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一月三十日
集会から戻ってきた生徒たちが、それぞれの小さな群れを少しづつ崩して自分の席へと着く。一人ぽつんと立っている俺に話しかける人は誰もいない。最後に入ってきた老け顔の教師が、俺をすり抜けて教卓に立つ。
時計の横に吊られたスピーカーからチャイムが流れた。今日は二時間だけ授業をやって、あとでつじつまを合わせるようだ。俺は廊下のロッカーの前にずっと立っていた。みんな、俺のことが見えないらしい。透明になってしまったみたいだ。
気だるげに教科書を取り出して、薄い金属の扉を乱暴に閉めて去っていく。たった五分の間にまた教室に流れ込んでいって、最後に教師が入って、どかん、と音を立てて外と内を切り離す。
ロッカーにもたれかかる。触れるものがどれもこれも冷たい。無性に寂しくて涙が出そうだった。たった一枚、壁越しの世界が遠い。あちらへ行きたい。あの心底うざったい数学の授業を受けたくてたまらない。
絶望していた。もはや怒りも恨みもなく、悲しくてたまらなかった。ついにうずくまって、チョークがすり減る音を聞きながら泣きかけていた。そんな時だ。
「そんなとこで何してんのん」
突然話しかけられて、肩がびくりと跳ねた。見覚えのない男がこちらを見ていた。
答えずにじっと座ったまま、彼を不躾に眺める。派手な金の髪が額のあたりでぱっかりふたつに割れている。おそらくセットしたのではなくて寝癖そのまま。平均よりひとまわり小柄な体格に、着崩した制服がよく似合っていた。
「そんなとこおってもどうにもならんよ」
冷や水をぶっかけられたような気持ちだ。扉の奥から女教師の声がして、ざわめきがすっと消えていく。俺は廊下に座り込んだまま動こうとはしなかった。尻が冷たい。
しばらくすると男が隣に座ってきた。距離が近い。
「そない落ち込んで……」
と、少し困ったように眉を下げて、言葉を探すような素振りを見せる。ほんの一瞬嬉しくなったことが恥ずかしくなって、睨みつけた。
「放っといてもらえませんか」
「いやまあ放っといてもええねんけど、どうせ暇なんやったら、しゃべり相手になってほしいな思って」
「…………」
「俺も暇持て余してるねん」
どの教室からも、黙っている生徒の気配がひりひりと漂っていた。冬の朝。乾燥した空気が誰かの喉を鳴らしている。
「きみ名前は? 顔は知っとるで、あれやろバレー部の子やろ」
随分馴れ馴れしい男だった。不快だとひけらかすように顔を歪めても、声の調子を全く変えずに話しかけてくる。こういうタイプ、嫌いだ。なあなあなあ、とあんまりしつこいので、仕方なく折れる。
「……佐々木 です」
「佐々木くんか。ええやん」
なにがええんでしょうか。呟いたが、特に返答はなかった。彼は響きを確かめるように何度か繰り返す。
「なあ佐々木くん、きみは恋してるん? ……なあ」
人懐こい笑顔をどんどん寄せてくる。俺は乱暴に立ち上がってその場を離れる。さすがに、ついてきたりはしなかった。
一月三十一日
学校に行きたくなかった。家にもいたくなかった。それでふらふらと気の向くまま、通っていた小学校を見に行った。
夕陽がきつい。机も階段も何もかもが小さくて、ドールハウスのようだと感じた。卒業してからしばらく経つがうさぎ小屋にはまだうさぎが居たし、生臭いカメも、名前も分からない魚も生きていた。
ついでに中学校も見に行くことにした。記憶が近いからか、懐かしむ感情が、先程よりも穏やかでしっとりとしている。たかだか三、四年前まではここに通っていたのだ。犬だらけの家の前を通って、車一台分の幅しかない道路を渡って。変化なんて床屋の看板がおしゃれになったくらいか。斜めに歪んだ門をくぐると足がグラウンドへ向かう。毎朝毎朝よく飽きもせず、十五分走っては教室に滑り込んだものだ。
