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第1話

「今日から高校生かぁ……」 ふう、と校門の前で溜息をつく。この春から新入生として高校に入学するのだ。普通は新しい環境に胸を躍らせるか、不安に押し潰されそうになるか、どちらかだろう。だが、彼はそのどちらとも違った。 最近、毎日がつまらない。二階堂(にかいどう)千晃(ちあき)は、高校一年生にしてスレた子供だった。思春期特有の、と言ってしまえばそれまでだが、彼の子供じみた諦観は、彼の持つある特性から起因していた。 『アルファは良いよな』 『人生勝ち組』 『何もしなくても一番なんだろ?』 数々の妬んだ目が、声が、千晃を一方的に羨んだ。 実際、何でも人よりは大体上手く出来た。勉強もスポーツも、何なら家庭科や芸術系の科目の成績だって悪くはない。身長も容姿も恵まれている。自身がアルファだと発覚してからは、成功体験を喜ぶこともやめてしまった。このまま生きていれば、何不自由なく幸福な人生を送ることが出来るだろう。 それが、つまらなかった。 千晃は大きな挫折を味わったことがない。やりたいことは大抵上手くいったし、取り返しのつかない失敗をした試しがない。そんな人生、まるで「恵まれたアルファ」の典型みたいでつまらない。もっと、人生は谷や山があって然るべきだ。その方がドラマチックで楽しいに決まっている。千晃はそんな考えを持っていた。 「このクラスを担当することになった、御園(みその)栄司(えいし)だ。よろしく」 だから、教卓の前で自己紹介する彼を見て、千晃は不躾な共感を抱いた。 (どうせこの人も、何不自由なく生きてきたんだろうな) 千晃より僅かに高い背丈、女好きしそうな涼し気な目元、大人っぽい落ち着いた声に、カッチリしたスーツがよく似合っている。クールな雰囲気を纏う彼は、まさにエリートのアルファといった感じがした。これから一年間、彼と毎日顔を合わせなければならないのかと思うと、少し憂鬱になった。彼を見る度に、面白みのない自分を思い出してしまうからだ。 御園の担当科目は数学で、一年生は全員取ることになっている。授業の内容は、分かりやすいが特に面白くもない、といった感じだった。当てる生徒を前もって指定してくるので、突然当てられるようなこともないし、理不尽に難しい問題を解かされることもない。2回に1回は小テストがあることを除けば、そこそこやりやすい授業だった。 (今日も無表情だなぁ……) ただ、彼の顔はいつも鉄面皮と言って良いほど変わらない。無駄に整った造作のお陰で、微妙に圧を感じる。叱ったり声を荒らげたりすることはなかったので、怖いとは思わないが、冷たい人という印象を受けた。授業の後も、ぐるっと教室を見渡して、質問が無さそうならすぐに職員室へ帰ってしまう。ホームルームの時でさえ、笑ったりすることはなかった。デフォルトの表情が眉間に皺を寄せているので、怒っているのかとさえ思うほどだ。 「御園先生、イケメンだけどちょっと話しかけにくいよね」 「分かる、私達相手にされてない感じする」 「どうせ彼女いるんだろうな〜」 「いなくてもうちらにはワンチャンないっしょ」 女子からの人気はそこそこ高いようだったが、やはり近寄り難いイメージが強いらしい。確かに、子供に興味はありませんという雰囲気だ。それならどうして教師になったのだろう、と思わなくもなかったが、どうせ給料や安定性で選んだ職種なのだろう。そんなことに興味はなかった。彼とは精々一年間の付き合いだ。当たり障りなく過ごせば、接点も自然と消える。そう思わなければやっていけなかった。 人の噂というのは早いもので、同じ中学の連中から千晃がアルファであるという情報は瞬く間に周囲へ拡散されていった。それ自体は別にどうだっていい。