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二月十三日
弟が誰かと電話をしていた。恐らくは、あのやかましい生徒会長くんだろう。うちでコーラをぶちまけた奴だ。範囲がどうとか内心がどうとか、実力考査の話をしているらしい。
「うん……ありがとう、ほんまありがとう」
と返事をしながら目頭をつまむ。中学生とは思えない、中年窓際サラリーマンみたいな仕草だった。ぐったりと机の上に這い、ひどく痩せて、それでもシャープペンシルを握ったまま離さなかった。液晶画面を見ながらメモを取っている。
「行かんと、さすがに」
ぽつりと呟いた。電話相手が、無理すんなよ、と撫でるように言ったのも聞こえた。弟は電話を切って、荒れた肌を掻きながら息をつく。積んだまま置いてあったジャージを片手に部屋から出ていった。
弟はしばらく風呂から出てこなかった。その間、父が酒を飲んでいるのを観察した。一、二回見たことがあるかないかといったところだ。父は飲んでも気が大きくなったり暴れたりすることはなく、ただ体調が悪そうになるだけで、コップ半分ほどで茹だったように真っ赤になりしんどいと言って寝る。見た目通りすこぶる大人しい大人だ。
父は、砂糖まみれのナッツをハムスターのように齧っている。その隣で母もいくらか飲んでいた。母の方はまるで顔色も変わっていない。テレビ画面の中が盛り上がれば盛り上がるほど、リビングは冷たくなっていく。
風呂上がりの弟が、母の隣にちょんと座った。それでつまみをひとつ食べてみる。
「俺、水曜から行くわ」
心配そうな瞳がさっと集まる。ポリポリリとナッツを砕く音が三人分重なった。
「テストあるから」
濡れた髪を母の手が丁寧に丁寧に撫でた。無理をするなと返事がくる。父が静かに、
「うん」
と呟いたのが、バラエティー番組の効果音に掻き消された。
二月十四日
多部さんが随分と古いヒットソングを歌っている。時事ネタだ。今日の彼はなんだかんだでずっとバレンタインの話ばかりしている気がする。
「俺もフォンダンショコラ作ったりしたなぁ」
と遠い目をして呟いた。というと、チョコがどろりと溶け出してくるケーキか。そういや料理上手と言っていたけれど。
「自作自演用ですか?」
「いや遠慮無くなりすぎちゃう?」
ふっふっ、と零すと多部さんもつられて笑っていた。ああ日曜日の午後。暴力的なほどに穏やかな風。
「食べたかったの。普通に食べたかっただけやもん。ちなみに失敗した。なんかポソポソになってもて、口の水分なくなるマシンになってもうた」
「あらー」
「お前は無いん、逆チョコとか無いん」
多部がしつこく追ってくるから、つい口が緩んで、という体で白状してしまうことにした。
「作ろうとしたことはありますよ」
これは誰にも言ったことのない初恋の話だった。あの子の家の洒落たポストを思い出す。それから後片付けの苦しみも。ギトギトになった泡立て器やらボウルやらを必死で洗った深夜二時。
隣で下衆た笑みを浮かべている多部さんをちらりと見た。ふたりのそばを鳩が堂々横切っていく。
「……作ろうとしたけど……なんかキショなってやめて、板チョコ買い直して……一日中、どこに入れようか考えて、でも放課後になっても家まで行っても、結局渡せなかったんです」
「甘酸っぱぁー!」
かーっ、と酒をかっ食らう振りをして首を大きく薙ぐ。彼のリアクションはいちいち古臭くて、なんというか昔の芸人っぽい。
「何作ろうとしてたん。相手どんな子なん」
と彼が手すりにもたれかかったまま振り返る。俺は視線を眼下の街並みに向けたまま、ぼそぼそ呟く。
「普通に溶かして固めるだけっすよ。……クラスメイト」