仲の良かった友人、部のなかでも一等べったりくっついていた奴らがいたのを思い出す。五人はそれぞれ五つの学校に分かれた。ひとりは工業高校、ひとりは高専、あとはそれなりに近い高校へ。そういや、あの五人の中でも抜群に賢かった彼は、先日部活で表彰を受けたそうだ。メッセージアプリのプロフ欄で知った。
「……うわー……」
本当に偶然、自分の使っていた机を見つけた。先人が残した謎の彫りあと。この角を爪でぐりぐり押しながら授業を受けていた。特に英語の時間。親指の細胞があのへこみをまだ覚えている気がする。
黒板消しの紐はちぎれたまま。傾いていた時計は新しいものに替えられている。教室の後ろの掲示板には見知らぬ苗字が並んでいた。もう知っている後輩はいないけれど、教師はどうだろうか。顧問に会いたい。こうして思い返してみると、平凡ながら満たされた日々だったように感じる。今よりも更に狭い世界で、呑気に、幸福に。
もう名前も覚えていないクラスメイト、進路も知らない友達、声やら顔やらが断片的に浮かんだ。窓枠に積もった埃をそっと吹く。
二月一日
窓辺に寄りかかってそれぞれのおしゃべりを眺める。休み時間に入っても誰もこちらを見ない。ただ彼だけは唯一目を合わせることができた。金髪のあいつだ。それでスッポンのように、一度捕まえたら逃さないとばかりにやって来て、半径一メートルの範囲をウロウロし始める。
「やっぱり孤独っちゅうのはあかん。あかんわ。よろしくない。どんなに億劫でも人と関わらんことにはな」
今日は一切返事をしていない。完全に無視しているというのに、まあ放っておいてもよく喋りよく笑う人だ。愛嬌のある部類の顔だが、目だけは妙にぎらぎらと、星の燃えるように光っている。
「いや、しょうもないで。なんていうか腹たつけどやな、結局人は人と関わらなあかんのやなって思ったんよ。俺がここに至るまでにそれはもう長い長い時間が要ったんやけど、聞いてくれるか? どっから話したらええんやろ」
「……あの、あなた」
また折れてしまった。ずっとこの調子で話しかけられているとノイローゼになりそうだった。彼はニコッと音が出そうな笑顔を浮かべる。
「俺多部 」
「多部さん」
「さん付けはまだだいぶ距離あるなぁ」
あるに決まっている。つい目と鼻の先で女子が髪をほどいた。清潔な、甘い香りがする。
「多部さん、頼むから、放っておいてくれませんか」
声が震えた。うなじに差し込む弱々しい陽射し。爪の先がかじかんでいる気がして、俺は手を擦り続ける。しもやけのあの皮膚の張るようなぴりぴりした痛みはもはや感じられない。
あちらこちらで話題が生まれては死んでいく。どこにも入れなくなると、ただの日常が途端に目まぐるしくて難解なものに思えた。今までこんなノイズの中で、当たり前に生きていたのか。
「……わかった」
と、案外あっさり了承して多部さんが去っていく。ほんのふた呼吸のうちにあんなに遠くへ。ぷらぷらと手を振った彼が勢いよく閉じる引き戸で見えなくなる。
教室の入り口でふざけて遊び回っている男子数人、知った顔ばかり。胸元の名札はちぎれかかっている。俺は静かに目を閉じた。雑談が遠くなっていく。特に興味も湧かないざわめきがずっと胸のなかを廻って苦しい。
ぼんやりと温かい冬の陽射しを背中で感じる。
二月二日
今日は家の中をずっと眺めていることにした。
情けないが今は、人をただただ見つめ続けるくらいしかやることがない。「趣味は人間観察です」なんて最高に痛々しくて趣味が悪いと思っていた。まさか俺がやることになるなんて。
父は会社へ行って、母は洗濯物を干して、弟は薄暗い部屋に寝転んで携帯を触っている。空は青、穏やかな午後だった。
