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少しして澄香 のスマホが鳴り、実紗 から澄香の父、政孝 が家に来たと知らされた。
「大丈夫?」との蛍斗 の言葉に、澄香は決心して頷いた。
甘えてばかりはいけない、逃げてばかりはいられない。こんな自分の側にいてくれる蛍斗がいて、その思いに答えるには、ちゃんとけじめをつけなくては、前に進めない。
ちゃんと話せる、ちゃんと伝える、もう迷惑は掛けないから、放っておいて欲しいと。
先程の家に戻り、澄香は玄関を開けて驚いた。
変わらないと聞いてはいたが、家の中は澄香が暮らしていた時とほとんど変わらなかった。
この家を出て次に暮らした家はアパートだったので、必要最低限の荷物だけを持って出ていた。なので、家具はほとんど持ち出せず、ここに残してきたのだが、それがまだ、きちんと残されているとは、澄香は思いもしなかった。
靴箱の上に置かれた花瓶には、当時もそうだったように、一輪の花が品良く飾られている。家主が居ないのに、何故だろう。実紗がこうなると予測して用意したのだろうか。
しかし、玄関にある磨き抜かれた革靴を見て、懐かしさに満ちた気持ちも、一瞬にして萎んでいくようだった。
「お帰り!社長、待ってるよ」
出迎えた実紗に、澄香は緊張した面持ちで頷き、リビングに向かった。
紺地のソファーに、ガラスのテーブル、壁に飾られた誰かの絵画、部屋の隅には大きな観葉植物。
記憶の中で、この家で過ごした日々が蘇る。ソファーの定位置、母親とのテレビのチャンネル権争いは、あっち向いてほいの五回戦で、母がいつも負けていた事。きっと、勝ち負けが重要だったのではなく、自分を少しでも楽しませようと思ってしてくれていたのかもしれない。母との二人暮らしには広すぎた家だけど、この家は愛情で満ちていたから、寂しくなかった。
何も変わらない、その部屋の中に、記憶にはない存在がある。
リビングには、父の政孝がいた。ソファーに座らず、落ち着かなそうにうろうろと歩き回っていたが、澄香に気づいたその表情は、どこか泣きそうに歪められ、優しかった。まるで子煩悩な父親みたいな表情に、澄香は戸惑った。澄香の後ろに居た蛍斗も、予想外だったのか少々面食らった様子だ。
政孝は黒い髪を後ろに撫でつけ、上質なスーツを纏い、背筋をしゃんと伸ばした細身の男性だった。仕事中なら、もっと威厳や威圧感を感じたのかもしれないが、大企業の社長も、今はただの父親の顔をしている。
蛍斗もリビングに踏み込もうとしたのだが、蛍斗が見届けられたのはそこまでだった。挨拶を終えると、実紗によりリビングから連れ出されてしまったからだ。
「は!?ちょっと!」
「大丈夫大丈夫、親子水入らずにさせてあげてよ。会う事なんて滅多に無いんだから」
さすが監視役とでも言うべきか、実紗は屈強そうには見えないのだが、蛍斗がいくらもがいても、その腕からは抜け出せそうになかった。意外とがっしりとしている体は、人を捕らえて運ぶコツを心得ているようだ。
それより、蛍斗は澄香が心配だった。蛍斗がもがきつつ澄香に視線を向ければ、澄香は心許なさそうにではあったが、「大丈夫だから」と頷いた。
きっと大丈夫ではない、でも、大丈夫だから。一人で向き合わないといけないから。
澄香はそんな風に言っている気がして、蛍斗は儘ならない思いが治まらず、政孝へ視線を向けた。
「偉い社長だからって、この人泣かせたら許さないからな!」
吠える蛍斗に、政孝のみならず澄香までぽかんとしてしまった。政孝を迷う事なく睨み付ける蛍斗に、実紗は堪らずといった様子で大いに笑った。
「なんだよ!俺は真剣に、」
「ごめんごめん。それに社長は澄香を泣かさないから、逆に泣かされるから」
「…は?」
実紗の言葉に蛍斗が怪訝そうな視線を向けたが、実紗は肩を竦め困ったように笑うだけだ。そこには見守るような温かな眼差しがあり、蛍斗は戸惑いながら再び政孝へ視線を向けた。政孝は、失礼な態度を取る蛍斗に怒る様子もなく、参ったといった様子で頭を掻き、苦笑う目尻には涙のようなものが見えた。
そのまま蛍斗は引きずれ、二階へと連れていかれた。客室だろうか、二階の窓からは遊園地が少しだけ見える。近所に遊園地があるなんて、ちょっと贅沢だなと思った。
「…あの社長、随分早かったんですね」
「仕事抜けて来たみたいだから、またすぐ仕事に戻るって。どう?楽しめた?遊園地は」
部屋のテーブルには、グラスとドリンクが用意されており、実紗がついでくれた。きっと、蛍斗をこの部屋に通す事は決まっていたのだろう。
「…それなりに」
「それなりかー」
笑う実紗を見ていたらなんだか面白くなくて、蛍斗はふいっと顔を背けた。
「あのミラーハウスはヤバいですね、人気なくて」
「はは、あれは取り壊そうかって案も出てるみたいだけど、悩みどころなんだって」
「…ここって、|周防《すおう》グループが運営してるんですよね?周防って、成績の悪い物はすぐ切り捨てるイメージでしたけど」
蛍斗の指摘に、実紗は軽やかに笑い、それから穏やかに頬を緩めた。
「不必要なものは、あの遊園地には無いんだって。みんな思い入れがあるものらしいよ」
「あの社長にとって?」
「うん。昔、まだ澄香が、…社長がただの父親だと思ってた頃、家族三人であの遊園地に行って、それがきっと楽しかったんだろうね。その夜に、理想の遊園地の構想を澄香と考えたんだって。勿論、遊びでだよ?
でも社長は、その夢をまだ見てるみたいだ。あの遊園地に古い乗り物があるのは、そのせいだろうな。三人で来た時の楽しかった思い出が詰まった場所を、また三人で来れる日まで守りたいのかもね」
蛍斗は、再び遊園地へ目を向けた。
あの遊園地を、三人で。それは、社長にとっての家族で、という事なのだろう。
蛍斗の中で、政孝の印象が揺らいでいく。澄香はどう思うのだろうと、蛍斗はミラーハウスの影でしゃがみ込んでいた澄香を思い浮かべていた。
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