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第1話
兄が立派過ぎると弟がグレる、というのはよくあることのようだ。
俺の中での兄は、スーパーヒーロー、憧れの人、比較対象、嫉妬と羨望の的、という順に変わっていった。
「汀(みぎわ)、でかい図体でソファを占領するなよ」
「何? 渚(なぎさ)兄、座りたいわけ?」
「いや別に」
言いながら、風呂上がりの兄は、俺が腰を浮かして左にずれると、タオルで髪を拭きながら、すぐ隣りに腰掛けた。Tシャツの薄い生地が、兄の骨ばった身体を包んでいる。いくら努力しても筋肉だけは手に入れづらい、と体質を嘆いている兄だが、この兄は俺が憧憬を抱くほどに優秀だった。
「狭いな。少しズレろって言ったろ」
二人がけのソファに、大の大人の男二人が掛けているのだ。狭いに決まっているが、俺は兄にじゃれつきたくて憎まれ口を叩く。
「こっちの台詞。少しでかくなったんじゃない? オニイチャン」
「お前みたいに図体ばかり大きくなったら置き場に困るだろ。馬鹿」
そして、肘鉄をされる。
兄は中学時代から男にしては「おしとやか」で勉強も運動も飛び抜けていた。ふたつ下の俺が一年の頃に、生徒会長になるわ、陸上の中距離選手として全国大会にいくわ、成績優秀で特待生として進学校への推薦が決まるわ、先生方の覚えも良く、俺と比較されては神童だと言われてチヤホヤされて、俺はよく大人たちから「平凡」の勲章をもらっていた。
兄弟なのだから、兄のように俺もできるはずだと思ったが、俺は風紀委員止まりだったし、体育祭で応援団長をするぐらいで、特待生の資格は逃し、兄と同じ進学校には一般入試で入った。もちろん、義理チョコを入れても、バレンタインに発揮される兄の数の暴力には、一度もかなわなかった。
「あの人、渚の弟なの? でかいね」
唯一勝てたのは体格ぐらいのもので、俺は兄の同級生からよく尋ねられたものだ。
「汀って言うんだ。努力家だよ、あいつは」
完全無欠の兄のような人間に、努力だけを認められても、俺には何もないと言われているようなものだった。兄が誰より努力を惜しまず真剣に打ち込み続け、今のポジションを獲得したか、弟の俺ほどよくわかっている奴はいない。そして、だからこそ、死ぬほど努力したその先に、結果が伴わない絶望感を、俺ほど身近に兄を見ていなかったら、きっと知りはしなかっただろう。
だが、社会に出ると、優秀さはそれほど明確に比較できるものではなくなる。成績やスポーツというわかりやすい指標の他に、社会には様々な評価基準があり、努力がかなわなくとも別の指標にエネルギーを投じれば、それなりになれることもわかってくる。
兄のような規格外とも、別の土俵でなら戦える機会がくるということを、最近、俺は知ったばかりだ。
「少し寄れよ。汀はただでさえ存在感があるんだから」
「俺、まだ成長期だよ」
「嘘をつくなよ」
「ほんとほんと。会社の健診で三センチ伸びてた。身長」
「まだ伸びるのか?」
兄は動揺を顔に出して絶望したような声音で問うた。俺は肺に新しい空気を充満させたような気分になり、上機嫌で笑った。
「うっそ。伸びるわけないじゃん。俺もう二十四になるよ。でも最近、膝が痛いのって成長痛かも。まだ伸びたりしてね」
「ま、おれも身長は少し伸びてたが」
「嘘っ」
「だったら何だ?」
「嘘つきは泥棒のはじまり」
「それをお前に言われるとはな、汀」
「俺が悪いんじゃない。向こうが誘ってきたんだよ」
俺が主張すると、兄は溜め息をついて首を振った。
「嘘ばかりついてると、足元をすくわれるぞ」
「渚兄も何か嘘つけば? おあいこじゃん」
「何かって何だ?」
