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番外編9

真っ白な病室の、真っ白なベッドの上で、白い肌の女性が横になっている。カーテンは閉め切られて、部屋は外の世界から完全に遮断されていた。 彼女のその細い首には、チョーカーが嵌められている。身を守るための強固な物ではなく、噛み跡を隠すための華奢な物だ。白くて細いそれは、包帯のようにも見えた。 千晃(ちあき)は花束を体の前に掲げて、一歩中に踏み入る。彼女はぼうっと虚空を見つめて、千晃に何の反応も示さなかった。異様な雰囲気に少し尻込みして、しかしその前に立つ栄司を思い出して何とか口を開いた。 「初めまして、御園(みその)さん」 名前を呼ばれた彼女は、虚ろな目をゆっくりとこちらに向けた。 千晃の誕生日の数日前。いよいよ番になれる日が近づいてきて、千晃はウキウキと落ち着かない気分を抑え込みながら日々を過ごしていた。そんな折、彼と久しぶりのデートを終えて、家で寛いでいた時だった。母親からのメッセージに返事をしているうちに、ふと思ったことがあった。 「俺も、栄司(えいし)さんのお母さんに挨拶したい」 以前から話にも出てこないのでタブーなのかと思って避けていた話題だったが、先日栄司が挨拶に来てくれた時に母がいる事実が発覚したのだ。それを聞いた時から、ぼんやりと考えていた。 栄司は千晃の言葉に暫く無言でいたが、考えている様子だったので千晃も黙って待った。メッセージをちょうど返し終わった辺りで、栄司が重たい口を開いた。 「少し込み入った話になるがいいか」 「うん」 「……今からする話はあまり気分の良い話じゃない。それでも聞くか」 「うん。栄司さんのことなんでしょ」 彼に関することは、なんでも受け止められる気概がある。そこに関しては自信があった。何せ三年間彼を待ったのだ。何が起きても、彼だけは手放さないと心に決めていた。 「…………そうか」 栄司は苦しそうだった。無理しなくていい、と言いかけて、彼が決めたことなのだからと慌てて口を噤む。いずれは聞かねばならない話だと思った。 「……俺の、出自の話になるが」 彼の口から語られたのは、予想していた以上に壮絶な彼の過去だった。 「……俺の母親は、オメガだ。10代の時に、初めての発情期で、望まない妊娠をした。しかし産む決断をして、それで産まれたのが、俺だ」 言葉を失った。同時に、家族の話が出てこない訳がハッキリと分かった。彼は恐らく、一般的な家庭とは縁遠い人生を送ってきている。 「父親は分からない。会えと言われても会うつもりもない。俺の親は一人だけだと思っている。大学を出るまでは母と二人だった」 彼女は女手ひとつで栄司を育て、彼を大学にまで行かせた。途轍もない苦労をしたはずだ。 「大学を出てからは一人暮らしになったんだが、そこから……母が、おかしくなった。いや、元々そんな予感はあったんだ」 明確に彼女が体調を崩したのは、栄司が実家を出てからだった。精神を病んで入院したと聞かされて、栄司は急いで帰省して見舞いに行った。しかしそこで待っていたのは、普段と変わらない母の姿だった。 「あなた、一年目で大変な時期でしょう。早く帰って仕事頑張りなさい」 そう言って彼を送り出した彼女は、気丈な母親の顔をしていた。 「……だが、一ヶ月後に見舞いに行った時には、母はもう別人のようになっていた」 表情は抜け落ち、目に光は宿っておらず、髪には艶がなく、頬はこけて痩せ細っていた。今まで見たことのない母の姿に動揺する暇もなく、医者から告げられた事実に頭が真っ白になる。 彼女は、一言も喋らなくなっていた。今では感情の起伏が無いのだという。食事や排泄も、介助なしには出来ないのだそうだ。少し見ない間にすっかり病んでしまった母親にどう接すればいいのか、栄司には分からなかった。 