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第92話 出立
レリエルの失踪を受け、城では早朝から緊急会議が行われ、アレスの即日派遣が決定された。
アレスは今、トラエスト城の城門を通り抜けたところである。堅牢で分厚い石積みのトンネルの下を一人くぐり、空の眩しさに少し目を眇める。
国を挙げて見送ると言われたが断った。一人で旅立ちたかったのだ。
肩には伝声鳩のデポがとまっていた。背中にはヒルデに渡されたリュックを背負っている。中身は山盛りの回復薬、連絡手段として通信鏡、栄養強化クッキーなどだ。
リュックをアレスに渡したとき、ヒルデはすっと右手を差し出してきた。
アレスは一瞬驚いたが、すぐに笑ってその手をしっかりと握った。
ヒルデは珍しく、何を言おうか思い迷う様子だった。出てきたのはこんな言葉だった。
「お前に頼ってばかりだな」
「頼れ、俺がやる」
アレスの即答にヒルデはふっと笑った。
「では、頼んだ」
出がけには、キュディアスにはまたもがしりと熱い抱擁をされてしまった。
ひどく生真面目な顔をして、
「ドンと行って来い」
と、それだけ。
「はい」
思わずアレスの口元が緩んだ。
城門から伸びる舗装道路を歩み、カブリア王国への荒れた街道に繋がる地点で立ち止まった。
西に横たわる荒野を見据える。青黒く聳えるラック大山脈、あの麓にある王国。愛しい故郷。
(無事でいてくれ、レリエル)
「デポ、ダチョウになってくれ」
「ダチョウ デハ ナイ!イケメンダチョウ、ダ!」
「はは、うん。イケメンダチョウ、な」
デポは羽ばたきながら、鳩顔のダチョウのような生き物に変化する。
デポの背中によじ登ろうとした、その時。
「アレス君!」
背後から声をかけられ、アレスは怪訝な顔をして振り向く。
後ろにいたのはやはり、宰相のジールだった。
城門を出て舗装道路を駆け、こちらに向かってくる。
「宰相!?な、なんでしょう。先ほど、全てお話しましたが……」
息を切らせながら駆け寄ったジールは、緊張した様子のアレスを見上げてにこりとする。
「会議ではちゃんとご挨拶できませんでしたからね。やはり宰相としてしっかりお見送りしないと!」
「あ、ありがとうございます、光栄です、お忙しい中わざわざ……」
アレスは顔を引きつらせながらも頑張って笑みを浮かべた。
「それにアレス君がずっと私に何かを聞きたそうにしていらしたのが、気になっておりまして」
アレスの顔から愛想笑いが消える。ジールを見ると、相変わらず食えないニコニコ顔である。
ああ、とアレスは理解する。
この人は俺が何を聞きたいか分かっているんだ、と。
アレスは、はっきりと尋ねた。
「宰相、レリエルに何を言ったんですか?」
ジールは白い歯を見せて小首をかしげた。
「大したことは言ってないですけどねえ。アレス君を傷つけられたくなかったら、天界開闢とは何か教えて下さい、とだけ」
唾を飲み込んだ。想像以上のゲスさだった。
まさかそこまで酷いことを言われ、レリエルが一人で悩んでいたなんて。
怒りがこみ上げてきた。ジールは怒りの火に油を注ぐようなケロリとした様子で、
「あー、もちろん嘘も方便というやつでして、本気であなたを傷つけるつもりなんてありませんでしたよ?」
「よっ……、よくもそんなことを!」
アレスは抑え切れず、ジールの襟首を掴んだ。拍子にそのベールが脱げ、白金のような髪が陽光にさらされる。
ここが城壁の中だったら、兵士が飛んできてアレスは捕らえられているだろう。
体の細いジールは、自分より大きなアレスに襟首を締め上げられてるというのに、まるで臆するところがなかった。片眼鏡をつけた目を眇めながら、
「宰相の私に汚れ仕事をさせたことを反省して下さい。あなたがいつまでも情報を引き出せないからですよ」
アレスは襟首を掴む両手に、ぐっと力をこめた。懸命に感情を押し殺した低い声で囁く。
「余計なお世話です。あなたが何もしなくてもレリエルは情報提供してくれました」
「それは失礼しました。つい、何かしたくなる性質 で」
「帰ってきたら、一発殴らせてもらっていいですか?」
「殴るだけでいいんですか?欲しければこの命だって差し上げましょう」
アレスは眉をひそめる。その眼差しは真剣で、まるで本気で言っているかのようだった。
「なにを……」
「殺したければどうぞ、私に出来ることならなんでもします。地位でも財でもなんでもあげますし、どんなことだってします、だから、どうか……」
そこでジールは自らを締め上げるアレスの両腕をぎゅっと握りしめた。
「必ず勝って下さい!なんだってしますから!必ず勝って民を救って下さい!」
懇願する目。それはまるで、我が子の命を守ってくれと医者に縋 りつく母親のような。
アレスは手を緩め、ジールを解放した。
押し黙ったアレスに、ジールは気恥ずかしげな苦笑を浮かべた。
襟元を整えると、憂いを帯びてアレスを見た。歯がゆそうに呟く。
「情けないやつだと思ってます?あなたに全てを背負わせ、縋 ることしかできないくせに、と。そうですね、私は無力だ……」
しばしの間があった。
ジールの言葉はアレスの胸に染み渡っていった。
この男を好きにはなれない。
しかし、身を賭 してでも民を守りたいという強い想いは同じだ。
ヒルデやキュディアスも、ジールと同じ歯がゆさを浮かべていた。本当は共に戦いたいのだと、心の底で叫んでいるような。
戦いたいのに戦う力を持たない男達。
アレスは男達のやるせない想いの全てを背負って、敵地に赴 くのだ。
アレスは足を揃え、背筋を伸ばし、額に手をかざし、敬礼する。
「どうぞ私に全てを背負わせ、縋って下さい。あなたが守るこの国の人々を、そして地球に住む全ての人々を、私が救います」
――俺に頼れ。俺がやる。
アレスのその姿勢は、常に迷いなく一貫していた。
地獄の六日間最後の日、自分一人生き残ったあの時からずっと。天使と戦うことが己の使命だと、そう思って生きてきた。
ジールはアレスを見据えると、やおら、その場に傅 いた。
地面に両膝をつき、両手を交差し、アレスに深々と頭を垂れる。
立て膝で頭を下げ、両手を胸でクロスさせるその敬礼は、帝国宰相が本来、皇帝にしかしない、最敬礼であった。
「あなたを今この地に遣わして下さった神に感謝します。英雄よ、どうか無力な私達をお救い下さい」
そこには見た目よりはるかに泥臭い、無私の政治家がいた。アレスは目を細める。
「ええ、必ず。でも、一発は殴らせてもらいますよ、レリエルの分ですから!」
ジールは微笑む。
「もちろん、どうぞ。お待ちしておりますよ、英雄のご帰還を!」
※※※
ジールはいつまでも、出立したアレスの背中に跪 き続けた。
たった一人、土の上で、その姿が見えなくなっても。
それが、国と民のために己が出来る、最後の「何か」であることを、分かっていたからであろう。
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