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それからの蛍斗(けいと)は、自分のやるべき事に専念して過ごす日々を送っていた。 ロマネスクでのアルバイトを続けながら、楽曲制作や仲間との練習、週末にはライブ活動を行ったりと忙しなく日々を過ごしていた。 とはいえそれは、澄香(すみか)と会う前から行っていた事だ、だから、澄香と会う前の生活に戻るだけ。 蛍斗は自分にそう言い聞かせ、ピアノの前に座る。使い慣れたスタジオの少し乾燥した部屋には、仲間達の賑やかな声が飛び交っている。これから新たな世界へ足を踏み出す事に不安などない、楽しみでしょうがないと言った様子だ。 このユニットでのデビューも目前。もうすぐプロとして活動していくのだから、自分も気合いを入れ直さないと。蛍斗も今まで以上に、音楽と真剣に向き合っているつもりだった。 だけど、そういう時に限って、何故か上手くいかない。 今まで間違わなかった簡単な箇所で指がつっかかる。仲間達は滅多にない蛍斗のミスに、気負わせないようにとフォローしてくれているが、蛍斗はその度に、心の何かが一枚一枚剥がれ落ちていくような気がした。 仲間への信頼は、以前よりもある。仲間達との関係が悪い訳でもない、ピアノだって弾きたいと思っている。 焦る中で、ふと澄香の姿が浮かんだ。記憶の中の澄香と目が合いそうになって、蛍斗は慌てて頭の中から澄香を追い出した。 結局、戻ってしまう。追い出した筈の感情があっさりと帰ってきて、何の為にピアノを弾いているのかも分からなくなる。 スタジオを見渡せば、いつもの仲間達がいる。ずっと一緒にやって来て、互いの癖も分かるようになって、紡がれる音の温度感が心地よくて。荒削りながらも、積み重ねてきたものは確かなグルーヴを生み出した筈なのに、蛍斗は自分のピアノだけがそこから外れているような気がしていた。 彼らに自分は、追いついているんだろうか。このユニットに自分のピアノは、自分は、果たして本当に必要なのだろうか。 最後に頭に思い浮かんだのは、澄香の肩を抱く仁の姿だった。 それでも、ロマネスクの客達は、蛍斗に優しい。 いつもよりどこか弱気な音色を、それでも拍手で送り出してくれている。ピアノの音色をただのBGMとしか捉えない客もいるが、それはそれで構わない、この店は、ピアノ演奏の為に開いているのではないし、店のBGMとして蛍斗もピアノを弾いている。だが、馴染み客の中には耳の肥えた客もいる。澄香のように全くの素人ながら、蛍斗のピアノの音を聞き分けられるようになってしまった人もいるくらうだ。蛍斗のピアノを目当てで来ている客は、確実に居る。 そんな人達に対し、今日の演奏は申し訳なさすぎるなと、蛍斗は演奏を終えると足早にピアノから離れた。これもプロ意識の芽生えだろうか、お金も時間も使って演奏を聞きに来てくれている人が居る事を、今更ながら痛感していた。プロ意識を覚えるには、遅すぎるかもしれない。 今まで、どうして軽々とピアノを弾いていられたのか、過去の自分に溜め息すら出た。 「どうしたよ、すっかりやる気が空回りだな」 蛍斗がカウンター内へ向かうと、正面からそんな声が飛んできた。からかい混じりに蛍斗に声を掛けたのは、同じユニットのベーシスト、藤間孝幸(ふじまたかゆき)だ。薄暗く雰囲気のあるバーに、バンド少年のような孝幸は不似合いだなと、蛍斗はしっかりと表情に出した。 「あ!お前には似合わない場所だとか思ってんだろ!どーせガキっぽいよ、俺は!」 「そうやっていじけるからだろ。それより何してんだよ、文句でも言いに来たのか?」 蛍斗がグラスを磨きながら溜め息混じりに言えば、盛大な溜め息が返ってきた。 「今まで俺達を引っ張り上げてくれた奴に、文句なんか無いってば」 孝幸は困った様子で笑い、リュックからライブのチラシの束を取り出した。それは、自分達のデビューライブのチラシだ。 「今日の目的は、これ」 「俺だって持ってる」 「持ってるなら、配れよ!」 ネット以外でも宣伝が出来るように、他のメンバーも、チラシやチケットを常に持ち歩いている。懇意にしてくれている楽器店やスタジオやライブハウス、その他、自分達の生活圏での宣伝にそれぞれ必死だ。どんなに良い曲を作って演奏しようが、それを観に来てくれる人、音源を手に取ってくれる人が居なければデビューの意味がない。 「ったく!お前、この店でこんだけピアノ弾いてんのに、店の人にもデビューの事話してないんだろ?昨日ここに来た時、真実(まみ)さん、お前からそんな話聞いてないって、驚いてたぞ」 「だから、真実がデビューする事知ってたのか」 真実とは、澄香とも仲の良いロマネスクの店員だ。 今日、蛍斗が店に来た時、真実にはいの一番でデビューの事を聞かれていた。どうして話していない事を真実が知っているのか、澄香から聞いたのだろうか、ならば澄香の口から自分の名前が出たのだろうかと、少し胸がそわそわしたが、それらは全て孝幸から聞いたのかと分かり、落胆した。 今更、期待しても仕方ないのに。だって、自分から澄香を突き放したのだから。 蛍斗が小さく溜め息を吐けば、孝幸はムッと唇を尖らせた。自分に対して溜め息を吐かれたと思ったのだろう。 「お前、絶対良い宣伝になんのにさ!店のSNSでも載せてくれるって言うし、ほらチラシも置いてくれるって!こんなに協力してくれるのに、なんで言ってないんだよ」 「まだ店を辞める訳じゃないし、まぁ良いかって」 「よくねぇよ!ちやほやされて来たお前は知らないだろうけどな、知名度を上げるって、本当に大変なんだからな!」 ムッとしたまま孝幸は言ったが、その表情は蛍斗と目が合うと、だんだんと気まずそうに歪んでいく。 きっと思い出したのだろう、蛍斗の存在が客寄せパンダのようになっていた事を。蛍斗はピアノの才能の他、母親と兄のお陰でいつの間にか有名人だ。今は違うが、その知名度を、ユニットのメンバーは皆、頼りにしていた。 孝幸は自分の発言の居心地悪さに、居ずまいを正した。 「…まぁ、蛍斗が加入してから何もしないでも客が増えたから、そういうのは助かったし、お前の気持ちも分かるけどさ」 そんな孝幸の事も、蛍斗も分かっている。蛍斗達は、少しずつ仲間になっていったのだ。五年以上も一緒にやって来た、孝幸や他のメンバーも、知名度の為だけに一緒にいるのではないと分かっている。 分かっているつもりだ。

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