原因がはっきりしない以上、どうすることも出来ないと言われ、栄司はいよいよ希望を失った。それでも物言わぬ母の元へ、今も一月に一度は見舞いに行っている。 「一人にするべきじゃなかった。今でも後悔している。もう遅いかもしれないが……」 「……そんなことが、あったんだ」 辛かったね、とも、残念だね、とも言えなかった。そんな生温い言葉では言い尽くせないと思った。彼が強い人間である理由が、ようやく分かった気がした。彼もまた、強い人に育てられていたからだ。 「……だから、挨拶はいい。来ても分からないだろうしな」 「……そんなことないと思うよ」 千晃の言葉に、栄司が俯いていた顔を上げる。不安そうな彼に、千晃は元気づけようと笑って言葉を掛ける。 「反応が無いだけで、ちゃんと聞いてると思うよ。俺も、栄司さんのお母さんに会いたいし」 栄司はギュッと眉根を寄せて、目を伏せた。 「……そうか。なら、都合の良い時に、見舞いに行くか」 「うん。お花とか買ってった方がいいよね」 近所に花屋などあっただろうか。手元のスマートフォンで検索をかけながら、彼をどう励ますべきか考えていた。 (俺の家族に会った時、どんな気持ちだったんだろう) 普通の家庭を羨んだりしたのだろうか。幸せそうな家庭を見て、気分が沈んだりしたのだろうか。元気な母親を見て、自分を責めたり、したのだろうか。番になる者として、栄司の助けになってやりたい。千晃の心はその思いでいっぱいだった。 初めて会った義母は、病気で入院しているとは思えないほど綺麗な人だった。痩せ細っていても分かる人形のような顔立ちは、目の形や鼻筋が栄司にそっくりだった。 「二階堂(にかいどう)千晃と言います。栄司さんとお付き合いをさせて頂いています」 やはり彼女の反応は無い。しかし目はこちらを見ていたので、意識はある程度しっかりしているのだろう。 「……千晃は俺の教え子だったんだ。卒業するまで待って、それから付き合い始めた。我慢強いし、誠実で優しい、良い奴だよ」 栄司からそんな褒め方をされたのは初めてで、思わず顔を見る。栄司はチラと千晃の方を見て、再び母親の方に視線を戻した。 「今年でもう三年目になる。こいつも二十歳になるし、番になろうと思ってるんだ。だから、今日は紹介しようと思って連れてきた」 連れてくる気無かった癖に、と思いつつ頭を下げる。頭を上げて、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。届きますように、と祈りながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。 「絶対に、栄司さんを幸せにします。僕が栄司さんと番になることを、どうか許してください」 お願いします、と再び頭を下げる。いくら待っても、やはり返事は無かった。とん、と肩を叩かれて顔を上げる。栄司は困ったような顔をして笑っていた。 「……まあ、そういうことだから。これからも、たまにはこいつと一緒に見舞いに来るよ」 「たまにはって、いつでも呼んでよ」 「お前も色々忙しいだろう。都合が会うのを待っていたら、一年に一回ですら難しくなる」 「そ、そんなことないよ……多分」 四年は試験でてんやわんやになる。確かに、千晃と栄司の予定を擦り合わせるにはかなりの労力が要りそうだ。 長居しても彼女の負担になるだろうと、早々に病室を去ることにした。荷物を纏めて立ち上がった千晃の耳に、微かに風の音が届いた。しかし、窓は開いていない。栄司を見ると、荷造りの手を止めて、驚愕に目を見開いていた。 「…………栄司」 掠れた声に、バッと顔を彼女に向ける。虚ろな目が、しっかりと栄司の姿を捉えていた。 「……母さん」 栄司の声が震える。よろよろと近くに寄って、真正面から彼女の顔を覗き込んだ。 