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第3話 エイプリルフール2026
渚(なぎさ)兄の嫌いなところ。
俺より出来がいいところ。
人望が厚く、他人を大切にし過ぎるところ。
誰より多く仕事をこなすくせに、弱音を吐かないところ。
サイボーグみたいに正確無比なのに、時々エラーを起こすところ。いや、これは嫌いなところじゃない。でも幼い頃から数え続けてきたから、渚兄の嫌いなところを新たに見つけるのは難しい。
「よう、汀(みぎわ)弟」
その日、俺が帰ると、リビングに芹沢がいた。渚兄の許せないところは、弟の俺には頼らない癖に、馬鹿みたいにでっかい番犬を侍らせていることだ。番犬は、だいたいいつも俺を下に見てくる。
「上がらせてもらってるぞ」
「……」
犬ごときに吠えかけられようが、喚きかけられようが、俺はビビらない。何度か対峙するうちに、きっと犬も学ぶだろう。俺の方が、ずっと上等でわきまえていて、いい奴だって。
「無視か? 相変わらず尖ってんな。んじゃ、この線で進めとくわ、渚」
「頼む、芹。悪いな。不肖の弟がこんなんで」
「いんや。面白いから別に」
芹沢は笑って立ち上がると、渚兄に背を向けた。引き際に俺の横をすり抜け、ぽん、と肩に手を置き「ま、がんばれ」と言われる。
は?
何が?
言われずとも、全然余裕で頑張っていますが?
番犬芹沢の大馬鹿野郎なんて眼中にないから無視をして、俺は入れ違いに存在を誇示するように、芹沢の温もりを上書きすべくソファに腰掛けた。
「いい加減、芹に挨拶しろよ、汀」
「何で?」
「失礼だろ。お前を買ってるんだ、あいつはあれで」
別に嬉しくも何ともない。
芹沢は渚兄と同い年の幼馴染で、万年二位だったことで有名だ。いがみ合うこともなく、すんなり渚の番犬ポジを獲得し、居続けた芹沢を、俺は軽蔑こそすれ、それ以上の感情を抱くことなど、まったくもってありえない。
「お前、あいつを犬みたいに見るな? 汀」
犬、という名詞がどこにかかるか曖昧な言い方を、たぶん渚兄はわざとしている。
「別に。……それより、もう日付超えるけど」
「ああ。エイプリルフールだな。賢くなったじゃないか」
「?」
「あいつがおべっか使うなんて、そうそうないぞ」
あの「ま、がんばれ」が、おべっかだと暴露した渚兄が、俺の機嫌を急降下させる。
きっとわざとだ。
「おべっかとか」
馬鹿にしてんのかと思った。
「あいつ、渚兄にもおべっか言うのかよ?」
「俺にはそつなくな。たまに嫌味を混ぜて」
「は? しねばいいのに」
俺の渚兄に嫌味とか、百万回再生したあとに惨殺バッドエンドで一千万回絶望させてやりたい。
「汀。芹を嫌うなよ。あいつは悪い奴じゃない」
昔は名字で呼んでいたのに、今は端折っている。それがどこか癇に障った。
「別にどんな感情も抱いてないし」
「どうでもいい奴に、お前、しねとか言うのか?」
「いいだろ、別に。それより、まだあのセクハラ役員、クビにできねえのかよ」
「お前の悪口に、おれは時々救われているよ。でも、芹を悪くは言うな。な?」
「……」
芹沢は、ハラスメントでも何でも仕掛けてくる役員連中への防護壁だから、死んでもらってはまだ困る。俺がもっと偉くなって渚の補佐ができるようになって、芹沢を蹴落とすまでは。会社で渚のことを敵視している奴らを残らずぶっ飛ばしてクビにして路頭に迷わすまでは、まあ望むなら、共同戦線を張ってやらないでもない。俺たち兄弟のパーソナルスペースに侵入してくるノンデリ行動は論外だが。
渚と話しはじめて、テーブルの上に纏められた資料の横に、飲みかけのワイングラスが置かれているのが目に入ってしまった。断りもなく、祝いごとがあった時に開けようと思っていた少し値の張る白のボトルを消費されたことに気付き、眉間を寄せると、渚が「俺だよ」と何かを察したように言う。
