を見上げた。それから、「かっこよかった」「凄かった」「感動した」、そのような事を楽しそうに伝えてくれる。 そんな彼女達を通し、蛍斗はふと、ロマネスクでピアノを弾いた時の事を思い出した。 蛍斗が澄香に声を掛けるまでは、客と店員として接するだけで、澄香からは「良かったよ」と、一言ピアノ演奏について感想を貰う位だった。だが、それでも澄香が熱心にピアノを聞いてくれていた事は、蛍斗も知っていた。こんなピアノのどこが良いんだ、そう自嘲しながらも、嬉しくない筈がない。あんな小さな店の、誰が聞いているかも分からないピアノ、その中で澄香は自分を見つけてくれた、味方を得た気すらして、心強かった。 その味方の力が働いたのは、店の中だけではない。蛍斗を見ながら、背後にある親や兄の顔色を窺っていた人の前でも、毅然と顔を上げていられた。今だって不貞腐れる時はあるけど、それでも根っこから腐りはしない。見ていてくれている人がいると、知っているからだ。 でもまさか、|仁《じん》の恋人が澄香だとは思わなかった。それを知ったのは、出会ってから随分後になってからだ。今思えば、仁への嫌がらせを思いついたのも、相手が澄香だったからかもしれない。澄香じゃなければ、いくら仁への嫌がらせとはいえ、声を掛けなかっただろう。 悔しかった、澄香まで仁を選ぶのかと。 蛍斗はぎゅっと拳を握る。 そして、今、澄香は。 「あの、今日はお一人なんですか?」 可愛らしいそのお誘いに、蛍斗は不安に揺れた心を振り切り、首を横に振った。 「連れを迎えに行かないといけないんで」 勝手に落ち込んで、臆病になってる場合じゃない。 蛍斗は残念そうな彼女達に軽く頭を下げ、駆け出した。 澄香が仁を想っていながらも、それでも側に居たいと望んだのは自分だ。 澄香の気持ちが自分に向かっているような気がして、どこかで浮わついていたのかもしれない。澄香はそれどころじゃないのに、自分を苦しめ続けている父親と向き合おうとしている最中なのに。 自分に澄香の不安を取り除ける力があれば良かったが、まだそんな力はない。不甲斐なさはあれど、それでも、力になれる事はまだある筈だと信じてる。 何より、こんなところで澄香を諦められない。 蛍斗は自分を励ましながら、一度立ち止まり、スマホの通話ボタンを押した。 こんな風に落ち込んでいる間に、澄香が獣憑きの症状を出してしまっているかもしれない。それなら早く駆けつけなくては。 どうか電話に出てくれ、蛍斗は願うようにコール音が切れるのを待った。だが、蛍斗の不安に反し、澄香はスリーコールで電話に出てくれた。 「澄香さん、どこ!?大丈夫!?」 「ごめん、…ちょっと落ち着かなくて、」 「迎えにいくよ、どこにいる?」 そう尋ねると、電話の向こうで、澄香の戸惑いが見えた。 「…澄香さん?」 「…まだ、迎えに来てくれんの」 「何言ってんの、当たり前でしょ」 「だってさ…」 そこでまた言葉を切る澄香に、蛍斗は少し迷って、遠くなったピアノに目を向けた。 「俺のピアノ、澄香さんに聞いてほしい」 「…え?」 「俺が側に居たいだけなんだ。言ったじゃん、俺を見ててって。俺からも見える場所に居てよ」 「どこにいるの」と、再び尋ねると、澄香は迷う素振りの後、小さく口を開いた。 「建物の影…どこだろ、…ミラーハウスかな、これ。お客さんがいないやつ」 「分かった、待ってて。すぐに行く」 顔を上げて周囲を見渡すと、ミラーハウスはすぐそこだった。蛍斗はその事にほっとした。帰る事も出来た筈だが、澄香はまだ側に居てくれた。自分の手の届く範囲に居てくれた事に、まだ澄香の側にいても良いと許されたような気持ちになって、蛍斗は気持ちを引き締め、澄香の元へ駆け出した。 ミラーハウスの周辺は、まるで避けられているかのように人がいなかった。このアトラクションには需要が無いんだなと思いつつ、建物の影に顔を向けると、植え込み前のブロックに座り込んでいる澄香がいた。頭に被った帽子をしっかりと握り、腰にはカーディガンを巻いているので、獣憑きの症状が出ているのか、傍目には分からなかった。 「澄香さん」と声を掛けると、澄香ははっとした様子で顔を上げた。 「あ、ごめんな、…その、スマホにメッセージ残そうと思ったんだけど、」 「ううん、良かった」 蛍斗はほっとした様子で、帽子を握る澄香の両手を取ると、彼の向かいにしゃがんだ。澄香はそっと肩から力を抜き、小さく蛍斗の手を握り返した。 「…怒んないの?急に居なくなって」 「怒んないよ、心配はしたけど」 言いながら、蛍斗は手を伸ばし帽子の上から頭に触れる。ふか、と帽子が沈み頭に触れるのが分かる。どうやら耳は出ていないようだ。その事に改めて安堵するが、澄香は俯いて視線を揺らしていた。 その様に、蛍斗は少し胸の奥が騒ついて、それを振り払うように、そっと笑んだ。 「…俺がいても不安?」 けれど、上手く笑えなかったみたいだ。蛍斗の声に顔を上げた澄香は少し目を見開き、「違うんだ」と、焦った様子で首を振った。 「…俺、いい加減面倒臭いだろ、自分で嫌になる、こんな弱くて」 繋いだままだった手をぎゅっと握る澄香に、蛍斗は少し眉を下げ、その手を握り返した。 「面倒で言ったら俺の方が面倒でしょ。何せ、澄香さんに声掛けたのは、仁への嫌がらせだし。それに、俺は弱くない澄香さんも知ってますから」 「だから大丈夫」と、優しく両手を取って握る蛍斗に、澄香は躊躇いつつ顔を上げた。 「澄香さんは凄いよ、俺の事ちゃんと見てくれた。誰かのじゃなくて、俺のピアノを聞いてくれた。俺はあんたに救われたから、だから力になりたい。側にいるから、何があっても。だから」 だから、どこにも行かないで。 それはこの遊園地に来た時と同様、どこか縋るような声になってしまった。澄香はそれに僅かに目を瞪り、やがて一つ頷くと、蛍斗の背に腕を回した。 建物の影に隠れて、誰も二人に気づかない。 澄香の手は、まるであやすように蛍斗を優しく包み、慰められているのはどちらだろうと、蛍斗はその温もりに寄りかかった。 安心したように力を抜いて腕を回す蛍斗に、澄香もそっと心が緩んでいくのを感じる。 その中で、ふと思った。蛍斗だって、必死だったのかもしれない。誰かの息子で、弟で、それ以外の自分である必要性をずっと求めていたのかもしれない。その先に、自分がいるのだろうか、そんな風に思うと胸がぎゅっとして、澄香はむずむずとした体の変化を振り切るように、蛍斗の肩に顔を埋めた。

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