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二月六日
夕方。彼は中庭にいて、予想通りベンチの上でごろりと寝転んでいた。
「おつかれー」
家のようにくつろいだ格好でゆるい声を返してくる。たぶん、彼はもうこちらを友達認定してきている。わざわざスペースを空けてくれたので隣に座った。
「秋って空が奇麗よな」
と彼が呟く。瞳に薄紫の雲が映っていた。つられてぼんやりと、何をするでもなく空を見上げる。
背骨が痛い。部活を引退してからついつい猫背気味になっていたので、顔を上げるだけで体が軋んだ。彼のため息は軽く浅く、場を沈ませるようなものではない。そこから始まる鼻歌を聴いた。綺麗な歌声だった、少し前に流行った歌だ。左右に揺れている彼が視界の端に入って、小学生の時に集団下校で一緒だった女の子が、歩くたびにポニーテールを揺らしていたのを思い出した。
「……最後の晩餐ってさあ、やっぱステーキがいいかなとか思うやん。でもちょっとおもんないやんな。いや、いや別におもろいこと言いたいわけではないねんけどさー、思い出の食べ物とか、とんでもない大好物とかあらへんしさ、普通にすげーうまいステーキとか食うてみたいなあ」
とぽつぽつ囁きだした。多部さんはたぶん黙ったら死ぬ人だ。思いついたことは全部そのまま言う。いつの間にか、俺の思考も同調していた。
「焼きおにぎりは結構上位ランクインやけど、別に、死の間際に食いたいとかでもないやん」
「あー」
「いや待って。焼きおにぎりって自分でうまいこと作れた試しないかも。うん、ないわ。俺が好きな焼きおにぎり、冷凍や」
「美味いですよねあれ」
「なあんで焼きおにぎりってうまくいかんのやろなあ。毎回コゲコゲのガチガチになってまうんよ。甘じょっぱがうまくいかん。チーズとか乗っけてみてもさあ、もうそれは焼きおにぎりではないやん。チーズやん。いやチーズ好きやねんけど美味いけど、なんか悔しない? 負けた感じするやん」
「……わからんでもないっすね」
しばらく内容のない話をした。ここ数日の中で、今が一番穏やかな時間だと感じた。多部さんの、本当に非常にどうでもいい言葉を聞いていると気が軽くなる。動画サイトで「興味のない動画だけど流れてきたのでなんとなく見るだけの時間」に似ている。あれがなんだかんだ楽しいのだ。
「鼻かゆ」
と、本人は特に楽しくなさそうに顔を尖らせている。
二月七日
日曜日だが今日も多部さんは学校にいた。なにか話がしたかったのだが、いざ会うとそれが何だったか思い出せない。喉が粘る。
「俺たまごサンド好きなんやけどさ、あれ自作すると意外と面倒くさいんよね。卵を茹でるって、もうそれだけでむちゃくちゃ面倒くさい。あっあれやで、卵焼きをサンドしたやつやなくて、ゆで卵にマヨかけて混ぜたやつをサンドする方な」
部活動に励む生徒たちを肴に、グラウンド端、体育の授業を見学するようにちょこんとふたりで座り込む。時々飛んでくる硬球を拾いにやってくる一年坊主。倒れかけているトンボ。砂埃が目に入ってきそうだ。
「ほんで卵茹でんのってもう、面倒臭いのよ。鍋ってもう……面倒なんよね。もう鍋……茹でるだけならともかく、洗うこと考えるともうあかんのよ」
「てか、先輩家事するんですか」
訊いてみると、少し誇らしげに微笑んで、
「やるやる。結構好きやで、料理。片付けが鬼のように嫌いなだけで」
「へー。意外っすね」
「そう? まっ、モテる男の嗜みや」
なんて囁く。ここで彼が醜ければギャグになるのだが、別に汚くないからなんとも言えない。薄い唇、きっちり二重になった瞼、男くささのない眉。別にイケメンでもないがどちらかといえばモテるだろう。
「…………ええ天気ですね」