昼寝から起きた弟が、薄汚れたおさがりの鞄から教科書を取り出して勉強を始める。ずっと、直視することが怖かった。弟はやはり痩せていた。それで、頭痛がするのかつらそうに目頭を押しながらも、ノートになにか書いては黙って思考している。
弟とバドミントンをしたいと思った。俺よりも彼の方が遅く帰ってきていた。塾帰りの彼と、薄暗くなってきて風も強い時間帯に、続かないラリーをするのが好きだった。弟の息抜きなんて名目ではあったが、実際俺もそれに救われていて、二人で懸命に笑うことがある種の儀式だった。週七の日々に勝つために。風呂のようなものだった、と思う。
「葵」
母の呼ぶ声がする。返事をして、彼が部屋を出ていった。昼飯は前よりずっと少なく見えた。それでその小鉢を空にすることもできずに、弟がまた戻っていく。母が食べ残しをフライパンの中に注いだ。だらだらと零れていく煮物を見ると気が滅入った。
それで、和室の机の傍でふと立ちくらんだのか倒れかける。
「母さん」
貧血なんじゃないだろうか。思わず声をかけた途端、母の顔がぱっと上がって、それからぼろぼろと大粒の涙が溢れだした。いかにも大阪のオカンらしい明るい母だ。呆然として、自分が泣いていることもわかっていないような顔で、大きく肩を震わせている。
今すぐにこの場から逃げ出したくなった。こんなところ見たくなかった。苦しくて、息が詰まって、キンと耳が鳴るような。心臓から順に体温が上がっていく。母は息を殺して泣いて、怒りに似た体つきで立ち上がった。奮い立たせている。涙に押し負けぬように生きている。
ついに俺は逃げて、弟の部屋まで戻った。ある晴れた昼下がり、ただ静かにペンが走る。
二月三日
平井には、不機嫌になると手をぎゅっと握るくせがある。人や物を殴るでもなく、たぶん自分の手のひらに短い爪を食い込ませて耐えるのだ。
「気ぃ悪いわ」
と彼が呟いた。瞬間、場の空気が凍る。
「……すまん」
野次馬根性たくましい男が、見せびらかしていたスマートフォンを気まずそうに仕舞った。それで逃げも隠れもできずに立ったまま平井の顔色を伺っている。ほんの五分しかない休み時間が地獄のように長い。
四人は先ほどまで、先週アップされた「グロ注意です!」の画像を見ていた。うちの制服だとわかる程度には鮮明だ。たぶん、全校生徒の九割くらいはこの画像を見た。教師もだ。
入学してから度々、SNSの使い方について講習を受けさせられたりアンケートを取られたりしたものだが、効果は無かったのだと思う。瞬く間に広まったそれはきっと長い長い時間電子の海を漂い続けるだろう。
「せやけど、その一年の女の子はリツしただけやろ? 別に、主犯やないっていうとおかしいけど。普通に怖かったんとちゃう」
黙っていた高田が呟いた。結構わかりやすい。話の矛先をずらそうとしている。平井はそれを無視して、刺すような視線を男に向けた。
「ハルやから気ぃ悪いんとちゃう。こういう場面で写真撮んのも、ネットに上げんのも、俺は心底気色悪い思う。正義感とかの話やない。神経が気色悪い」
普段はそれなりに穏やかなやつなのだ。それがあからさまに喧嘩腰なので、男ふたりはさすがに鼻の形を歪めて、「ダル」と吐き捨てて去っていった。高田もどんよりした顔で離れていく。チャイムが鳴ってもなお、平井は静かに拳を握っていた。匂い立つような怒気に見ているこちらがヒリヒリしてしまう。
二月四日
放課後。俺はまとわりついてくる多部さんを追い払おうとしながら、つい流されてぐだぐだと話していた。だって犬のように尻尾を振って懐いてくるから、蹴るわけにもいかない。愛嬌は狡い武器だ。