「……仕事は、大丈夫なの」 彼女の口から出た言葉に、栄司は顔をくしゃっと歪めた。彼女の細い肩を手のひらで摩る。 「…………大丈夫だよ。今日は休みだから」 「……無理、しないのよ」 「うん…………分かってる」 耐えきれなかったように、栄司の目から涙が零れ落ちた。シーツに落ちたシミを、彼女がぼうっと見つめる。 「……悲しいの?」 栄司はふるふると首を振った。涙を浮かべながら、どうにか笑顔を作ってみせる。 「幸せなんだ。幸せで……だから、心配しないでよ、母さん」 「…………そう」 栄司の笑顔につられるように、彼女が柔らかく微笑んだ。その顔が栄司にそっくりで、優しい表情にぎゅうっと胸が締め付けられた。小さく嗚咽した彼の背中を摩っていると、彼女の視線が千晃に移される。何だろうと思って見つめ返すと、彼女は笑ったまま千晃に話し掛ける。 「…………栄司を、よろしくね」 「…………はい」 その言葉に耐えきれなくなって、千晃も彼の横で涙を流した。 二人が帰る頃には、彼女は再び言葉を発さなくなっていたが、表情は来た時よりも幾らか柔らかくなっていた。医師にそのことを告げてから、病院を後にする。回復の兆しが見えて、看護師達も嬉しそうにしていた。 「良かったね。お母さん、元気になりそうで」 「……ああ」 運転する千晃の隣で、彼は泣いて赤くなった目元を擦っている。あんなに泣いている彼を見たのは久しぶりだった。それだけ、母親のことが気掛かりだったのだろう。 「次に会う時は、もっとお話できるようになってるといいなぁ」 「そうだな。話したいことが山ほどある」 栄司はスッキリとした表情をしていた。帰路も半ばに差し掛かった辺りで、ふと栄司がスマホを車の前面に立てかける。 「なに?」 「ついでに、ここまで行けるか」 「うん、いいけど」 どこ行くの、と聞いても答えは返ってこない。住所を直接入力してあるところを見るに、店などではなく普通の民家のようだ。車を走らせるうちに、周りが田んぼや畑に囲まれていく。 「着いたよ」 「ああ。そこ、駐車場がある」 駐車場に車を停めると、栄司は慣れた様子で民家の一つに足を踏み入れた。表に小さな庭のある、少し古めの日本家屋だ。知り合いの家だろうか、と考えていると、何の躊躇いもなく栄司がドアを開ける。 「ちょ、」 「ただいまー」 「ただいま!?」 驚く千晃を放り出して、栄司は勝手知ったる様子で靴を脱いで床の間に上がる。慌てて後を追いかけ、恐る恐る居間に入ると、老婦人がちゃぶ台の前に座っていた。入ってきた栄司を見て、驚いたように目を瞬かせる。 「あら、栄ちゃん」 (栄ちゃん!?) 「ただいま、おばあちゃん」 (あ、おばあちゃんか!) なるほど、と納得したが、それとこれとは話が別だ。何の説明も無しに連れてこられた千晃はどうしていいか分からず、その場に立ち尽くす。 「まあまあ、よく来たわね。手を洗っていらっしゃい、お茶をいれてくるから。そちらの方は?」 「えっと」 「俺の彼氏」 「あらまあ、そうなの!」 「え、あ」 しれっとそう言って洗面所へ消えていく栄司について行こうとすると、嬉しそうな祖母に肩を掴まれてその場に立ち止まる。 「もっとお顔をよく見せて、あらあらハンサムねぇ。お幾つかしら?」 「こ、今年で20歳になります」 「まあ、若いのにしっかりしてるわね。栄ちゃんたら、昔から男の子の趣味は良かったものね」 (なんか複雑……!) 祖母の言葉にドギマギしながら、どうしたものかと苦笑いを浮かべる。 「千晃」 「にゃおっ」 「え、何?」 振り返ると、白い物で視界を覆われる。やけにもふっとした感触と聞き馴染みのある愛くるしい鳴き声に、その正体が猫であることを理解した。抱き上げられた身体をぷらんと宙に浮かせ、間延びした声を上げる。 「にゃー」 「虎吉だ」 「虎吉」 腹が白くて頭が黒い模様の、どう見ても綺麗なハチワレ猫だったが、名を虎吉というらしい。