返事をするのが面倒くさい、というのを隠さずに言った。
「もうちょっとしっかり拾ってくれてええんやけど」
「洗濯日和っすね」
信号機の色が変わる音が間抜けに響いた。空をぼんやり見上げていると、吹奏楽部の合奏が始まる。微妙に流行り遅れのヒットソングは、保護者たちも楽しめるようにといった配慮だろう。それに合わせてまた多部さんが鼻歌を歌う。
「パスタとかも作らはるんですか」
「ツナマヨスパゲティなら。モテるやろ?」
歌を止めて、ふふっと自分でくだらなさそうに笑う。愛嬌たっぷり。わりといい人だな、なんて思った。ええ天気ですね、と繰り返す。
「おいおいお~い」
気の抜けた炭酸飲料のような声が返ってきた。
二月八日
寒さでぴりぴりと指先が痺れる。冬はどうしてこう、少し気を抜いた隙に暗くなるのだろう。夜の侵食が異様に早い。人の気配がなくなると、ただのチャイムだって途端に物悲しく聞こえる。
「佐々木くん帰んのん?」
彼は時々「き」を抜いて、ささっくん、と跳ねるような呼び方をする。今回もそうだった。子犬のような瞳でほんの僅かに上目遣いをして。
「別におっても何もすることないでしょ」
「いてくれるだけでいいやんか」
あっさりと、そんな耳当たりのよいことを言う。
夕焼け小焼け。町中を包み込むおんぼろの音。俺の家の周りで流れるのはエーデルワイスだったから、今でもあの曲で無性に寂しくなるようにできてしまった。ここの子供たちは、夕焼け小焼けを聞く度に同じ思いを抱くのだろう。
多部さんが指先をぱたぱた叩いて、つまらなさそうに揺れて、静かに目を閉じた。子供のまま、間違えてここに来てしまったに違いない仕草だった。
「寂しいやん」
それを、口に出して言ってしまえるのか。凄まじい素直さにうっかりよろけそうになった。寂しいなんて、高校生にもなって。
「またすぐ会えるやないですか」
俺はいつの間にか前かがみになって彼をなだめていた。兄弟にでもなったような気持ちになった。向こうの方が年上なのに。それでまた、弟のことを思って息が詰まる。
「……明日は何します?」
会話を延ばして、ほんの五分のつもりで話した。言った二秒後には全部忘れるようなどうだっていい話。黒板の上の時計が進んでいるのを見なかったことにした。ひとりでいるより圧倒的にはやく時間が進んでいくのが、今はとにかくありがたかった。
二月九日
昼下がり、空は灰色。雨は降っていないけれど、土がわずかに湿っているのを感じる。おはようさぁん、と暢気な声がした。彼っていつでも寝坊の後みたいな喋り方だ。
「どうも」
「なんや元気無いな。どないしたん」
気づくのが異様に早い。少し驚いて、思わず凝視してしまった。促すように微笑んでいる。
別になんでもないと言ったものの、どうしようもなく陰気な響きが漏れ出てしまう。困っていると、多部さんは「どっか行こやー」とまた俺を連れて歩きだした。グラウンドの端か、中庭のベンチか、屋上か。あいにくの天気のせいで選択肢は少しずつ消えていく。
「せや、ここもお気に入りやねん。ほら、良くない?」
と彼が腰を下ろす。職員室の窓際だった。
コーヒーの匂いと加齢臭をエアコンが混ぜている。静かだけれど全く静寂とはほど遠い。たくさんの指がキーを叩く音。
「……全然落ち着かないんですけど」
チャイムが鳴り、昼休みに入ると待っていましたとばかりに生徒がなだれ込んできた。狭い廊下に密集して、先生、先生、とあちこちで声が上がり、呼ばれた者は次々立ち上がって出ていく。
俺たちのちょうど頭上で、時計の針がカチカチと動き続けていた。
「受験前やからか」
とぽつり呟く。教科書、参考書、赤本とそれぞれのパートナーを片手に、みんなどことなく余裕のない顔つきをしているように思えた。林の姿もあった。ちょっと先入観も混じっていると思うけれど、やはり眼鏡の生徒が多い。