だが、それを聞いて寄ってくる人間はとにかく不快だった。アルファと仲が良いから何だというのだろう。彼らにとっては、それが一種のステータスになるらしかった。 教師陣の中にも、千晃がアルファだと知って褒めてくる人がいた。別に、何か努力してアルファになった訳ではないのに、そんなことで褒められるのは馬鹿馬鹿しかった。逆に、千晃の性を知っているはずの御園は何も言ってこなかった。同じアルファだからだろうか。 (高校ってこんなに息苦しい場所だっけ……) 息がしやすい場所を求めて、何故か校舎裏にある花壇の近くにまで来てしまった。柄にもなく植えられた花を眺める。暖かい日差しに照らされて、水の粒がキラキラと輝いた。物言わぬ花達は、確かに人間より余程環境に良いだろうとぼんやり思った。 「……っ……」 (……何の音?) 周囲で何か物音がして、キョロキョロと辺りを見回す。再び音がした方に歩き出すと、徐々に鮮明に音が聞こえるようになる。 「っ…………はあ」 人の声だ。苦しそうな呼吸音が聞こえて、迷わず歩みを早めた。こんな見つかりにくい所で、もし一人で倒れていたら危険だ。 校舎の陰から顔を出すと、壁に寄り掛かるようにして立っている人影があった。その顔に見覚えがあって、思わず目を瞬かせる。 「……御園先生」 バッと振り向いた彼の顔に朱が差していて、潤んだ目が驚愕に見開かれる。風に乗って甘い匂いがふわっと漂ってきて、荒い呼吸の原因が分かった――発情期だ。今、千晃の目の前に発情した“オメガ”がいる。 「お前、なんでここに」 「っ、先生こそ、こんな所で何してるんですか」 まさか彼がオメガだとは。フェロモンに軽くあてられて、頭がクラクラする。発情したオメガとこんな至近距離で会うのは初めてだ。御園は苦しそうにしながらも、千晃と距離をとるために後退りした。 「見て分からないのか? ……いや、分からなくていい。とにかく、俺から離れてくれ」 「なんで保健室に行かないんですか? ヒートが来るって分からなかった?」 「周期が狂ったんだ……っ、おい、近づくな。まさかもうあてられたのか?」 言われていることは理解できたが、千晃は足を止めなかった。完全に理性を失ってはいなかったが、衝動に抗うのが勿体ないように感じたのだ。こんなに強い欲求に突き動かされるのは久しぶりだった。彼のことを、自分のものにしたくて堪らない。 自由の効かない御園が離れるのと、衝動のままに千晃が近寄るのとではあまりにも差があり過ぎた。あっという間に距離を詰めて、彼の手首を掴む。熱い体温が彼なのか自分なのか、最早分からなかった。 「っ、離せ!」 腕を引かれた勢いのまま、壁に両手を突いて彼を壁際に追い込む。目の前でヒュ、と喉が鳴ったのが聞こえた。身の危機を感じて、彼が唇を戦慄かせる。 「おい、何考えてる」 「どうやってあんたを犯そうかなって」 「趣味の悪い冗談だな」 「冗談だと思う?」 ギリ、と手首を押さえる力を強めると、御園が小さく呻き声を上げた。スーツのボタンに手を掛けると、信じられない物を見るような目で見下ろされる。 「何してるやめろ、はっ倒すぞ」 「片手で俺のこと退かせるならやってみなよ」 必死に肩を押されるが、全く力が入っていない。ビクともしない体に、御園が悔しそうに歯を噛み締めた。 「こんな所で、真昼間から生徒に犯されるってどんな気分? 俺だったら情けなくて泣いちゃうかも」 「やめろっ、お前、まだ正気だろう! こんなことで人生棒に振る気か!?」 それもいいかもしれない。熱に浮かされて、もう何が正解か分からなくなっていた。当たり障りのない人生を送るより、少しくらいスパイスがあった方が面白いのではないか。それがたまたま、今日だったというだけの話だ。 ワイシャツの隙間から滑らかな肌が見えて、思わず舌舐めずりする。その上にある黒い首輪も、興奮を煽る材料になった。