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第119話 天使の進化論

 神の寝室に入ったルシフェルは、天井から垂れる何重もの薄絹のカーテンをかき分けた。  最後のカーテンを引くと、寝台ですやすやと眠る神、そして傍らでその寝顔をじっと見つめるサタンが現れる。  ルシフェルは神を起こさないよう、小さな声で弟に話しかけた。 「神は……寝てらっしゃるのだな」 「ああ」 「サタン、お前に相談したいことがある」 「なんだ?」  神を見つめたまま、サタンは問う。 「まずいことが起きている。ミカエルがドゥムジを殺せという勅令を……」  サタンが顔色を変えてルシフェルに振り向いた。 「なんだと!?今、ドゥムジと言ったか!」  ルシフェルは、ああ、と何かを思い出した顔をする。 「そうだった、まだお前に伝えていなかったな。そうだついにドゥムジが現れたのだ」 「ドゥムジが……」  ルシフェルはうなずくとサタンを手招きした。二人で神の寝室を出る。隣室にてルシフェルはその心の高揚もあらわに、饒舌に語り出した。 「間違いない、彼こそ神の夫ドゥムジだ。神域結界の通過を許された人間の男!ドゥムジは今、この神の宮殿を目指している。門を開き神の元まで参じようとしている。第六の上級天使……受胎天使レリエルの導きによって!」   「……」  サタンは黙し、ルシフェルは手を胸に添えた。感激にうち震えながら。 「ドゥムジの条件は、先住の人間の中の頂点たる人間。下界、すなわちこの惑星の最高傑作たる生命体であること。彼こそが、摂理が見つけた地球最高の生命体!受胎天使レリエルは我々に命じられるまでもなく、自ら神域外に出てドゥムジを見つけ導いてきたのだ!これが奇跡でなくてなんであろう?全て天界開闢の摂理通りだ!」 「不要……」  淀んだ沼のような暗い瞳で、サタンは呟く。ルシフェルは怪訝な顔をする。 「……なに?」 「ドゥムジなど……人間の夫など不要!!」 「な、何を言っている!地球人の夫なくして天界開闢の第四段階……神の受胎は成されない!」 「神域を汚すいまいましい人間め!私が手ずから浄化してやろう!」 「どうしたサタン、まさか天界開闢の摂理に逆らうというのか!?」 「何が摂理だ、そんな歪んだ因果は私が断ち切る!私がドゥムジを殺し、真の天界開闢を行う!」 「神の夫を殺すだと!?」 「なぜ人間が神の夫に?なぜ我々が、天使が、神と交わることができない!」 「天使が神とだと!?何を狂ったことを!神は母、天使は子だ!母と子が交わるなど許されない!」 「原初の母星では、神は神の夫として選ばれた天使と交わり、子をなしていた!」 「それは、はるか遠い古代の話だ!まだ複数の神が並立していた時代の!現在の唯一神たる神は天使と交わることは決してない!天使の生殖能力は退化しているのだから!」 「くっ……」  ルシフェルの言葉に、サタンは拳を握りしめる。ルシフェルは追い討ちをかけるように言った。 「我々には子種がない!」  サタンは髪を掻きむしる。 「子種は……!何かのきっかけで再び生成されるはずだ、天使の生殖能力を復活させる方法は必ずある……!」 「仮に子種があったとして、我々の遺伝子でどうやってこの惑星、地球を次元上昇できる?新生天使に必要なものは、地球の全てを刻んだ遺伝子、地球人の遺伝子だ!」 「そんなもの……!」 「地球人の遺伝子を受け継いだ新生天使にしか、地球を次元上昇させることができない!それは神にすら不可能なことだ!」 「……」  サタンは顔を歪め口をつぐむ。ルシフェルはなだめるように言う。 「弟よ、どうか冷静になってくれ」 「ではなぜ……」  囁くような声が、サタンのその端正な唇から紡がれる。 「ではなぜ、天界開闢の第四段階は秘儀とされている?第四段階、神と人間の夫ドゥムジとの交配による、神の受胎。我々熾天使のみが知るこの事実」 「っ……」  ルシフェルは言葉に詰まり、気まずそうに目をそらす。 「それは……。知る必要のないことだってあるのだ……」 「知られたら高次生命体という神話が崩れ去るからだろう!我々がだだの侵略寄生生物に過ぎないことに気付かれるからだろう!」 「サタン!」 「何が進化だ!低次生命体の遺伝子に自ら進んで汚染される、これが天使の進化だなどと笑わせる!我々は原初の姿に戻らねばならない!」  ルシフェルは苛立たしげに両手を広げた。 「原初の天使に戻るなんて、もう無理だ!我々は皆、先の天界で、祖先が先住の人間を浄化し次元上昇させたあの星で生まれた。お前も私も、母なる神と、父なるドゥムジ……人間の間に生まれたではないか!」  サタンは目を見開き息を飲んだ。そして威嚇のような怒声を上げる。 「黙れ!言うな!二度とそのことを口にするな!!」  サタンのあまりの剣幕に、ルシフェルは息を詰める。 