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少しして落ち着いたのか、澄香(すみか)が顔を上げると、蛍斗(けいと)は「とりあえず風呂でも入ってさっぱりしましょうか」と、何でもない振りをして、澄香を促した。その軽やかさに、澄香はほっとして頷いた。 着替えがある場所は、蛍斗が客室に通された時に実紗(みさ)から聞いていたので、客室にあった物を借りた。下着も新品だ。これも、もしかしたら澄香達が遊園地に行っている間に実紗が用意したのかもしれない。 今は澄香に代わり、蛍斗が入浴中だ。 風呂から上がった澄香は、処方されている薬を飲み、リビングのソファーにいた。タオルを頭に乗せたままテレビを見ていたが、内容がまるで頭に入ってこない。言葉が頭の中を素通りして、なんだか上手く働かない。今日一日で目まぐるしく感情が揺れ動き、それもまだ上手く消化出来ていないような気がするのに、それに加え、自分が両親の仲を裂いたのではという罪悪感が芽生えてきた。 どうしてこうなってしまったのだろう、自分が獣憑きでなければ、今も両親は幸せに暮らしていたのだろうか。 今となっては考えても仕方ない事だ、過去には戻れないと分かっている。それでも、澄香は考えずにいられず、堂々巡りを繰り返していた。 「何か面白い番組やってます?」 少しして、風呂から上がった蛍斗がそう尋ねながらやってきた。頭にタオルを乗せたまま、「んー、特にないな」と、澄香はぼんやり答える。一体どこを見ているのか、上の空の瞳が気がかりで、蛍斗は澄香の背後に回ると、その頭をわしゃわしゃとタオル越しに拭いてやった。 風呂上がりに薬は飲んだが、まだ薬の効き目は出ていない。犬の耳もわしゃわしゃとやってやれば、澄香は擽ったそうに肩を竦めて笑った。 「おま、やめろって!」 「はは、風邪引きますよ」 「分かったから!」 もう、と笑ってはいるが、それでも澄香の顔色は冴えないままだ。蛍斗は澄香の隣に腰かけると、澄香の体を自分へと向けた。 「…どうしました?」 その優しい声が、そっと握る手が、躊躇いがちに澄香の心の内を叩く。どこかぎこちなさを感じるのは、その躊躇いからだろうか。それでも蛍斗の存在は、澄香の胸のつかえを少しずつ解してくれるみたいだった。 「…色々、考えてた。母さんはさ、翻訳の仕事をしてたんだ。家での仕事だから、小さい頃はいっぱい遊んで貰えるんだと思ってたけど、あの人に守って貰ってたからなんだろうなって。裕福って感じでもなかったけど、貧乏でも無かったし」 母との二人暮らしの裏には、父である|政孝《まさたか》がいた。一緒には暮らしていないけど、ずっと繋がっていたのだと。 「…歪だけど、家族だったんですね」 「…それを、俺が、壊したのかな」 「そんな事、」 蛍斗が否定しようとしたその時、ドン、と、どこからか花火の上がる音が聞こえ、二人は顔を見合せた。 「今の花火?」 「あ、遊園地のかな。屋上に出たら見えるかも」 その言葉に、蛍斗はすかさず「行ってみましょう!」と、澄香の手を引いた。 屋上に出てみれば予想通り、花火は遊園地から上がっているのが分かった。 屋上には、ゆったりと寛げるようにか白いソファーが置かれ、それは大人が三人並んでも余裕のあるサイズだった。 政孝も、一人このソファーで花火を見る事があったのかもしれないと、澄香はぼんやり思う。そう思えば、自分が悪い事をしてきたとしか思えなくて溜め息が零れた。 ドン、ドン、と、色鮮やかな大輪の花が空に咲く。今日は少し風もあり、雲も煙も綺麗に流してくれて、花火が一段と綺麗に見えた。 「…なんで、言ってくれなかったのかな…タイミングはあったと思うんだけど。だって、まだ繋がってたじゃん二人は」 花火の青や赤の光が、澄香や蛍斗の顔を照らしている。