さあ入れ替わり立ち替わり、ドアが開いたり閉まったり、部活動の途中だったりマフラーを付けたままだったりする生徒が目まぐるしく回転していく。ほとんどの教師が廊下まで出ていって対応していた。自分のパソコンの前に余っている人は少ない。
「気ぃ紛れるやろ?」
多部さんがふふんと笑う。余裕綽々どこか達観した様子で、腕を組んでじっと彼らを見ていた。まあ実際他人事なのだ。あのキリキリと脳細胞が萎む空間は、俺たちにとってもう二度と戻れない場所になってしまった。
彼のすぐ隣で教頭が珈琲を淹れる。副教頭だっけ。その寂しい頭を冷やかす多部を見ていると確かに気は紛れた。苦い香りが鼻をつく。
二月十日
「なんか懐かしいな。すっごい大人やと思っててんよ、好きやった先輩。すっごい大人っぽくて綺麗で格好いいなぁ思っててんけど、ほんまはなんか無理してたっていうか……なんか、ならざるを得なかったんやろなって思うとちょっと悲しくなるっていうか、なあ」
遠くを見て静かに語る。今日は、多部さんがやたらと恋バナを求めてくるものだから、逆に彼の話を聞き倒すことにした。いつもの能天気な顔つきが途端に哀愁めいて、どこか切ない響きの声に変わるのが面白かった。
この歯茎の痒くなる雰囲気も随分久しぶりだった。楽しいけれど、もうすっかり外も暗くなってしまったし、いい加減に帰らないといけない。俺が会話の切れ目を探していると、
「なあ、今夜一晩喋ろうや。泊まりこみで」
と多部さんが提案してくる。
「いや駄目でしょ」
「なんでぇ、駄目もなにも無いやろ。良くない? そういうのやってみたいやろ?」
決め打ち。あの手この手で唆されると、ちょろいもので、段々と夜の学校を見てみたいような気がしてきた。俺が少しでも悩んでいるのを嗅ぎつけて多部さんは更に乗せてくる。馴れ馴れしく肩を組まれるのにも慣れた。
「夜の学校で一晩中語り明かすって良くない? 青春っぽいやんか。やったことないやろ。何事も経験やでぇ?」
ツンツンツンツン頬を突かれる。薄暗い曇天のせいで、徐々に校舎に不気味な雰囲気が漂い始めていた。けれど、それでも家に帰りたくない。
「俺は恋多き男やからいくらでも喋れるで。マジで一晩中喋れるわ。あ、でもお前も一個は言うてよ?」
早速俺の手を引いて、どこが一番ふさわしいかとロケーションハンティングに繰り出す。
「恥ずかしいから、お願いな」
付け加えて、情けない顔で笑った。背徳感と期待で胸がドキドキ鳴っている。ぱらぱらと降り出した雨が窓を濡らしていた。
二月十一日
修学旅行を思い出した。まだ幾らかよそよそしかった相手と同じ場所で眠るだけで、魔法のように距離が縮む不思議な日々、あれによく似ていた。無事に一晩を越えた多部さんと俺は今日もだらりと共に過ごしている。
久しぶりの大雨で校舎内はすっかり冷えてしまっていた。昇降口もいつもの倍は汚い。埃が湿気を含んで重たくなっていた。
「雨やと余計に暇やなあ」
多部さんはもちろん周りの目など気にせず存分にくつろいでいた。階段に膝を乗せてのごろ寝。その横で俺はリクライニングのような半端な姿勢に落ち着く。
「漫研の原稿覗き見しに行ったりしよか。ごめんあそばせーっ」
「いや駄目ですよ」
「なんでえ」
「いやなんか……可哀想やないですか。見られたくないっぽいし」
中学生の頃、教室の隅でいつも何かに怯えるように手元を隠しながら絵を描いていた女子がいたのを思い出した。そのノートを取り上げて大笑いしていたのが数人いた。不明瞭な記憶だが、あの時に彼女がひどく、大袈裟に見えるほど震えていたことは今でもよく覚えている。
「真面目よなあ。悪口とかちゃうで、えらいなぁっていうあれな……きみはほら、女湯覗いたろ! とか思わんかったん」