「旨かったよ。補充しておいてくれ。悪かった。次は、汀に開けてもらうから」
渚のこういうところだ。
「別に。どっちでもいいけど。どうしてもって言うなら」
「次は汀と飲みたい」
「……わかった」
俺は渚を許してしまう。
「ここ、くるか? 汀」
「ん」
詫び状みたいに脚を軽く叩いて、俺の頭部を太腿に乗せたがるところとか。不満げな視線を向ける俺の髪を犬を撫で回すみたいにクシャクシャにするところとか。気が緩んだ俺が瞼を半分閉じると「よしよし」とか囁いて、特別扱いするところとか。恋慕の情をチラつかせた俺が沼ってしまって抜けられない湖畔で、素知らぬ顔で釣り糸を垂らして俺を釣ろうとするところとか。
「あいつが番犬なら、お前は駄犬だな」
「!」
「駄目な弟ほど可愛い」
「っ……俺は」
駄目なんかじゃない。渚兄が優秀すぎて、普通に頑張っても眼中に入らないし、追いつけないだけだ。そんな苦悩も全部を知っている顔で、渚が俺に与える言葉は甘い。
「監視対象」
素面なら絶対に口にしない、渚のアルコール含みの声に、俺は悟ってしまう。
俺たちの父親がそういう性格だと、短くはない渚との月日の中で、芹沢もたぶん気づいている。渚はそれも受け入れて、芹沢を切らないし利用している。でも、それだけじゃないと俺は信じたかった。番犬野郎を、ただの計算高いクソ馬鹿野郎だと思いたくなかった。渚の隣りにいつもいられる芹沢が、入社三ヶ月足らずで覚えめでたく一足飛びに渚の隣りのポジへ転属させられたのが、一族郎党への猜疑を旨とする父の采配だったとしても、芹沢だって、わかっていて父を利用しているはずだ。
それを非難し糾弾することが、俺にはできないけれど。
だって言葉にしたら、渚が傷つくかもしれないから。
「お前は、俺みたいになるなよ? 汀」
どういう意味だろう。
渚の人生は今、信用できない人間だらけの針の筵を渡る苦行みたいになっている。でも、俺は違う。せめて俺といる時は違っていて欲しいと、俺は髪を優しく梳く渚の手首を掴んだ。
「ん?」
優しく問いかけられる、諦めの滲んだ眼差し。
渚が血の繋がった俺の兄であることは事実だ。俺は父の駒になるつもりも、芹沢を擁護するつもりもない。クソみたいな現実を受け入れつつある渚を、ひとりきりにするつもりもなかった。
「渚兄」
「どうした?」
「好き」
「……そうか?」
「俺、好きだから……渚」
頭部を少し持ち上げれば、渚の柔らかな唇に触れられる。待っているように見受けられるのは、俺の心眼が曇っているせいか。愚かな行いをやめない俺たちは、父の策略にはまっているのだろうか。
だとしても、俺は渚を裏切らない。
血の繋がりをありがたいと感じるのは、いつぶりだろう。どう足掻いても、俺は渚の弟だ。これだけは芹沢にも真似ができない。この世に生まれ落ちた瞬間から、俺の世界には渚がいた。誰にも奪えない絆が俺たちにはある。
「兄を付けろよ、汀」
切なげに、少し疲れた様子で繰り返される言葉を吸い取ろうと、俺はそっと顎を上げた。唇に触れたのは、拒まなかった渚のせいだ。
泣きそうな視線が、頬に落ちてくる。
渚は俺を誘惑する。餌を与える素振りで、駄犬に育て上げる。そうしなければ、守れないのか。なんて哀しい人生だろう。憤りを吐き出すことすら許されないなんて。
スーパーヒーロー、憧れの人、比較対象、嫉妬と羨望の的、攻略対象、狩るべき獲物。
そして今は、守護者たりえようとしている。
俺は、渚のこういうところが、大嫌いで、大好きだ。
=終=
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