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第121話 アントゥム神殿(2) 摂理

 沈んで行く。  闇色の水の中に、沈んで行く。  アレスは真っ黒い海の中にいた。  目をつぶり底へと沈んで行く。  水は冷たくもなく、熱くもない。全ての感覚を失わせる死の海だった。  虚ろな意識のまま、アレスはその体を沈むに任せていた。   (ここは……どこだ) (おれは……なにかを……) (てん……し……。じん……るい……。ほろび……) (おれが……すくう……)  はるか遠い水面に、白い日輪のような光源が見えた。  だんだんと意識がはっきりしてくる。ミカエルと戦って敗北したことを思い出した。 (おれは、死ん…………)  アレスの思考が、急にはっきりした。 (死?) (死?死だと?馬鹿野郎!死んで、たまるか!)  アレスは動く。横になって沈みゆく体を縦に伸ばした。  必死に水をかき分け、水面を目指す。  死ねない。まだ死ねない。  自分一人の命ではないのだから。  アレスしか天使と戦えない。  自分がこの地球を、人類を、救わなければならない  だから死ねない。  その強い意志のままに、闇を蹴散らし、大量の泡を発生させながら、アレスは水面へと浮上して行く。  だんだん明るくなってきた水面から、二本の手が差し入れられた。 (手?助け?)  アレスは無我夢中でその手を掴んだ。  手はアレスを引き上げた。  アレスの体が水から出て、そのまま空中を上昇し、宙に浮かんだ。  灰色の空と、黒い海。それ以外何もない世界だった。  不思議な世界の上空、アレスは手を握られてぽかりと浮かぶ。  目の前でアレスの手を握っているのは、背中に沢山の虹色の羽を生やした、女の天使だった。羽が多すぎて孔雀のようだ。だが奇妙なのは羽よりもその身体だった。  一糸まとわぬ姿で、比喩ではなく本当に真っ白の肌、真っ白の長い髪、瞳すら白い。  まるで石膏で出来ているようだった。  石膏像のような女天使は口を開いた。 「遺伝子に魂が宿るのか、魂が物質化して遺伝子となったのか。どちらだと思う?」 「……は?」 「そなたが、地球だな?」 「何を……。お前は誰だ……」  白い唇が弧を描き、微笑む。 「(われ)は、摂理。全天使を統べる者。全天使の遺伝子の森の最奥に眠る、根源的一者」 「神、か?」 「(いな)、神すらも我が一部」 「意味がよく……」 「(われ)はそなたが気に入った。死と生まれ変わり、本来はそなたが天空宮殿に到達した後に行う儀式だが、大天使が熾天使の命令破りという変則事象(イレギュラー)を起こした。仕方がないからここで儀式を行おう」 「だから何を……」 「『結婚』だ!」 「……」 「我にそなたの持つ、地球の遺伝子をおくれ」  白い天使はそう、歌うように言う。宙に浮いた二人の体は、踊るように空中で回転を始めた。 「おい、ふざけるな、何を言ってる……」  天使に両手を繋がれ回転しながら、アレスは青ざめ聞き返す。 「考えたことはないか?なぜ自分だけ、天使でもないのに霧の結界を通過できるのだろうと。我が通過を許可したのだ」  アレスはごくりと唾を飲み込む。脳裏に、いつかヒルデが言い澱んでいた言葉が蘇った。 『お前はまるで、死の霧に耐えたのではなく、死の霧に……』  あの時ヒルデは、「死の霧に通された」と言おうとしていたのではないか。  白い天使は告げる。 「地球の遺伝子を受け継いだ子のみが、地球を次元上昇させる。我には地球の遺伝子が必要だ。我はアレス、そなたを神の夫に選ぶ。我らは夫婦(めおと)になろう。一緒に天使の子供らを成そう。(われ)が母、そなたが父だ」 (俺が………………神の夫?)  全身に怖気が走った。心臓が抉られるようだった。  秘儀、第四段階。  アレスの心に、あの謎めいた言葉が突き刺さった。  受胎には男と女が必要。それは当たり前のことだ。  女性体の神と交配するのは、男性体の天使だと思っていた。天使は全員が男性体なのだから、神の夫候補はいくらでもいるはずだと。  だが考えてみればレリエルは射精が出来ない。アレスは、天使には発情期のようなものがあって、発情期にのみ射精が可能なのかと思っていた。  真相はもっと単純で、ただ天使に子種がないだけなのだとしたら。  天使は神の夫ではない。神の夫は天使ではなく、人間。神は人間の……地球人の遺伝子を必要としている。  なぜなら地球を次元上昇(テラフォーミング)できるのは、地球人の遺伝子を受け継いだ天使だけだから。  アレスの中で、何かがふつふつと沸騰を始める。  衝撃。  屈辱。  そして怒り。  激烈な憤怒。  アレスは白い天使の手を振り払った。気分の悪い回転が止まる。アレスは宙に浮かんで、白い天使と対峙する。 「ふざけるなっ!!俺はお前達を止めに来たんだ!地球はお前達の物にはならない!」  白い天使は悲しそうな顔をした。 「ならば、助けられぬ。そなたはここで死んでしまう。いいのか?」 「構わない!俺が……『神の夫』が死ぬ事でお前らの計画を阻止できるなら、喜んで死ぬさ!」  白い天使は、ふっと笑った。 「阻止など出来ぬ。そなたの次に優秀な遺伝子を持つ地球人に、我が夫になってもらうだけ」 「なっ……」  白い天使はからかうようにアレスの顔をのぞきこんだ。 「阻止したいか?なら地球上の男を全て殺すか?」 「こ、この、凶悪な侵略寄生生物め!