下から上へ首元を舐め上げると、御園の身体がわなわなと震えた。大きく息を吸う音がする。 「――いい加減にっ、しろ!!」 「いッ――……った!」 ガツッと向こう脛を思い切り蹴り飛ばされて、流石に手を離してその場に蹲る。彼はその隙に抜け出すと、ポケットから何かを取り出して千晃の顎を掴んだ。 「っちょ、何」 「大人しくしろ、ただの抑制剤だ」 白い錠剤を口に放り込まれ、手のひらで口元を覆われる。咄嗟に剥がそうとするが、何故か力関係が逆転していた。さっきまで弱々しかったはずが、今はビクともしない。 「やっと薬が効いてきたか」 苦々しく笑ってそう零した御園が手を離した頃には、錠剤は口内で溶け切って無くなっていた。ぜえぜえと肩で息をする千晃に、御園が服を整えながら毅然として口を開く。 「今回は俺の不注意が原因だからな。強姦未遂は不問にしてやる。ただし、次は無いぞ」 パタパタと肩の埃を叩いて、踵を返す。千晃は何も言い返せず、ただ黙って彼の背中を見つめ続けた。彼がいなくなったからか、薬の効果が出たからか、身体の熱がすぅっと冷めていく。段々と頭が冷えてくると、自分のしでかしたことの重大さに気づいて血の気が引いた。 (俺、なんてことを……) アルファである自分が、オメガを、それも担任の教師を強姦しかけたのだ。ヒート中なら事故で済まされるケースもあるが、訴えられればまず負ける事案だ。危うく犯罪者になる所だったのだ。未成年でも少年院送りはまず免れない。 (しかも俺、めちゃくちゃ変なこと言ってたよな……) 衝動にかまけて、何だかとんでもないことを口走っていたような気がする。年上の教師に向かってあんな口を利くなど、失礼にも程がある。何より調子に乗ったのが恥ずかしくて、穴があったら入りたいくらいだ。 (次会ったら謝らないと……) 昼休みはあと三十分近く残っていた。昼食はまだ食べていなかったが、食欲が湧くはずもない。流石にすぐ彼に会いに行く度胸はなく、宛もなく校舎の外を昼休み中ずっとうろついた。 終礼の後、声を掛けようとした千晃に目もくれず、御園は職員室へと足早に戻っていった。職員室へ入っていってまで謝罪する気にはなれず、諦めてそのまま下校する。明日にすればいいだろう、という千晃の思いを裏切って、御園は翌日、学校を休んでいた。そしてその後三日間、彼が姿を現すことはなかった。 金曜日の朝、ようやく復帰した御園はマスクをしていた。それ以外は変わらずいつも通りで、ホームルームが終わると確かな足取りで教室を出ていった。 (先生、具合悪いのかな……) 純粋に心配する千晃の耳に、周囲の男子の潜めた声が入ってくる。 「御園、絶対オメガじゃん」 「三日も休むとか絶対ヒートじゃん。オメガ確定だよな」 (…………あ、そっか) 発情期は個人差があるが、大体三日から五日で終わる。ちょうどヒートの始まりに出くわした千晃は、そのことをすっかり忘れていた。今回は誘発された突発性の短いヒートではなく、ヒートがずれ込んだだけだったのだろう。そう言えば周期が狂った、と御園も言っていた。 (もう出てきて平気なのかな) マスクをしていたから表情はよく分からなかった。もしかすると、まだ熱っぽいのを隠しているのかもしれない。そう考えると、そわそわと落ち着かない気分になった。先日見た、彼の上気した顔が脳裏に浮かぶ。あれを他の人も見るかもしれないと思うと、何となく面白くなかった。 (大体、人のことそうやって詮索するなよ) 無神経な彼らに苛立つが、いちいち突っかかって事を荒立てるつもりもない。ただただ、千晃が不快なだけだった。 放課後。結局、一度も声を掛けられないまま教室を出る。途方に暮れて、一縷の望みをかけて職員室の前を通ると、運良く出てきた御園と目が合った。お互いに立ち止まる。 「あ、の……先生」 「……二階堂か」 名前を覚えられていたことにドキリと心臓が跳ねた。