兄には嘘のセンスがない。きっと真面目にお勉強をしてきたせいだろうと俺は思った。俺も勉強は真面目にしたが、下半身は不真面目だった。兄がどうして貯金ゼロで転がり込んできた俺を家に置き続けるのか、全く理解が及ばなかった。
「んー……妊娠させたとか、できちゃった婚とか」
「させたのか?」
俺が三センチ伸びてる話の時よりは、冷静な声が返ってくる。
「させた。なんちゃって」
「お前な……」
「そんなヘマしないよ。宇美さんとは別れたし」
「……最低だな、お前」
「褒めてくれてんの?」
「貶してるに決まってる。会社でお前の噂が出るたび、背筋が寒くなる。父の手前もある。ほどほどにしとけよ」
「はいよ」
宇美というのは兄の彼女だったのを、俺が寝取ったのだ。兄は品行方正に付き合っていたようで、彼女は処女だった。俺は兄への飢餓感を満足させるために彼女を貪った。結果、兄からの俺への評価は「ヤリチン馬鹿」に決まったらしくて、罪を告白した宇美とも、あっさり別れてしまった。正直、やりすぎたと今は反省している。
「汀」
「ん?」
「俺がなぜ女性を寝取られても、一文無しで転がり込んできたろくでなしのお前を追い出さないで置いているか、わかるか?」
「……わかんない。何で?」
兄は俺が顔を上げると、この上なく優しい笑みを見せた。こんな微笑を見せられたら、この世の女性という女性はすべからく兄の虜になるんじゃないかと思うような柔らかな笑みだった。
「こういうことだ」
兄はそのまま俺の方へと身体を倒すと、指先で俺の顎を持ち上げた。
そして唇が触れ、あろうことか俺の口内に舌が入り込み、俺の舌先に触れた。
刹那、チリッと痺れた。
毒にでも当たったみたいに、苦しくて息ができなくなった。心臓がバクバク言っている。兄はそんな俺の顔を見つめて、静かに蠱惑的な角度で首をかしげた。
「わかるか? 我が弟よ」
「わ……っ」
わかる、と言ってしまったら、何がもらえるのだろう。
それともわからない、と言ってしまったら、何か教えてもらえるのだろうか。
息が荒く、浅くなり、身体中が心臓になったみたいにドクドク言っている。渚兄はそんな俺を見て、「俺はそんなに旨そうに見えるか? 噛みつきそうな顔して」と余裕の笑みを浮かべて言った。
「……見える」
言う声が掠れているのが自分でもわかった。クソ情けない。
でも、俺の劣情を引き出すのが渚兄なのだから仕方がない。
「なら、食うか? 前菜もデザートもないが、この身体だけなら、お前にやれる」
「いいの……?」
兄は何も言わなかった。
ただ、嫣然と微笑んだあとで、額にデコピンをかまされた。
「イテッ」
「顔が真っ赤だぞ、汀」
俺が渚兄へと身体を倒そうとした瞬間、兄は髪を拭いていたタオルを俺に向かって投げて、席を立った。
「渚兄……っ!」
「お前、ほんとに馬鹿だからな。今日が何日か、ちゃんと考えてから行動しろよ?」
「っ……」
四月一日。
四月馬鹿の日。
エイプリルフールだ、畜生!
「まだお前には食わせられないな。もう少し大人になったら考えてやるよ。汀」
俺は涙目になった。俺と同じシャンプーの香りがして、渚兄を追いかけようとしたが、勃起していたせいで容易に立ち上がれなくなっていた。
「くそ渚、馬鹿兄」
兄は俺にとって、スーパーヒーロー、憧れの人、比較対象、嫉妬と羨望の的。
そして今、攻略対象になった。
(……兄弟なのに、キスしてしまった)
しかも、渚から仕掛けられた上に、溺れる前にタオルを投げられた。屈辱で肩が震え、唇を噛んだら血の味がした。
俺は渚のTシャツ越しに見える痛ましいほど骨ばった肩甲骨を目で追いながら、いつかこいつを屈服させてやる、と誓い、涙を拭った。
=終=
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