多部さんのねちっこい相槌を聞きながら、ほんの少し憂いげな目つきで車の行き交いを眺めた。一定の時間ごとにパッポーパッポーと信号機が鳴る。日に焼けた看板が並んでいる下をゆっくり他人が歩いていく。
「多部さんはどうなんすか。無いんすか甘酸っぱいやつ」
「ええ~まだ言ってないやつ? もうほとんど出してもたよぉ手札」
「言うたやつでもええから」
乱暴に肩をぶつけて急かすとまた彼が話しはじめた。手札がないなんて大嘘で、やはり聞いた事のない話が飛び出す。次第に身振り手振りは大仰になり口が止まらなくなる。さしずめ俺は油差し、彼はブリキ男といったところか。
その奇妙できちんとオチがある話を聞きながら、頭の中では初恋のひとが何度もフラッシュバックしていた。
二月十五日
朝早くから登校している生徒が妙に多い。ひっそりと想いを贈る女子たちと、昇降口で少し挙動不審になる男子たち。机の中をそっと探ったり、呼び出したり呼び出されたりと学校中が色めいている。月曜日、実質バレンタイン当日だ。
屋上の手前、いつもは人気のない四階階段の踊り場も告白スポットと化していた。俺と多部さんはこっそりとあらゆる現場を覗いては勝手に応援して騒いでいる。
「きたきたきた、いける、頑張れ!」
「あいつさっきも貰ってましたよね」
「嘘っマジで? うあ~どっち選ぶんやろこれ」
——僅かな躊躇の後、マスクの下から、ごく丁寧な断りの文句が出てくる。なんとか食い下がって話し合って、受け取るだけ受け取る、という形に落ち着いた。それで、気丈に振舞っていた女の子が、彼がいなくなると、ぜんまいが切れたように膝を抱えて座り込む。
「罪な男やでほんま」
言いつつ、多部さんは心配そうに彼女を見ている。
「振るくせに受け取んなや……なあ? でも渡させてすら貰えんよりは……いやでも、俺はきっぱり断れやって思うけどな」
「……渡せなかったチョコ食べるのつらいでしょ。捨てたりとか」
「それはそうやけど……」
ボソボソ喋りながら窓の外を覗きにいく。と、中庭に女の子が一人立っていた。安藤さんだ。あのお人形みたいに可愛い女の子。
そこに焼けた肌と高い身長がよく目立つ男が歩いていくのが見えた。平井。バレー部の部長、目鼻立ちのきりっとしたイケメンである。喋ると意外とぼんやりぐうたらしている。
「お似合いやなぁ」
と呟いたのがぐさりと刺さった。チョコを渡す前から親密そうに話している二人を見る。美男美女。明言されてはいないが、平井が彼女に好意を寄せているのは知っていた。うまくいっているっぽいのも。彼はベンチの裏にわかりやすく隠れていた友人たちをバシバシ叩く。
「裏庭あたりも見に行こや」
多部さんに腕を引かれても行く気になれなかった。黙って立ち尽くす俺を見て、感じ取ったのか、彼も黙ってすこし距離を取ってくれた。
今更ショックを受けることもないのに、どうしてか一歩も動けなかった。
二月十六日
多部さんが使われていない手洗い場に座りながら言う。数十年分蓄積している水垢は気にならないらしい。
「佐々木くんはさあ、未練とかないん?」
壁にもたれかかって、さほど興味も無いように。俺はその向かい側、こちらも古臭い階段に腰かけていた。四階端、コンピュータ室のそば。コンブもといコンピュータ部以外には馴染みのない、影の薄い場所だ。
「……たぶん、無くはないけど……」
呟きながら思い出してみる。いくつか心当たりがなくもない。一番最近に思ったのは、まだあの水曜ドラマの結末を見届けていないことだった。サスペンスとラブコメの混ざったようなやつ。恋とかなんとか言ってる場合か、と思わず突っ込みたくなるようなあれが自分は結構好きだったのに。