担任教師なのだから、当たり前と言えば当たり前だ。千晃の顔を見て、再び歩き出す。 「場所を移すか」 そう言われて着いていった先は進路指導室だった。これは間違いなく説教される。覚悟して扉を閉めた千晃に、御園がマスクを外しながら苦笑する。珍しい顔だった。窓を開けながら、千晃に声を掛ける。 「そんなに固くならなくていい。まあ座れ」 恐る恐る椅子に腰掛けると、御園は苦笑を引っ込めていつもの真面目な表情に戻った。 「さて。分かってはいるが、一応用件を聞こうか」 「あ、あの、俺」 膝の上でぎゅっと拳を握り締めて、小さくなりそうな声をどうにか絞り出す。 「この間は、本当に、すみませんでした……」 ちゃんと目を見て言えたのはそこまでだった。視線を机に落として、言い訳にもならない理由をぐだぐだと連ねる。 「俺、あの時本当にどうかしてて……あてられてたのかもしれないけど、本当に、許されることじゃない、ですよね」 「……落ち着け」 顔を上げると、御園はやはり苦笑を浮かべていた。目を伏せた顔はどこか色気があって、ヒートがまだ続いていることを示していた。 「あれは俺の不注意が招いた事態だ。お前が気に病む必要はない」 「でも、」 「俺が自己管理を怠っていた以上、教師という立場として俺の方に責任がある。お前は、巻き込まれただけだ」 有無を言わさない圧の強さに、言い募ることもできず押し黙る。ふう、と御園が溜息をついて、眉間の皺を深めた。 「……正直に言うと、肝が冷えた。お前の将来を、俺が潰すことになったかもしれないんだからな」 その言葉に目を見開く。どこまで行っても、彼は千晃を責めるつもりは毛頭ないようだった。あまつさえ、自分ではなく千晃の心配をしている。少し怖いくらいだった。 「俺は別にいい。生徒に犯されたくらいで、職を失う訳じゃないしな」 良くはないだろうと思ったが、無駄口を叩く余裕はなかった。御園は真剣な表情をしていた。 「だが、お前は違う。事故だろうが何だろうが、この先の人生ずっと、前科者というレッテルを貼られることになる。そんなことにならなくて、本当に良かった」 目の奥が優しい色をしていて、彼は千晃が思っていたような冷たい人物ではないのだと実感した。何不自由なく生きてきたアルファではなく、千晃のような子供にさえ虐げられるオメガという弱者の立場で、ずっと生きてきたのだ。そんな強い人のことを、自分はずっと誤解して、勝手に疎んでいた。 「本当に、ごめんなさい……」 御園本人は知らないことも含めて、自然と頭が下がっていた。頭を上げた時、御園は困ったように眉を下げていた。 「……そうだな。あの時、俺が事前に薬を飲んでいなかったら、俺はお前を止められなかっただろう。今頃、お前はもう学校にいなかったかもしれない」 想像して、さあっと身の毛がよだつ。本当に間一髪だったのだ。唇を噛み締める。 「だから、緊急用抑制剤をちゃんと持ち歩くこと。オメガの発情期は平均で高校2年が最初だと聞く。そろそろ用意しておかないと、またこういうことになりかねないぞ」 自衛しないとな、と励ますように言われて、一も二もなく頷いた。二度と、こんな思いはしたくない。そんな千晃を見て、御園が思い出したように話題を変える。 「そういえば二階堂、お前この間の小テストほぼ満点だったぞ。やるじゃないか」 「え、本当ですか」 「ああ。ややこしい計算問題を入れてやったんだがな……ケアレスミスが無ければ満点だった。ちゃんと見直しはしろよ」 「は、はい」 話はそこで終わりだったようで、「帰るぞ」と御園が席を立つ。窓を閉める彼の後ろ姿を、ぼんやりと見ていた。こんな風に、面と向かって自分のやった何かを褒められたのは久しぶりだった。 この人は、ちゃんと「二階堂千晃」を見てくれている気がする。