廊下を歩いている途中、花瓶を持った男が向こうから歩いてきていた。同じクラスの林くんだった。毛量が多いせいか黒縁眼鏡のせいか、どこか冴えない、垢抜けない生徒だ。確か滅茶苦茶頭がいいらしい。
「あれ」
林が二人のそばを通り過ぎていく。表情は真剣そのものだった。思わず多部さんと目を合わせて振り返る。薄暗い、不気味な雰囲気のする廊下を三人で滑っていく。
茎の太い花を取り出して、錆び付いた蛇口をひねって、花瓶の外側まで洗う。新しい水を注いだ。そこに華奢な淡い黄色の花をさして、水をぽたぽた垂らしながら来た道を戻っていく。息をひそめてそれを見守った。コンクリートに点々と染みができる。
林はある教室に入って、思い出したように取り出したハンカチで花瓶を丁寧に拭った。美しい仕草だった。机の上にそっとそれを置く。ある種の神聖な空気が漂っていた。
俺たちはなんとなく入口で隠れて、息を止めて彼を見ていた。彼がひとつ置かれていた鞄を持ち上げて、時計を見て、慌てて去っていく——途中で、突然振り返った。びくっと肩が跳ねる。
が、彼が俺たちを見つけることはなく、そのまま教室から出ていった。冷たい汗が噴き出す。
「びっくりした……」
「あの子」
多部さんはいつになく真剣な目で花瓶を見ていた。林が振り返ったことに気づいているのかも怪しい。
「お兄さんおるやろ」
「……さ、さあ」
「前に似た顔見たことあるわ。それでか」
一人で勝手に頷いている。俺がその先を聞こうと黙っていると不意に黒目がこちらを向いた。どきりとした。
「前にあの子、校舎裏でえらいいびられてたから」
多部さんは立ちすくんだまま、唇を押してじっとどこか床の一点を見つめる。黙ってみてやっと思いのほか整った顔立ちをしているのがわかった。ずっと黙っていればいいのに。
二月五日
完全下校の時刻が今日から更に早くなる。俺はひとりぽつねんと残って、ただただ空想ばかりしていた。学校を練り歩いてなにか目につく度に気持ちがずるずると落ちていく。
例えばあの曇ったガラスケースの中に、卓球部のトロフィーが飾られている。今年の代は相当強かったらしい。確かショートカットの、居るだけで空気がぴんと張るような美人がいて、彼女がまた鬼のように強いとか聞いた。一度同じクラスになったことがあるから、その凜とした横顔はよく覚えている。
夕陽が網膜を舐めていく。センチメンタルを強制するように、名残惜しさを焚きつけるように、いやらしいほどのオレンジで視界が鈍る。導かれるままに切なく、大人しく傷つくばかりの心である。
廊下がじわりじわりと冷えていくのを眺めていた。ふと高いところに行きたくなって、階段を上っていく。
「お。佐々木くんみっけ」
にゅん、と踊り場から黄色い頭が生えてきた。
「……どうも」
「おっ、ちょっとフレンドリーになってる」
彼は隣に座りはせず、俺の目の前でくるくる回ったり揺れたりしていた。ダンスと呼ぶにはへたくそだ。踊り場は踊る場所ではない。どうツッコむか悩んで、諦めて、小さな窓から外を眺めた。女子生徒が寒そうに身を寄せ合って歩いていくのが見える。遠くの住宅街、坂の上の教会、ローカル線、全てが夕方色に染まっている。
「夕陽見ると、アホみたいに切ななるの、なんでですかね」
ぼそぼそと、思えば今日初めて声を出そうとしたから、酷く根暗な呟きになってしまった。軽く咳払いをする。
「タマネギ切ると涙出るみたいなことちゃう?」
適当さを隠そうともしない口調だ。アホか、とつい言いかけて、一応年上っぽいのを思い出した。
「そういうもんっすかね……」
「そういうもんよ、そういうもん」
なんともガサツでいい加減な物言いだった。それがまた不快ではなかった。変な奴。でも、どこか懐かしい男だ、なんて思う。
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