「サタン……」 「ただ神に精を注ぐためだけに存在し、死してはクローンで蘇り続ける人間の男……。意思も持たず、五感全てが機能せず、抜け殻のようなおぞましい存在……。 あんなものが我らの父だなんて!」 「それが……天使の進化の結果だ……」 「こんなもの進化ではない!我々はただ退化している!」  ルシフェルはイライラと首を振る。 「いい加減にしろ、サタン!それ以上戯言を申すなら、私はお前を思想犯として逮捕せねばならな……」  その時、鈴のような愛らしい声音が双子の間に割って入った。 「みつ……ちょうだい。おなかすいたの……」  二人は、はっと振り向く。  あどけない少女が、白い服を着た六枚の羽を持つ少女が、裸足で部屋の戸口に立っていた。 「神様……!申し訳ございません、蜜のお時間ですね」  神は成熟を迎えるまで、三時間ごとにゼリアルの蜜を摂取しなければいけなかった。  ルシフェルが謝罪し、サタンはすっと神に近づこうとする。 「わたくしが……」  その腕をルシフェルはぐっと掴んだ。サタンは不愉快そうにルシフェルを見る。 「なんだ、ルシフェル」 「蜜は私が神に差し上げると言ったであろう!口移しなどするお前には二度とさせないと!」  サタンは舌打ちをしたが、従う様子でおし黙る。ルシフェルはサタンの腕を離すとため息をつく。神の肩に優しく手を添えながら食事の間へと向かった。 ※※※  だがルシフェルは、思わぬ事態に見舞われた。  神が蜜を口にしないのだ。  神のそばにかしずくルシフェルは、皿からさじで蜜をすくい、神の口元に差し出している。  白髪の美しい少女は、口を一文字に引き結び、ルシフェルのさじを、ピンク色の瞳でじっと見つめるだけ。  ルシフェルは困惑しながら尋ねる。 「い、いかがされましたか?蜜でございます」  神は首を傾げる。 「また、るしふぇるなの?さたんは?」 「え?」  神は舌足らずなたどたどしい口調で、しかしはっきりと不満を述べる。 「さたんじゃなきゃ、いや。かみ、さたんが、いいの」  ルシフェルは驚愕に目を見張った。 「な、なんということを!神がそのようなことをおっしゃられてはなりません!神は全ての天使に対して平等であらねばならぬのですよ!」  神の顔がにわかに曇る。眉間にしわを寄せた。 「きらい。るしふぇるなんて、きらい」 「なっ……!どうか、ご自覚をお持ち下さい!そんな言葉は、神らしくありませぬ!」  神はふいと顔をそらす。 「あっち、いって。さたんを、よんで」 「神様!」 「さたん、きて。さたんが、いい。さたん、さたん、さたん、さたん……」  神はサタンの名を呼びながら、しくしくと泣き始めた。 「そんな……」  ルシフェルは皿とさじを手にしたまま、呆然とする。 ※※※  ルシフェルは憂鬱な気分で、弟を探した。  サタンは思った通り、記憶の間と呼ばれる書庫にいた。過去の天使の記録が刻まれた極秘文書の宝庫だ。  いつものように古代書を読みふける弟に、ルシフェルは声を掛けた。 「サタン……」  サタンは書物から顔を上げる。 「なんだ?」 「神の御食事なのだが、サタン、お前が行ってくれ」 「どうした?口移しが気に食わないから、俺にはさせないんだろう?」 「神が……お前でなければ嫌だとおっしゃるのだ」  サタンは眉を跳ね上げた後、うれしげに頭を振った。ぱたんと読みさしの本を閉じる。 「はは、困ったお方だな。そんなわがままを?」 「笑い事ではない!おかしい、以前の神とまるで違う!再生前の記憶がないのは仕方ないとしても、遺伝子上は全く同じお方であるはずなのに!あの、お優しく心穏やかで清らかだったお方が、再生なさったら、まるでわがままな子どものように……」 「無論、まだ子どもだ」 「成熟前だから、なのか?第三段階、神の成熟を経たら、かつての聡明でお優しい神におなりになるのか?それとも……」 「それとも、なんだ?」  その時。 「さたん、ここなの?」  背後から少女の声がしてルシフェルはびくりとする。 「神様、部屋でお待ち下さいと申したではありませんか!」  ルシフェルの(とが)めを無視し、神はサタンに駆け寄った。サタンはその体を抱き上げる。 「おや、こんなところまで来てしまわれたのですか?」 「やっと、みつけた。はやくきて、さたん。かみ、おなか、すいたの」  肩より上に抱き上げられ、神はサタンの顔をぺたぺたと撫で付ける。サタンはその小さな手の感触を堪能するように目を細める。 「それは大変でございますね。只今サタンが参ります。……ではなルシフェル」 「あっ……待っ……!」  神を抱きかかえ、サタンは行ってしまう。  その姿を見送るルシフェルの心に、ざわざわとした不安がせり上がってきた。 「それとも……サタン、お前のせいか……?お前が神を変えたのか?よもや、天界開闢の摂理に綻びが……!」

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