アルファの子供ではなく、一人の子供として。とても喜んでいる場合ではないのに、そのことが無性に嬉しかった。 「おい、何突っ立ってる。早く来い」 マスク姿の御園が廊下で千晃を呼ぶ。その目は、既に普段の教師の表情に戻っていた。 面談して以来、千晃は彼への態度を180度入れ替えた。自分でも驚くくらい、彼に懐いたのだ。 「先生、おはよ!」 「ああ、おはよう」 「昨日の小テスト、俺どうだった? 結構自信あるんだけど」 「まだ教えられんな。来週まで大人しく待て」 御園も御園で、そんな千晃に最初は戸惑っていたが、数日で慣れたのか特に何も言うことはなかった。いつの間にかタメ口を利くようになっても、彼は気にした様子はなかった。意外にも、必要以上に馴れ馴れしい生徒を疎むタイプではないらしい。 (本当に俺、どうしちゃったんだろ) 自分でも、どうしてここまで態度を変えてしまったのか、原因が分かっていなかった。何となくそうしたくて、気づけばこうなっていた。以前までは勝手に嫌っていた上に、普通はあんなことがあったら、もう近づきたくもなくなるはずなのに。 一つだけ分かっていることがある。こうなってから、学校に来るのが楽しくなった。友達がいない訳では無いが、最近は昼休み中も彼にちょっかいを掛けに行く始末で、最早彼に会いに来ていると言っても過言ではない。 「お前、友達いない訳じゃないだろう。わざわざ教師に粉かけてないで、クラスメイトと喋ってこい」 「だって、先生の方が話が合うんだもん」 御園は話しかけにくい人物だったが、話してみれば存外話しやすかった。若者が好むような音楽やゲームの話だって出来たし、映画をよく見ると言うのでオススメの映画を教えてもらったり、勿論勉強に関する相談には、数学以外でもいつでも乗ってくれた。同級生とのくだらない雑談より、彼との会話の方が余程有意義だと感じた。 そして、様子が変わったのはどうやら千晃だけではないらしい。 「最近、よく周りから『笑うようになった』と言われるんだ」 手製の弁当をつつきながら、御園がぽつりと呟いた。確かに、彼は最近、話の途中でよく笑うようになった気がする。少なくとも、千晃との会話中にはよく笑っている。 「笑ってないつもりはないんだが。そんなに笑ってなかったか、俺は」 「笑ってなかったね。ニコリともしない感じ」 「そうか……」 「でも、最近俺と話してる時はよく笑ってるよね。口角上がってるだけかもだけど」 微かに、と評するレベルであれば、御園は千晃の前ではよく笑みを浮かべている。授業中やホームルームの最中も、たまに微笑んでいることがあった。それを見た女子達の間でさらに人気が上がっていることを、本人は恐らく露とも知らないだろう。 「…………」 彼は自分の口元を押さえて、考えるように暫し黙り込む。そして自分の中で納得したのか、再び箸を動かし始めた。千晃も黙々と購買のパンを齧っていると、彼が感慨に耽けるような声音で呟いた。 「……お前のがうつったのかもな」 「え?」 「お前がよく笑うから、知らないうちにつられて笑ってるのかもしれん」 彼の言葉を聞いて、開いた口が塞がらなかった。よく分からないが、それは何だか、教師と生徒の境を越えた発言のような気がした。そうでなくとも、以前の彼ならそんな発言はしなかっただろう。それとも、千晃が彼のことを知らなかっただけで、彼は元々こういうことを言う性格だったのだろうか。 彼はこちらを見ていなかったが、殊更に優しく、慈しむように笑っていた。かあ、と耳が熱くなる。顔を見られていなくて良かったと思った。こんな顔を見られたら、何を言われるか分からない。 その瞬間、千晃は完全に彼に落ちた。出会って約2ヶ月の、よく晴れた日のことだった。

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