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第2話

 生活音が聞こえる距離というのは、相手のことを意識する。  そのことに気づいたのは、俺が兄の渚(なぎさ)の家に転がり込んで一年が経過した頃だった。 「ただいま」  その夜、渚が久しぶりに定時で帰ってきた。  ソファで寝っ転がって友だちとメッセージのやり取りをしていた俺は、間抜けにも仰向けのまま、上下反対の渚兄を見て驚いた。 「どしたの?」 「別に。たまには定時で上がるよう、調整された」 「誰に?」 「秘書に」 「あの人に? まじかよ。言ってくれれば飯つくったのに」 「たまには自分でやるよ。いつもお前に心配かけてばかりだからな」  渚はそのまま洗面所で手と顔を洗うと、戻ってきてワイシャツの袖をまくり上げ、冷蔵庫の中を覗いた。アイランド型のキッチンに、冷凍された玄米ご飯と、塩蔵ワカメ、豆腐、玉葱などが並べられる。俺がここに居候をはじめる前は、完全無欠のこの兄は当然のごとく自炊をしていた。冷蔵庫にはいつもつくり置きされた人参シリシリや南蛮漬けなんかがストックしてあって、料理本もそれなりにあったので、今では俺が、それを引き継いでいる状態だ。 「渚」 「兄をつけろ、兄を」 「今日、ご機嫌じゃん。何かあったの?」 「別に。秘書に仕事を切り上げて帰るよう言われただけだ。ちょうどキリがいいところで終わったから、持ち帰る必要もなくてな」 「それだけ?」 「それだけじゃ、悪いか?」 「別に」  久しぶりに包丁を使う兄を見る。渚は矯正された左利きの名残りがわずかに残っていて、料理の時だけは包丁を左手に持つ。そのことを知る者は多くはないだろう。父だって、秘書だって、きっとこんな渚を知らないだろうと確信できた。 「オニイチャン」 「ん……?」 「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」 「淹れてくれるならハーブティーがいいな」 「了解」  俺が冷凍庫からペパーミントの葉を取り出し、お湯を沸かす横で、渚は手慣れた様子で出汁を取り、豆腐とワカメと玉葱のスライスしたのをその中に放り込んだ。 「アジのマリネ、食っちまってくれる?」 「ああ。これ俺の好物だって、知っててつくってるのか?」 「知らない」  嘘だ。渚の好みは全部把握できる限りしている。  本当は、その口に入るものを全部管理したいとすら思うが、気持ち悪がられそうなので、そこは黙っていた。  スーパーヒーロー、憧れの人、比較対象、嫉妬と羨望の的、ときて、今や渚は俺の攻略対象だった。好きな人の好みは知っておくに越したことはない。渚の唾液が甘いことも、俺の記憶の中には刻まれていた。  渚がアジのマリネとワカメと豆腐と玉葱の味噌汁、それに玄米ご飯とホウレン草の胡麻和えをつくって並べている間に、俺は即席漬けにしてある大根の酢漬けを小鉢に出し、メニューに加えた。キッチンではシュンシュン沸かしたお湯が吹いている。ハリオの耐熱性のポットにミントと蜂蜜を加え、湯を注ぐ。その間にカウンターに二人分のカップを用意した渚が、箸を出して俺を待っていた。  俺がカップにハーブティーを注ぐと、兄は「ありがとな」と言って手を合わせた。  ひとりで食べる時でさえ、いただきますをする。 「汀(みぎわ)もこっちにおいで」  隣りの席を少し引いて、俺に明け渡す。  俺が座ると、カップを唇に近づけて、そっとその香りを味わった。 「お前、本当に家事、できるようになったな」  それが約束だったからな。最初に渚の家に転がり込んだ時のことを思い出すと、思わず笑みが漏れる。渚は俺に、自分のことは自分でできるようになれ、と言ったのだ。それには尻拭いも含まれていたが、俺はあれから遊んでないし、身辺はきれいなものだった。 「ごほうび」  俺がちょっと笑って横を向くと、渚は口をつけたカップをカウンターの上に置いた。 「甘えたなところは相変わらずだ」  言いながら、俺の少し突き出した顎を指で触る。  そしてちゅ、と唇が重なった。唾液の交換をするほどのキスは、あれ以来あまりなかったが、唇に触れるだけの口づけなら幾度か経験していた。兄弟でこんなのはおかしいと、思わないわけじゃなかった。でも渚は俺にとって特別で、特別すぎるから、つい貪ってしまいそうになる。  その日、渚の少し冷えた唇が離れていこうとしたのを、俺は衝動的に遮った。 「ん──っ……!」  抗議の声を吸い込むように、自分から口づける。同時に渚のうなじを片手でしっかり支え、離れられないようにしてから貪った。  ぢゅ、と音がして、唇が離れていくのを今度は止めなかった。  渚は少し眦を赤くして、ぎろりと俺を睨んだ。怒っている。静かに、密かに、そしてきっと深く。キスと同じぐらい怒ればいいのに、とその瞬間、確かに俺は思っていた。 「ごちそうさま」  俺がそれだけ言って、どんな顔をしたらいいかわからず、悪い笑みを浮かべると、渚兄はむすっとした表情で何か言いたげにしていたが、ついに言葉が見つからなかったらしく、最後に一言、こう添えただけだった。 「……許可した覚えはない」 「許可いるの?」 「した覚えはない。お前には」 「でもしてくれるじゃん。いつも」 「そういうことじゃない。お前には……」  兄はそこまで口走ってから、ぐいと袖で濡れた唇を拭った。 「お前にあるのは選択肢だけだ」 「襲われた気分?」 「……そうだな。お前に襲われたら、きっと俺ではかなわないだろうな」  その弱気な言葉に暴走しそうになる身体を食い止めるのは、骨がいった。  俺が噛みつきそうな顔をしていると、渚は苦笑した。 「俺はお前にとって、何なんだろうな?」 「攻略対象」 「そうか」 「俺と寝たいと思わせるための」 「お前、俺と寝たいのか?」  つい口走ったという体で、渚が目を剥いた。  したいと言えたらどんなに楽だろう。骨が軋み、筋肉が強張った。このまま力任せに襲いかかれたら、どんなにいいだろう。引き裂いて、噛み付いて、穿って、果てたら、どんなに気持ちいいだろう。 「……まあ、驚くまでもないけどな。お前がそう思うのも」  兄の唾液はミントティーの味だった。  正確には、蜂蜜の。  甘くて苦くて、もっと欲しくなる。  ──もっと、欲しくならせてやりたい。  俺がふいと顔を背けると、兄が左手で俺の後頭部をクシャッと撫でた。 「そういえば、──今日はエイプリルフールだったか」  言って、許してくれる時の兄の仕草に、俺はどうしてか、いきなり涙腺が緩んだ。 「欲しいものがあるなら、言えよ? 買ってやるから」 「──うん」  絶対に手に入らないかもしれないと思わされる鉄壁の防御と攻撃を、俺は躱すことができずに頷く。欲しくて仕方がないのに、奪い取るだけの勇気がなかった。破壊し尽くすだけの度胸がなかった。この関係を爛れていると言う奴がいても、俺は泥に両腕を突っ込んだまま、渚を呼び続けることしかできないだろう。 「これ、旨いな」  渚兄は、全部わかっているような横顔を晒して、右手で器用に箸を使いはじめた。  渚。  渚兄、俺は。  俺は、あんたが欲しい。  =終=

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