絶対に許さねえ!」  アレスは白い天使に飛びかかる。天使はひらりとそれを避けた。避けられて(くう)をつかんだアレスの背後で、天使は囁く。 「どうせ地球は天使のものになる。なら神の夫となって(われ)とともに生き続けようぞ。そなたの遺伝子が地球を支配するのだ、とても魅力的な話だろう?」 「糞食らえっ!」  宙に浮くアレスは背後に回し蹴りを放つ。それもまた避けられた。  白い天使はアレスの頭より高い位置で孔雀のような羽を震わせながら、 「それだけではない、そなたの遺伝子によって天使の究極進化がまた一つ進むのだ。何億世代にわたり沢山の星の最高の遺伝子を取り込んできた天使は、この宇宙で最も優れた生命体だ。そなたの遺伝子が、全天で最も美しい生命の糧となるのだぞ」 「くたばれって言ってんだよ!」  白い天使が、不意にアレスの懐に飛び込んできた。あっと思う間もなく、その白い腕がアレスの胸に差し込まれる。 「つっ……!!」  アレスは目を見開く。白い腕は深々と差し込まれているのに、アレスの背中を貫通しない。  まるでアレスの胸が霊界への門となったかのようだ。肉体の痛みはなく、ただ深々と白い腕がアレスの「内部」へと差し込まれている。  (セフィロト)を直接、触られていた。  白い天使の手が、十の魂構成子(セフィラ)を転がすように優しく揉む。  魂への直接攻撃とは全く違う感触、より凶悪でおぞましい行為だった。  強姦だ、と思った。  魂を強姦されている。  およそ人が感じうる極大の快感と不快感、その両方がアレスの魂に与えられる。 「やめっ、ろおおおおおおっ!」  白い天使はうっとりとした声音で言う。 「気持ちがいいだろう?さあ、儀式だ。そなたを神の夫として生まれ変わらせる」  魂が蹂躙され、粘土細工のように作り変えられる感覚。  同時に、アレスの全てが粉々に砕け散るような感覚。  気が狂いそうな体感だった。 「くっ……、あっ……、うあああああああああ!!」  殺されるよりもっと酷い、吐き気を催す陵辱。  アレスの魂はただ嬲られるように、犯され続ける。  蹂躙の果てに、白い腕がアレスから引き抜かれた。白い天使は満足げに呟く。 「そなたはドゥムジ、我が夫……」  アレスは胸を押さえる。  ようやく狂気のような拷問から解放されたが、自分が「変わった」ということがまざまざと分かった。  アレスは、今までの自分と全く違う何かに変質させられていた。  (くそったれ!俺の魂に何をした!)  そう叫びたかったのに、声が出ない。  それどころか突然、強烈な眠気がアレスを襲った。目を開けていられず、視界が闇に覆われる。  人格が消される、と気づいた。  これは二度と目覚めることのできない眠りだと。 (だめだ、自分を失うわけにいかない、俺の遺伝子を渡すわけにいかない!俺が人類を救うんだ!) (俺が助けなきゃ、俺が人類を……) (違う。……俺が滅ぼすのか?) (俺が、俺こそが人類を滅ぼすのか?) (これが結末だと?) (嫌だ……!認めねぇ、こんな結末、絶対に認めねぇ!) (頼む、誰か俺を起こしてくれ!俺の意識が消える前に!) (レリエル……っ!!) 「——アレスっ!」  耳に馴染んだ愛しい声音。  アレスはハッと目を開けた。  二度と戻れないだろう永遠の眠りから、すんでのところで引き戻された。  空を見上げれば、小さな羽の天使。  灰色の空の遥か高くから、小さな羽の天使がアレスに向かって舞い降りてくる。 「レリエル!」 「なにっ!?」  白い天使が空をふり仰ぎ驚愕する。 「なぜ受胎天使がここに!馬鹿な、ここはこの人間、アレスの内宇宙!受胎天使ごときには入り込めない領域……。いや待て、そなた体内に大量のアレスの遺伝子を融合させて……。そうかその同一遺伝子で同一の魂と見なされ内宇宙の領域壁を突破したというのか……!」  舞い降りてきたレリエルがアレスの腕の中に飛び込んだ。しがみついて泣きじゃくり、   「死なないで、アレス!愛してる、お前がいなくなったら、僕は生きていけない!」   アレスはレリエルの頭を撫で付けながら微笑む。 「レリエル、こんなところまで……」  白い天使が声を荒げた。 「受胎天使!何をしている、よくも儀式の邪魔を!」  アレスはレリエルを抱きしめて真っ白な天使を見据えると、にっと口角を上げた。 「ここは俺の内宇宙、つったな?お前は侵入者で俺がこの場の主人だったわけだ。じゃあ、俺なら簡単にここを抜けられるはずだ」  白い天使がしまった、という顔をする。 「じゃあな、茶番はおしまいだ!あいにく俺の遺伝子は、レリエルにしかやれないんだ」  アレスは上空を見上げる。  レリエルがこの領域に飛び込むために開けたらしい「穴」があいている。  アレスは全身に力を込めた。  体が、大砲の弾のように上空に飛び出した。  白い天使が焦燥の声音で叫ぶ。 「そんなっ!駄目だ、蘇ってはならぬ!ここで蘇ったら、その者はドゥムジではないのに、ドゥムジの力を!」  アレスは超高速で空へと突き抜けて行く。その腕にしっかりとレリエルを抱き。  灰色の空にあいた穴を抜けた。  陰鬱な世界の灰色の空が、突如、青に変わった。  地球の空の色に。    地球色の光が二人を包む。  二人は青空を、さらに高く上昇していった。

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