それから今の恋。あとは、まだあったような気がするけれどいまいち思いつかなかった。もともと俺に大義や野望は無く、人のいるところになんとなく首を突っ込んでいるだけだったから。
「どうせやから、やりたいことは全部やらんと。人生は短いんやでぇ」
ニヒルな笑みのつもりだろうか。どうにも不格好な笑顔をして、多部さんがこちらをじっと見ている。カタカタとキーを打つ音がさざ波のように何十も重なっていた。
「未練っていっても、今更どうにもできないでしょう」
返すと不意に彼の表情が変わった。
咄嗟にしまった、と血の気が引いていく。なにかおかしいことを言ったような気がする。ほんの一瞬体が冷めて、熱くなって、呼吸がゆっくりと漏れていく。しかし彼はすぐに調子を戻して、
「トゥーレイトなんとか……やん。遅すぎるっちゅうこたぁないで」
と大げさに動きながら言った。俺は黙ってその仕草を注視していた。太腿の重なりを上下入れ替える。
チャイムが鳴ると、しんと静まり返っていた教室からざわめきが溢れてきた。ぞろぞろと出てきた生徒たちが順々に階段を降りていく。懐かしい、あの薄っぺらい教科書とペンケースだけを持って。
俺と多部さんの間を数十人がなだれながら降りていく。彼がふと笑顔をやめる瞬間を見た。嵐の前の夜のように不穏で恐ろしかった。
二月十七日
弟が学校へ行った。細い首にマフラーをたっぷり巻き付けて出ていった。それを見送ったが、まさか一日中監視するわけにもいかないので、俺はまた高校へと向かった。
それで多部さんとこの馬鹿げた寒さの屋上へ上がってきて、どことなくしんみりと語らう。
「まあ俺一人っ子やからあんまりわからんけど」
と彼が付け足す。
「特殊なんかもしれんけど俺のとこはわりとベッタリですよ。なんか、正反対なんですけど、それがまた居心地よくて」
弟は俺と違って優秀で、でも球技は下手くそで、ゲームも苦手な方だし俺以上に音痴だ。五ばかり並ぶ成績表で美術と音楽だけが三だった。俺は提出物もテストもひどかったので、いつも二だったけれど。
くだらないやり取りばかり思い出す。ふたりの間でしか通じない身内ボケがいくつもあった。架空のテレビショッピングごっことか、大昔のゲームのモノマネとか、本当に数えきれないほど。
「ほんまワガママで偉っそうで、嫌なやつなんですけど、相方みたいな……兄弟でこんなんおかしいかもしれんけど。ほんま大事です、あいつのこと」
冷やかされるかと思ったが、穏やかに返してくれた。
「ええことやんか」
「いやほんまに、良かったです。……ほっとしました」
喉に引っかけながらなんとか取り出した。遠くで信号が赤に変わる。多部さんが振り返って俺の瞳をじっと見つめる。
「寂しい?」
見透かしたようなことを言われても腹立たしく感じなかった。慈しみの視線が気色悪くない。彼がいつでもあんまり素直だから、俺も許されるような感じがした。
「寂しいんかも」
「いやそうよな、うん」
「なんか……たかが二週間ですよ。二週間で、……」
声が少し乱れた。血が頭の前側に集まってくる。かじかんだ手で鉄臭い手すりを強く握った。
多部さんは黙ってじっと立っている。灰色の空を眺めた。冬はどこもかしこも冷たくて、わけもないのに泣きたくなってしまう。
「みんなこうやって、日常に戻っていってしまうんや、って思った……」
それ以上はなにも言えなかった。ただ必死で泣くのを堪える俺に、多部さんは何一つ言わなかった。励ましも慰めもないのが何よりありがたかった。
二月十八日
また雪が降っている。少し前までは面白いくらいに晴れ続きだったのに、あっという間に冬へと逆戻りしてしまった。
「俺さあ、雪だるま作るのにハマった時があってさ」
