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「か、帰る!」 「え?」 「耳が出たら帰れないだろ…!」 そこだけは小声になりながら、澄香(すみか)は警戒しつつ蛍斗(けいと)と距離を取って振り返った。 「…え、俺相手でも?」 澄香は以前、(じん)の前でよく耳を出していたと言った。仁は格好いいから緊張するんだと聞き、自分の前では常に平常心の澄香を見て、腹を立てた覚えがある。 そんな澄香が、自分の前で耳を出しそうだと言う。何だか信じられない思いできょとんとしていると、澄香は顔を真っ赤にしたまま蛍斗を睨んだ。 「当たり前だろ、す、好きなんだから!」 「言わせんな、まったく」とか何とかぶつぶつ言っているが、その他の事は耳にも入らず、蛍斗はその言葉の衝撃に、暫し呆然としてしまった。 好きな人が、好きと言ってくれた。言葉にすればとても単純な事に思えるが、蛍斗にとっては奇跡のような贈り物を貰ってしまったみたいで、その幸福に、上手く頭が働かない。 「…蛍斗?」 言葉を失った蛍斗に、澄香は心配になってその顔を覗き込む。 「澄香さん、」 目が合ってしまえば、蛍斗にはもう澄香しか見えなかった。揺れる瞳はきっと、どんな宝石よりもキレイで、それを今、澄香は自分だけに見せている。そう思えば、もう触れずにはいられなくて、蛍斗は引き寄せられるように澄香の頬に手を伸ばした。 「あ!蛍斗、ここに居た…」 突然割り入ったその声に、二人は驚いて互いに距離を取った。そして、建物の影から顔を出した人物を見て、蛍斗は脱力した。 「お、お邪魔だったね」 苦笑って誤魔化そうとするのは孝幸(たかゆき)だ。そのまま踵を返した孝幸だが、蛍斗に首根っこを掴まれた。 「鍵取ってくるから、ここにいろ」 「へ?じゃ、じゃあ俺が、」 「良いから!澄香さんに変な事すんなよ!」 「まさか~お前じゃあるまいし、」 笑えば睨まれて、孝幸は体を小さくすぼめた。そのまま蛍斗は関係者入り口から楽屋に駆けて行った。きっと、いたたまれなかったのだろう。 「すみません、変なとこ見せて」 「全然!こっちこそ、お邪魔…」 言いかけ、孝幸ははっとして口を噤んだ。これ以上気まずい空気は避けたい。 「あ、えっと、何か上手くいって良かったですね!あいつの演奏、今日は神がかってたでしょ?」 「うん、今までで一番、良かったです。それに、初めてユニットの曲聞いたけど、どれも格好良かった」 「へへ、あざっす!」 それから、ふと澄香は孝幸を見上げ、表情を緩めた。 「それに、ありがとう。孝幸君のお陰だよ」 「俺?」 「俺が観に来て良いのかなって、迷ってたからさ。孝幸君がチケットを渡しに来てくれなかったら、もしかしたら来れなかったかも」 「だから、ありがとう」と微笑めば、孝幸は感激した様子で瞳を潤ませた。 「そんな!俺こそ感謝してるんですから!澄香さんのお陰で、あいつがどれだけ人間らしくなれた事か、いでっ!」 バシッ、と後頭部を叩かれ、孝幸が振り返ると、そこには息切らした蛍斗がいた。楽屋から大急ぎで引き返してきたのだろう。 「変な事を大声で喚くな」 「か、帰ってくるの早くない!?」 「うるさいな、もう用ないんだから、あっち行ってろよ!」 軽い小競り合いの後、再び澄香を振り返ると、澄香はおかしそうに笑っていて、蛍斗はどこか気恥ずかしさを覚えつつも、その笑顔に見惚れていた。 ずっと、恋しかったその笑顔がここにある。そう思うだけで、胸がいっぱいだった。 それから蛍斗は、楽屋から持ってきた家の鍵を澄香に渡した。 「帰り道、大丈夫ですか?」 「うん、公一(きみいち)…のきしたの店長と、その彼女も一緒なんだ。二人共俺の体質の事知ってるから」 「そっか。じゃあ、なるべく早く帰りますから」 「待ってて」と、蛍斗は澄香の肩を掴むと、再びその体を反転させた。 「え、何?」 「そのまま行って。その顔見てたら引き止めちゃいそう」 びく、と肩が震え、澄香は再び帽子を深く被った。 「わ、分かった」 「…うん」 微笑んで背中を押せば、少しして澄香は振り返り、大きく手を振った。 その姿に、胸が温かくなる。 早く帰りたい。 帰ったら、また会える。 その単純な全ての事が、こんなにも幸せをくれる。 「お前もそんな顔するんだなー」 関係者入り口から建物内に戻ると、蛍斗を待っていたのだろう、孝幸が壁にもたれながら、ニヤニヤと蛍斗を見上げた。 「この事、」 「言わない言わない、まぁ、メンバーにはどうせばれてるんじゃないか?」 思わず頭を抱えたが、孝幸は楽しそうに笑うだけだ。気心知れた仲間達だ、孝幸が笑うのは、その辺の心配は不要だという事だろう。 「…今、良い顔してる。一時そんな顔してて、みんな安心してたんだ。でも、最近また落ち込んでたでしょ?だから心配してた」 「何それ」 「今のお前、ピアノ弾いてる時より、人間みたいな顔してるぞ。ちょっと前までは本当、人生捨てたような面してたもんなー」 孝幸は軽やかに笑って言う。蛍斗は思いもよらない言葉に、眉を寄せた。 「…俺そんな風に思われてたのか?」 「口では誰も言わないけどな。大事な人なら、ちゃんと大事にしないと。応援してるから」 今日は早く帰れるようにフォローするからと、肩を叩いてくれる孝幸に、蛍斗はそっと力を抜いた。 「…ありがとう、これからもよろしくな」 「何言ってんだよ、俺達はこれからだろ!」 そうだ、これから始まるんだ。もう一度。 蛍斗は笑って頷いた。

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