空を見上げる澄香に、蛍斗はそっと表情を緩めた。 「互いに思い合ってるから、逆に話すべきか分からなくなってたって事もあるんじゃないですか?周防の家には、結局味方は居なかった訳だし、きっと澄香さんの事を案じて離れたんだよ。世間の目は厳しいだろうし、あんな大企業の社長なら尚更さ。外からは、愛人が会社を乗っとるくらいに見えてたんじゃないですか?分かんないけど。うちも、そういう系で結構揉めたらしいし」 蛍斗の母親は、ミュージカルスターとして、ミュージカル以外にも様々な仕事をこなしていた。ミュージカル界をリードし、ミュージカル人気に火を着けた人物だ。 澄香は、|仁《じん》にいつか聞いた話を思い出した。 蛍斗の母親は、離婚時も再婚時も、週刊誌にあること無いこと書かれたという。それが原因で、連れ子の仁を残して、再婚相手である仁の父は家を出て行ったというから、更に騒ぎになったとか。 それでも彼女は、仁も蛍斗も愛情深く育て上げ、いつも笑顔でいたという。そんな母親に憧れ、仁は彼女がいつまでも胸を張れるようにとミュージカルの道に進んだ。もしかしたら、蛍斗も同じような理由でミュージカルの世界を夢見たのかもしれない。 なので、蛍斗も世の中に振り回される気持ちが分かるのだろう。 「だから、離れて落ち着いた生活を送れるようになって、現状を壊してまで話すべきか、分からなくなったのかもしれませんよ」 「でも一言くらい…」 言いかけて、澄香は俯いた。 「…いや、俺が聞こうとしなかったのか…」 「…澄香さんから来てくれるのを、待ってたのかもしれませんね」 澄香は「…なんでだろうな…」と、再び溜め息を吐きながら、空を見上げた。思う心はあるのに、真っ直ぐに歩めないなんて。 「なんですか?」 「…それでも俺、嫌われてなかったのかな」 「そりゃそうですよ」 ふと、花火を遮って、蛍斗が澄香の顔を覗き込んだ。その距離の近さに、澄香はどきりと胸を跳ねさせた。 「きっと、そうです」 優しい表情で、出たままの垂れた犬の耳を撫でられる。 その表情に、また胸が熱くなった。 真っ直ぐと、いとも簡単に蛍斗は言ってのけてしまう。澄香の欲しい言葉を、澄香を納得させる温度感を持って。 どうして、こんなに寄り添ってくれるんだろう。こんなんじゃ、本当に好きになってしまう。離れられなくなってしまう。 澄香は泣きたくなって顔を俯けると、蛍斗の腰に腕を回し抱きついた。蛍斗は驚いたのか、瞬間、体を硬直させた。面白いくらい背筋をピンと伸ばした蛍斗に、澄香は笑いたかったが、今は笑えそうもなかった。 「…少しだけ良いか?」 ぎゅっと手に力を込めて呟くと、蛍斗はようやく力を抜いて、澄香の体を抱きしめてくれた。 「…いくらでもどうぞ」 その優しい声にほっとして、澄香は目を閉じた。 澄香は心地好い腕の中で、遊園地に行った記憶を思い起こしていた。 母の弥生と、父である政孝とだ。大きな手に優しい笑顔、隣に母の安らぐ空気。ミラーハウスで一人迷って泣いて、大慌てで駆けつけた誰かに、「大丈夫、もう大丈夫だよ」と、抱きしめられた事がある。あの大きな手はきっと、政孝だ。 忘れた振りして蓋をしていただけなのかもしれない。政孝の愛情は、確かに澄香の中に眠っていた。 深夜近くに実紗が帰って来ると、リビングのソファーで、澄香は蛍斗の肩に凭れて眠っていた。花火が終わると二人はリビングに戻り、適当にテレビを見てお喋りしていたが、その内に澄香の飲んだ薬が効いてきたようだ。 「うちの坊っちゃん繊細なんだ、大事にしてよ」 「…言われなくても」 実紗の冗談めかした言葉に、蛍斗は負けじと頷き、澄香の頬に伝う涙の跡を拭った。

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