と中庭の地面を撫でながら呟いた。踏み固められた雪は思いのほか黒ずんでいて汚い。屋根上の、シロップをかけて食べたくなる雪とは大違いだ。
「作りまくって熱出して、学校休んでる日もこっそり家抜け出して作りまくって、家の横のちっちゃい公園雪だるまだらけにしてえらいこっちゃになったことあるわ」
多部さんはどこかつまらなさそうに食堂を眺めている。教室を出ることも億劫なのか普段より人が少なかった。それにここの自販機は、補充が間に合っていないのか、「あったか~い」ばかり売り切れてしまっている。
「えらいこっちゃって何すか」
「いやもう、微笑ましい通り越して怖い感じになってもてな。近所のおばちゃんらとなんかカウンセリングみたいに話させられた。なんか学校で嫌なことあった? って」
ふっふ、と思わず鼻を押さえる。
遠く、食堂奥の厨房にもくもくと湯気がたっていた。俺は食堂常連ではないし、数えるくらいしか行っていないから、おばちゃん達も俺の事なんて忘れているだろう。ちょうど自分が彼女らの顔も名前も覚えていないように。
「てなわけで、雪だるまなら百戦錬磨ですわ。雪合戦はしたことないけど。寂しい男やからな。ロンリーウルフ多部」
「売れない芸人におりそう……やりたいですか? 雪合戦」
多部さんがふとこちらを見上げる。赤くなった鼻先が間抜けで似合っている。うん、彼はサンタよりもトナカイが似合う。
「未練なら、なんとかレートなんでしょ?」
「おっしゃ。エアー雪合戦、やろか」
言いながら彼が腕まくりをする。想像よりずっと細い腕だった。ほくろが三つもついていて星座みたいだ。
二月十九日
「多部さん多部さんてなんかよそよそしいわぁ」
むくれた顔で呟いた。
「じゃあ先輩でええやろ。多部先輩ィ」
と、先輩に接するにしては舐め腐った態度で返す。多部さんはそれでなんだか嬉しそうにするのだからわからない人だ。
「それやと部活の先輩みたいやん。むず痒いわ」
日向ぼっこをするほど天気は良くないが、自習ばっかりの教室を眺めているのもつまらない。今日はふたり屋上で風を浴びていた。このシチュエーション、なんだかザ・青春みたいで少し恥ずかしい。
「ほななんて呼べばいいんすか。多部、はちょっと、さすがになんか」
「なんかアダ名付けてや。俺ちなみに下の名前はながゆき」
「どんな字?」
「長いに幸せ。ゴーの行くやなくて」
多部長幸。その言葉の響きを味わうより、次の会話への恐怖が先に来ていた。どうやり過ごすか考えるだけで汗が滲む。
「佐々木くんは?」
「…………」
「下の名前。当てたろか」
勝手に逸らしてくれた。それからこめかみを捏ねて唸る。会話が少し遅くなるほど勢いの強い風が吹いていた。今日初めて知ったが、青春をやるのも大変なのだ。
「たかあき。たかのり……いやもっとイケイケやったりする? 佐々木コスモとかやったりする? 最近の子はそんな感じなんやろ」
「佐々木コスモは嫌すぎる」
「えーなんやろなんやろ。貴族の貴って付きそうな顔やけど」
「そんなん言われたん初めてですよ」
貴族の貴が付きそうな顔を掻く。
「正解は?」
「……内緒で」
よく回る口で文句をまくし立てて揺さぶられる。やっぱり言わないといけないらしい。
「………………遥 、す」
長幸くんが露骨に喜んだ。スケベ狐のようないやらしい目つき。
「ええやん、ええやん! はるちゃん!」
「次それ言うたらしばきますよ」
「なんでぇはるちゃんめっちゃいいやんかわいいやん」
ふん、と拳を振るった。空振り。嬉しそうに繰り返すのを見て、心の中では今後こいつを呼び捨てることにした。
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