随分と強そうな名前を付けられたものだ。 「相変わらずお前は懐かないな。ん?」 「にゃーん」 (デレてる……) 心なしか不服そうな表情の猫に頬擦りをかます栄司の口角は上がっている。混沌とした空間から逃げるように洗面所へ向かい、手を洗った。 「急にどうしたの、連絡も無しに珍しいじゃない」 「見舞いに行ってきたついでに寄った。母さん、今日喋ったんだよ」 「あら……本当? そうなの……」 「うん。おばあちゃんも近いうちに行ってみたらいいと思う」 「そうね、そう……あらまあ、そうなの……」 (……そっか、早く知らせてあげたかったのか) 栄司らしからぬ行動だとは思ったが、思いが先走った結果だったのだろう。何も聞かなかったことにして、今日は大人しく付き合うことにした。会話が再び始まったタイミングで、居間に戻る。 「千晃さんと仰るのね。栄ちゃんのことをよろしくお願いします」 「はい。絶対に栄司さんのことを幸せにしてみせます」 「あらあら、だって栄ちゃん。良かったわね」 「あー、はいはい」 祖母のからかう様な口調に対し、ぶっきらぼうに返す栄司は子供っぽかった。彼の幼少時代が窺えて、何だか嬉しかった。 「ごめん、折角寄ったけどあんまり長居できないんだ」 「あらそう、残念」 「また来るから。千晃、車出してくれ」 「え、あ……うん」 本当に一瞬だけだった。確かに、栄司は午後から予定があるし、千晃も課題を片付けなければならない。帰るにはいい時間だった。 「あ、お野菜ある? 何か持っていく?」 「いいよ、まだうちにある」 「ちゃんと食べなきゃ駄目よ、栄養バランスも考えて……」 「分かったよ。千晃がちゃんと作ってくれてるから、大丈夫」 「あら〜、それはいいわね」 冷蔵庫の前で会話する二人の後ろから、千晃をじっと見つめる小さな影があった。しゃがんでじりじりとにじり寄ると、向こうからゆっくりと近づいてくる。 「…………」 スンスン、と服の匂いを嗅ぐと、ツンと澄まして目の前を横切っていった。ついでと言わんばかりに、脚の脛に身体を擦り付けられる。その様子を傍から見ていた栄司が、どこか羨ましそうに呟く。 「気に入られたな」 「え、本当に?」 分かりにくい。まるで栄司さんみたいだね、と言うと怪訝そうな顔をされた。 「じゃあまた」 「お邪魔しました」 「はーい、また来てね」 座席に乗り込み、車を発進させると栄司の祖母は見えなくなるまで玄関から見送ってくれた。 「……栄司さんさ」 「なんだ」 思ったことを率直に口にする。 「お母さん似なんだね」 「そうだな」 祖母とはあまり似ていないのが分かった。特にお喋りな感じが。 「祖母の家によく通ってたのは小学生くらいまでだからな。お世話にはなったが、おばあちゃんっ子って程でもない」 「そうなんだ」 「ああ見えて偏見も無いし、余計なことも……たまに言ってくる時もあるが、突っ込んだことは言ってこないし、良い人なんだぞ」 「うん、それはなんかまあ、分かるよ」 とにかく良い人そうなのは分かった。栄司も肩肘張らず落ち着いた様子だったし、良い関係なのだろう。それが分かってほっとした。 「連れてきてくれてありがとう。また来ようね」 「ああ。可愛かっただろ、虎吉」 「栄司さんに可愛がられてるのはよく分かったよ」 「可愛いから仕方ないな」 よほど可愛がっているらしく、実家で撮った写真を眺めてはまた口角を弛めている。愛猫鑑賞の邪魔をしないように、音楽のボリュームを少し下げた。 「しかし、忙しいな」 「そうだね。栄司さんは特にそうじゃん」 「……そろそろ纏まった休みが欲しいな」 「そうだね……」 何気なく聞き流したこの言葉に、大きな意味が込められていたことを、千晃はまだ知らない。

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