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それから、夜がやってきた。 澄香(すみか)が耳を出してしまったので、今日はこのまま、この家に泊めて貰う事となった。 この家に今は誰も住んでいないが、誰がいつ来ても使えるようにしてあるようで、それは時折ふらりと訪れる政孝(まさたか)の為にというよりも、澄香や弥生(やよい)の為だろうと、実紗(みさ)は言っていた。政孝からはっきり理由を聞いた訳ではないが、きっとそうなのだろうと。澄香は何とも言えずに俯くままだった。 政孝はあの後仕事に向かい、実紗は政孝を送ったきりまだ帰っていない。 冷蔵庫には食材も常備されているようだ。たまに来る政孝の為に、実紗が適当に身繕っているという。食材の管理も実紗が行っているので、賞味期限が切れた物や腐りかけの野菜もなく、安全な物ばかりだ。賞味期限が怪しくなった物は、周防(すおう)邸に持っていき、お手伝いさんにちゃんと調理して貰っているらしい。 澄香と蛍斗(けいと)は二人でキッチンに立ち、ダイニングにて向かい合って夕飯を食べた。しめじと青じその入った和風パスタだ。パスタからは湯気が立ち、しそがふわりと香ってくる。簡単に作れるだろうとうろ覚えながら二人で取りかかったのだが、思いの外美味しく仕上がった。 帰る必要がないし、ここでは体質を隠す必要もないので、薬は寝る前に飲む事にした。安定剤や睡眠を促す成分も入っているので、寝る前に飲んだ方が夜もしっかり眠れるだろうと思ったからだ。 なので、澄香の体にはまだ犬の耳や尻尾が出ている。澄香は恐らく気づいていないが、食事をする際も尻尾が楽しそうに揺れているので、蛍斗はほっとした様だった。 それから、好奇心に突き動かされた蛍斗に手を引かれ、澄香も共に懐かしの我が家を見て回る事となった。 二階には、澄香が使っていた部屋もある。 「あ、ここって澄香さんの部屋?」 澄香の部屋には、ドアにネームプレートが飾ってある。木の枝で作った手作り感溢れる物で、母の弥生と二人で海に行った時、拾った流木を使って作った物だ。 懐かしさに、思わず頬が緩んだ。澄香は蛍斗に頷きながら、ドアノブに手を掛けた。少し緊張する。このドアの向こうはどうなっているだろう、あの日のままだろうか、それとも、もう自分の部屋では無くなってしまったのだろうか。 「澄香さん?」 「あ、あぁ、ごめん」 なかなかドアを開けない澄香を不思議に思ってか、蛍斗が心配そうに声を掛ける。澄香は笑って誤魔化したが、まだ出ている尻尾が緊張からか少し震えて丸まっていた。 この部屋が昔と変わってしまったとしても、そこに深い意味は無いのかもしれない。けれど、不必要と思われていた記憶が蘇れば足が竦む。政孝は違うと言っていたけど、この部屋の向こうに本音が隠されてるのではないかと。 躊躇う澄香に、蛍斗は澄香のドアノブを掴む手からその手を握った。澄香が顔を上げれば、蛍斗は「大丈夫だよ」と笑った。 澄香はそこで肩の力が少し抜けたようだ。なんでもない一言が、勇気をくれる。凄いな、澄香はそう思い、胸の中が温かな気持ちになるのを感じた。蛍斗がどこまで澄香の気持ちを理解しているかは分からないけど、一緒に受け止めようとしてくれているのは感じる。 このドアを開けるのは、なんでもない事かもしれない。それでも、蛍斗は面倒な素振りも見せず、臆病な背中を支えてくれる、こんなに心強い事はない。 気づけば丸まった尻尾も勇敢に振れていて、澄香は蛍斗に頷くと、そのままドアを開けた。 開いたドアの向こう、それを目にした途端、澄香の心に郷愁の風が駆け抜けた。 「うわー、ベッド小さ!ここが澄香さんの部屋か…」 蛍斗はいち早く部屋に入ると、感慨深そうに子供机に触れた。恐らく用紙からはみ出したのだろう、黒いマジックの線が幾つもついた勉強机、傷がついた空っぽの青い棚も、子供用のベッドも、アニメキャラのシールをベタベタと貼った壁も、思い出の中とまるで同じ姿だった。 「俺もこのシール集めてたなー。スゲー流行ってましたよね」 「…そうだな」 頷いた澄香は安心していて、そんな自分に戸惑って、誤魔化すように頭を掻いた。それから所在なさげに振る舞って、「ほら、もういいだろ」と、蛍斗を促すと、自分はさっさと部屋を出てしまった。 あの日、この家を出たままの部屋の姿に意味は無いのかもしれない。それでも、政孝が澄香の帰りをここで待っていたかもしれないなんて、思ってしまったら。 それが、嬉しくて、良かったと安心して。あんなに政孝に対して嫌悪していたのに、嫌われていると思っていたのに。 「…なんだよ」 抱きしめられた温もりを、信じずにはいられなかった。 そんな風に家の中を見て回っていると、家の至る所に家族の痕跡がある事に気づく。 この家を出て行く時、手に抱えられる荷物しか持って出なかったので、家具や雑貨の一つ一つはそのままだ。それを政孝は一人で見ていたのかと思うと、罪悪感が胸を過った。すれ違いゆえ仕方ない事なのかもしれないけど、澄香が政孝を拒絶していたのは事実だ。同時に、母はどんな思いでこの家を出たのだろうと、澄香は思いを巡らせた。連絡は取り合っているのだから、まだこの家が昔のままである事を知っている筈。 母の心もここにあるなら、二人の妨げになっていたのは自分だ。 「さて、この後どうしましょうか」 階段を下りながら蛍斗が振り返る。澄香は蛍斗の言葉には何も返せず、俯いたまま階段に座り込んでしまっていた。先程元気を取り戻した耳も尻尾も、今はしょげてしまっている。 「澄香さん?」 「ごめん、大丈夫、ちょっと…」 そこで言葉を切った澄香に、蛍斗は言葉を詰まらせた。それでも澄香の隣に腰かけると、少しでもその気持ちが安らぐよう、そっとその背中を撫で続けた。

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