と言われてそこではっとした。ザザアと頭の内側が濡れる。
「考えたことなかった」
「マ〜ジでぇ? 俺第一に考えたで! ってかまずはそこやろ、健全な男子高校生ならば! チンチン持って生まれたからにゃ夢みるものは皆一つ、やんか。我ながら良い口上作ってもたな」
多部さんは元気に己を指さしてびょんびょん体を跳ねさせる。俺が唇を尖らせてしょんぼり黙っていると、しまった、みたいな顔をして慌ててフォローに回る、けれども言葉が思いつかないらしい。本当に愉快なほど何もかもが顔に出る人だ。
「あっいやもう、素晴らしいでそんなん。純粋いうかぁ、こう、正しいねんよ。全然それでええんやで、人として正しいっちゅうか、あの……うん……」
「今度覗きに行ーこお」
「いや良心のカシャク見せろや!!」
手のひらを返すとすぐツッコミに回ってくれた。ヘッタクソ。多部さんの方がよほど純粋だ。
二月十二日
「暇ぁ?」
ギャルのように言いながらまたひょっこりと彼が現れる。今日で実力考査も終わり、午後は長い時間をとって部活動に打ち込めると生徒の顔はどれも潤っている。乾いたやつはもう帰ったのだろう。
「暇ですけど」
「ほんならさあ、自販機行こ自販機」
多部さんはへたれたTシャツの首周りをカリカリとハムスターのように掻いて、ついてくるのが当たり前だというように振り返りもせず行ってしまう。いや、決して威圧的な態度ではないけれど。
中庭まで降りていって、擦り切れた赤色の自販機の前にふたり座り込む。
「誰が何買うか当てるゲーム!」
ぱん、と手を叩いた。
「というわけでね、早速。意気込みは」
「ええ? はあ、あー、まあ頑張ります」
「ほな張り切って参りましょーう第一問」
なんともゆるいバラエティー番組が始まってしまった。そこからぼんやり二分待って、やっとひとり自販機目掛けて走ってくる。野球部だろうか、似合わない丸刈りはまだ青々している。
「ポカリン」
「……水?」
「自販機で水買う野球部とか貴族やん」
ぼそぼそ言いながら誰が使うやらわからない黄ばんだベンチにふたり腰かけた。彼は太い指で軽やかに小銭をつぎ込む。
ガシャコン。
「マジで? グラウンドで飲めや。タダやぞ、タダで飲み放題やぞ」
多部さんが横で文句を言っている。テレビの野球に文句を言う父親のようだった。思わず口の中で笑うと、二三度視線を向けられる。
重ねて文句を言おうとした多部さんより先に、すらりと背の高い女子が歩いてきた。
「安藤さんや」
「へー、安藤さんって言うんやあの子」
クラスのマドンナ。学年で最も麗しい女子のひとりである。立ち居振る舞いもさることながら、その目の大きさ力強さは他と一線を画していた。どこだったかのハーフらしいと聞いたことがある。睫毛で人を刺し殺せそうだ。
「ココア。ココアやろ。ココア、絶対ココア。冬、女子、ココアやそんなん」
「オレンジジュース」
ココココうるさい多部さんの声を聞きながら、彼女の仕草に見惚れた。動きは美しくて隙がなく、陸上で鍛え抜かれた脚はしなやかで、指先まで白く凛としている。天然パーマの明るい髪が風になびいた。
ガシャコン。
「……普通~」
しゃがみこんで、緑茶を取り出した彼女に女子が声をかける。すると突然その顔つきが柔らかくなって、さっきまでの殺伐とした美しさは変貌して。フランス人形がコッテコテの関西弁で話しはじめるのだ。良い意味での期待はずれ、いわゆるギャップか。
「ココア似合う顔やのになあ」
多部さんがまだ不満そうに呟いている間も、俺は彼女の笑顔を見つめていた。鋭い犬歯まで可愛らしく見えるのだから不思議だ。
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