34 / 41

34

「大丈夫だよ、今更抜けたりしないから。…まぁ、俺の名前の効力も、いつまでも続かないだろうけどな」 「もー、ごめんって!そういう意味じゃないんだって、本当!それに、口にはしないけど、みんなお前の事心配してるんだぞ」 孝幸(たかゆき)はカウンターテーブルに頭をつける勢いで謝り、蛍斗(けいと)を見上げた。蛍斗は気を悪くした素振りなく肩を竦めたが、その表情には、いつもの悪態振りがない。こういう時、ここぞとばかりに上手に出ようとするのに。 孝幸は頭を上げ、何気なくを装い口を開いた。 「なんだよー。最近おかしいぞ?ちょっと前まではなんか生き生きしてたのにさ」 「なんも無い、用が済んだら早く帰れよ」 「蛍斗が心配なんだってば!今日だって調子悪かっただろ?ここんとこ、まともに弾けてないし、」 「なら、メンバー変えたら良いだろ。俺くらいのピアニストなんてごまんといるだろ」 自身の事とはいえ吐き捨てるような言い方に、孝幸はムッと唇を尖らせ立ち上がった。 「誰が変えるか!どんなに上手いピアニストが来ようが、お前とやんないと意味ないの!!」 ドンとテーブルを叩き、孝幸は立ち上がった。その大きな声は店の中に響き渡り、会話を楽しんでいたテーブル席の客達も思わず会話を止め、その視線は孝幸へと注がれていた。それに気づいた孝幸は、振り返るや否や顔を赤面させ、勢い良く一礼すると、慌てて席に座り体を小さくした。ほどなくして店の中が静かな賑わいを取り戻していくと、孝幸は大きな溜め息と共にテーブルに突っ伏した。 「バカだな」 「うるさいよ」 「…でも実際、ピアノなんて誰が弾いても同じだろ」 その一言に、孝幸は驚いた様子で顔を上げた。 「お前がそれ言うのかよ。全然違うって分かってるだろ。弾いてる人間が変われば当然、音は変わるし」 「…慣れれば同じだ」 「じゃあ、言い方変える。ピアノの良し悪しなんて別に関係ない、俺達は蛍斗と一緒に音楽やりたいの。俺達の気持ちまで否定すんなよな」 再びムッとした様子で、孝幸は唇を尖らせる。蛍斗はその目が見れず、視線を手元のグラスへと向けた。 「蛍斗のピアノが、俺達好きなんだよ。最初はそりゃ、上手いし、曲作れるし、イケメンな上に有名人だからってのはあったよ。でもさ、もう違うよ。お前のピアノに支えられてんだよ。蛍斗ってさ、メンバーの不調とか一番に気づくじゃん。ステージ上で、ヤベッてなってもさ、お前の音が支えてくれる感じすんの。それが、どんなに心強いか知らないだろ。普段は適当だけどさ、なんだかんだ良く見てるし、助けられてるよ」 「…俺は、そんな大層な人間じゃない」 思いの他、弱々しい声になってしまった。それが気まずくて、蛍斗はグラスをさっさとしまい、その場から立ち去ろうとしたが、「蛍斗はさ、」と続けた孝幸の声にその足が止まる。 「蛍斗はさ、自分の事認めないよね。蛍斗の事認めてないの、蛍斗だけだよ。蛍斗は、誰に認められたら納得するの?」 誰に、何に縛られているのと聞かれた気がして、胸が騒ついた。孝幸に向かって口を開きたかったが、喉がつかえたみたいに声が出ない。 孝幸はそんな蛍斗に何を思っただろう、カウンターに身を乗り出し、蛍斗の肩をぎゅっと掴んだ。 「俺達、もう運命共同体だからね。一緒に音楽やるんだろ?」 「…分かってる。あんまり騒ぐとまた変な目で見られるぞ」 やんわりと手が払われ、孝幸は蛍斗の表情に口を閉ざした。どこか無理をしているみたいな優しい表情、孝幸はその無理を取り払いたくて、笑いながら体勢を戻した。 「もう、照れんなよ!とにかく、力になりたいって話!これが今日の目的の二つ目!俺が代表して来たんだよ」 「はいはい、どうも。じゃあ用が済んだらガキはさっさと帰んな」 「年変わんねぇだろ!」 そんな軽口を言い合って、蛍斗は店の仕事に戻ってしまった。新たに来店した客の接客をしている。最近の蛍斗は、外面が良い。す聞くと聞こえは悪いが、無表情に接客をする事はなくなった。それも、ステージ上でも滅多に見せなかった爽やかな笑顔までついてくるのだから、驚きだ。 いつもだったら、軽口の一つや二つ出てくるのだが、さすがに孝幸も、今は何も言えなかった。 「本当、あいつって秘密主義よね」 孝幸にそう声を掛けたのは、|真実《まみ》だ。孝幸は同意して、再びテーブルに突っ伏した。 「俺、信用ないのかな?なんかあったっぽいのに、何も話してくれないもん」 落ち込む孝幸に、真実は少し考えた後、内緒話をするように孝幸へと身を寄せた。 「問題は、恋人にありそうなのよね」 「え、あいつ、付き合ってる子いたの?」 「私もはっきり聞いてないけど。その子も店に来なくなっちゃったし。その子に連絡しても、なんかはぐらかされちゃうのよね」 「その子と連絡取れるんすか?」 「友達だからね。あ、それがライブのチラシ?」 チラシが目に入ったのだろう、真実の言葉に孝幸は体を起こし、返事をしながらチラシを手渡した。 「よし、じゃんじゃん宣伝しちゃうよ」 「ありがとうございます!…あの、もう一つ頼まれて貰っても良いですか?」 窺い立てる孝幸に、真実は小首を傾げた。 あれから季節は秋を通り過ぎ、冬になろうとしているが、澄香(すみか)とは一度も会っていない。 接客を終えた蛍斗は何気なく店のドアを振り返った。 ロマネスクでピアノを弾いても、澄香が店に現れる事はなかった。 自分から突き放したのだから当然だ、そう思うも、胸の中の靄は晴れそうもない。 かといって、澄香の働くのきしたに行く勇気もない。どの面下げてと思うのと同時、澄香の顔を見るのが怖かった。今更どうにもならないのに、まだ何を望んでいるのだろうか。 ふと頭に過った仁と澄香の寄り添う姿に、胸が痛いくらい苦しくなる。 ピアノを弾く事が楽しくなった、救われた思いだったのに、喜んで貰いたい人はもういない。 この喪失を埋めるには、どうしたら良いんだろう。時間が解決するには、あとどれ程の時間が必要だろうか。 それが途方もなく先の事にしか思えず、蛍斗はただひとり耐える他なかった。

ともだちにシェアしよう!